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線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

旧東京音楽学校奏楽堂と滝廉太郎

2013年08月24日 20時46分19秒 | 音楽
先日、東京出張だった。ちょうど上野恩賜公園近くだったので、東京芸術大学、旧東京音楽学校付近をうろついてみた。すると旧奏楽堂が目に入った。

ここは、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だったそうだ。昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、昭和63年1月に国の重要文化財に指定された。

その建物はこんな感じ。

たまたま現在は建物保全のため、休館中であった。しかし、この歴史のある建物を見たのは初めてであった。

中には入れなかったので、うろついてみた。すると、見たことのある銅像を見かけた。


滝廉太郎像だ。15歳で東京音楽学校に入学、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばす。明治時代はぎこちない歌が多く、日本人による作品が期待され、名曲「荒城の月」が生まれる。その他の代表作「箱根八里」「花」は、いまだに小中学校の教科書に掲載されている。また「お正月」「鳩ぽっぽ」などの童謡作品もよく知られる。

1901年、ヨーロッパ留学生として、メンデルスゾーン設立のライプツィヒ音楽院に留学し、ピアノや対位法などを学ぶ。しかし、間もなく肺結核を発病し、1年で帰国することになる。その後、大分県で療養していたが、1903年に満23歳で逝去。

滝廉太郎は、こうした歌曲や童謡のイメージが強いが、1900年には日本人初のピアノ独奏曲「メヌエット」が作曲される。また死去の4ヶ月前には、絶筆となるピアノ曲「憾(うらみ)」を残した。この“うらみ”とは、憎しみの気持ちではなく、心残り、無念、遺憾といった気持ちのこと。自筆譜の余白には「Doctor!Doctor!」と走り書きがあったといい、迫り来る死への思いの表れだといわれている。

この「メヌエット」と「憾」は、楽譜も出版され弾くことができる。特に「憾」は、ドイツ的な重厚な感じをもつニ短調、6/8拍子の小品だ。しかし、終結部は何とも激情的な終わり方である。若い滝廉太郎の思いを想像するだけで、このコーダは何とも言えない雰囲気を醸し出す。

当時、不治の病であった結核に冒されていたことから、滝廉太郎の死後、彼の多くの作品は焼かれてしまったのだそうだ。23年間の人生で、残された曲の少なさ。しかし、心に残る作品が今でも演奏することができる。

東京出張で、思いがけず滝廉太郎像にふれた。そして日本の音楽の黎明期の頃のことを、勝手に想像して帰ってきた。
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