出前の歴史は言い訳の歴史である。
歴史によって鍛えられ、磨き抜かれ、選び抜かれた単語ばかりだ。
「いま出ます」ではなく「いま出るところです」という臨場感あふれる言い方。
「いま出ました」と言ってしまっては、店側の持ち時間は極端に制限される。
しかし、「出るところ」には、無限とも言える時間の幅がある。
たった今注文の制作にとりかかった場合から、今まさに店の戸を開けて外に出るところまで含まれる。
「今出るところだって」とお母さんは家族一同に明るく伝え、一同は「なんだ、そーだったのか」と明るく信じる。
だが、永年鍛えられた「出前の言い訳のプロ」の前には、急造の「出前の催促のアマ」は無力である。
この一家の天丼とカツ丼や天ぷらそばは、まだ店の調理場にある。
しかもカツとエビ天はまだ生だ。
さらに10分が経過して、一家は暗雲に包まれる。
お父さんは、さっきたたんだ新聞を再び拡げて読み始めるが、その目は活字を追ってはいない。
お母さんは頬づえついてテレビを見るが、その目はウツロだ。
このとき不意にチャイムが鳴る。
「きた!」
このときの「きた感」には強烈なものがある。
新聞を読んでいたお父さんは、ピクッと身体をふるわせ、お母さんはガクッとつんのめる。
ところが、このピンポンはダスキンだったのだ。
このときの絶望感、無力感、そして空腹感もまた強烈である。
そしてついにお父さんは立ち上がる。
最初は押し殺した声で「もしもし内藤食堂さんかね?」と言い、突然声が大きくなって「だいたいおまえんとこはいったいどうして…」
と言いかけたとたん、再びチャイムが鳴って「おまっとうさん」の声が。
お父さんは慌てて「今きたから」と急に猫なで声になってしどろもどろに電話を切る。
ついさっきまで暗い目をしていたお母さんが、湯気の立つお盆をニッコリと受け取っているのを見て、ついお父さんは「ご苦労さーん」と明るく声をかけてしまうのである。
今回は注文してないが、ラーメンのラップをはがす時はご用心…
などと、くだらない話でしたとさ、チャンチャン(^^♪
秋景色フォトの追加
ではまたお会いしましょう(^^♪