はなこのアンテナ@無知の知

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『6才のボクが、大人になるまで』(原題:BOYHOOD、米、2014)

2014年11月15日 | 映画(今年公開の映画を中心に)


今年見た中でも、個人的には最高と思える作品のひとつ。

6才の少年とその家族の、その後の12年間の軌跡を描いた作品である。

異色なのは、主要キャストを変えずに、
12年間に渡って、ひとつの物語を紡いだこと。

それはつまり、キャストにとっての12年間が、
約3時間の作品の中に凝縮されているとも言える。

サイド・ストーリーとして、メイキング映像も見てみたいものだ。

全編を通じて流れる楽曲のセンスも良く、
各々のシーンをより一層印象深いものにしている。

DVD化されたら、是非とも手元に置きたい作品である。



 当初は息子も誘って家族で見るつもりだったが、息子は興味がないと言うので、夫婦だけで見た。本作は、ひとつの家族の12年の記録と言う形が、私達夫婦にとっても思いがけず、これまでの子育てを振り返る契機となり、感慨深い作品となった。

【あらすじ】

 メイソン6才。母と姉の3人でテキサス州の小さな街で暮らしている。"自由人"の父メイソン Sr(イーサン・ホーク)は、彼が4才の時、母と離婚して以来、1年半も行方知れず。若くして母親となったメイソンの母オリヴィア(パトリシア・アークエット)は、「中途半端な学歴のままでは今後十分な収入も期待できず、母子3人の生活が立ち行かなくなる」と、一念発起して大学に戻ることを決め、母子は祖母の住むヒューストンへと転居する。

 そこへ、ある日突然舞い戻って来た父。風来坊の父だが、姉もメイソンも父のことは大好きだ。両親の関係はもう戻らないが、親子関係に変わりはない。以来、姉弟は時々、別れた父と会うようになる。その後、母は大学で二番目の夫と出会い、その連れ子の姉弟も加わって6人で暮らすことになるのだが…

 メイソンは少年から大人へと成長する中で、日々、さまざまなことを経験して行く。その間、家族にもさまざまな変化が訪れる。


【感想】

 映画史上初の試みで、12年間に渡り、両親姉弟の4人の主要キャストを変えずに、ひとつの家族の物語を綴った本作。

 子役の夏休みの期間を利用して、年に3~4日間を撮影に充てたと言う。しかし、時の流れが見事なまでに自然に描かれていて、エピソードの連なりが姉弟の成長と両親の加齢を違和感なく映し出している。さらにオーデションで見出した6才の子役(エラー・コルトレーン)の成長に合わせて、その都度、役柄の性格付けも行うなど、想像以上に丁寧に作り込まれた作品のようである。

 コルトレーン青年にとっても、自身の成長が、美しい映像・音楽と共に物語の中に記録された本作は、かけがえのない宝物となったのではないだろうか?

 また、子ども達の成長とリアルタイムで撮影が行われた為、その時々のトピック(例:ハリー・ポッターブーム等)も巧みに作品の中にエピソードとして取り込まれ、この12年間の世相の記録映像としても興味深いものがある。

 さらに、本作は米国社会の現状をありのままに活写し、その後追いを続ける日本社会にも多くの示唆を与えるものとなっている。

 例えば「ステップ・ファミリー」の問題である。ステップ・ファミリーとは、子持ちの男女が離婚後、別の相手と再婚したことで新たに成立した家族の形である。婚姻によって生じた血縁のない親子関係、兄弟姉妹関係は、「血縁」と言う決定的な絆がないだけに、その関係作りには誰もが悩み、苦労するようである。

 本作の家族も、両親の離婚と再婚により、複雑な家族関係となっている。このことが、多感な少年期を過ごすメイソンや姉サマンサ(ローレライ・リンクレーター)の心に、時に複雑な影を落とすものの、本作はそうした問題点だけに留まらず、さらに従来の血縁関係を越えた新たな家族の在り方も描いて見せて印象的だ。

 その下地として、本作でも敬虔なクリスチャンの「隣人愛」が見え隠れしているのだが(人種を問わない養子縁組も、この隣人愛に基づくものなのだろう)、同様の問題に直面した時に、強固な宗教的バックボーンもなく「血縁」に拘るだけの日本人に、果たして米国人のような柔軟な着地ができるのか、或いは日本人なりに別の解決方法が見出せるのか、気になるところではある。

 次いで、印象的だったのは、米国のホーム・パーティ文化である。本作では、家庭で行われるパーティの様子が、何度となく描かれていた。バースデー・パーティに始まり、ティーンエージャーが親の不在中に友人を招く、教師が教え子を自宅に招く、そして、我が子の高校卒業を祝うパーティ。その何れもが、気取りなく親しい人を招いて行われている。

 私も海外駐在中に現地の日本人社会の慣習に倣って(とかく娯楽の乏しいイスラム圏だったせいか、招き招かれるホーム・パーティが、現地の日本人にとっては一種の娯楽であった)、何度かホーム・パーティを開いたが、ホステス役がどうも苦手な上にパーティ料理のレパートリーも少ない為、毎回、四苦八苦した思い出だけが残っている。付け焼き刃で、自信のなさもあって、どうしても「きちんとゲストをおもてなししなければ」と必要以上に身構えてしまう自分がいたようだ。

 それだけに劇中のホステスの自然体で和やかな雰囲気が羨ましかった。結局、パーティのホステス(ホスト)にしてもゲストにしても、幼い頃から何度も経験を積み重ね、体得して行く文化のひとつなのだろう。

 最後に改めて気付かされたのが、米国の家庭における我が子の高校卒業の「人生の節目としての重み」である。

 日本では大学や専門学校の学費も親が負担するのが殆どという状況の中、20才の成人式でさえ、高額な晴れ着を親に準備して貰うなど、親におんぶに抱っこの状態で、大半の子供の実質的な巣立ちは、大学や専門学校を卒業した時点だと思う。しかも就職後も、結婚するまでは、親元に留まる子供が少なくない。

 一方、米国では、一部の富裕層を除けば、大半の学生は、大学の学費を高校時代のバイトや学生ローンや奨学金で賄い、寮生活でも親からの仕送りはなかったりするなど、高校卒業時点で、親からの経済的自立を果たしている。高校卒業を機に、親元を離れる子供も多い。だからこそ、親にとっても、子供にとっても、高校卒業は特別な意味を持っているのだろう。男女ペアで参加するプロムも、重要な巣立ちの儀式として位置づけられているようだ。



 私も、来年にはひとり息子が大学院を修了し、就職を機に家を出る。それだけに、スクリーンの中のパトリシア・アークエット演じる母オリヴィアの嬉しさと寂しさが綯い交ぜとなった心情が、胸に痛いほど伝わって来た。そして、「オリヴィアに比べたら、私なんて、息子は24才まで自宅で一緒に過ごしてくれたんだから、6年も余計に過ごしてくれたんだから、寂しがってちゃ、いくら何でも子離れしなさ過ぎよね」と自分自身を慰めたのだった(親バカモード全開ase)。 

 リチャード・リンクレイター監督は、インタビューで本作について、以下のように述べている。

「僕にとって、この映画の主役は『時間』でもある。我々がどのように時間と付き合っているか、自分達の人生をどう感じているのか、誰にとっても考えさせられる何かが、この作品にはあると思う。みんな大人になり、成長を経験しているのだから…」

 人と人との心理的距離感、それに少なからず影響を及ぼす、人生における「時間の流れ」に、一貫して拘り続けて来た監督らしい言である。


 時間は過ぎて行く。時間は誰にも止められない。だからこそ、今、この時は尊い。

 17世紀のオランダでも、同様の考えのもと、ヴァニタス画が描かれた。過ぎゆく時間との付き合い方を考えさせると言う意味では、この映画は、"現代のヴァニタス画"とも言えなくはないか?



【パトリシア・アークエットのこと】

 テレビドラマ『アリソン・デュボア』に長年親しんで来た者としては、パトリシアが虚構の世界で長年に渡って、"デュボア家"以外にも"家族"を持ち続けていたことに、正直驚いた。ドラマではシーズン毎に髪形が変化していたが、本作でも同様であり、不思議な感慨を覚えた。と同時に、スクリーンの中でまたもや見せつけられた、彼女の母親役としての希有な存在感に圧倒された。本当に巧い女優だと思う。


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