本作は、幼い頃に「自閉症スペクトラム」と診断された、ある少年の心の成長を描いた物語であるが、同時に一般には知られざる国際数学オリンピックの代表選考過程や実施状況の描写も、サイド・ストーリーとして楽しめるものとなっている。
私の身近にも、たまたま息子の同級生など自閉症児が何人かおり、彼らの幼い頃から20年以上に渡って接して来たこともあり、興味深く本作を見た。本作では、時折挟み込まれる主人公の目を通して見るこの世界の描写が、現代アートを思わせる色彩の饗宴と抽象性で印象的だった。
ひとくちに自閉症と言っても、個人によって顕れる症状や障害の程度はさまざまだ。
息子の同級生のある男の子はサヴァン症候群の一種なのか、抜群の記憶力の持ち主である。とても恥ずかしがり屋の少年だったが、私のことはちゃんと「A君のお母さん」と認識してくれて、こちらから話かければ応えてくれる子であった。小学校までは地元で通い、中学からは養護学校に通ったようだが、高等部を卒業後は近所にある大手企業に職を得ることが出来た。
一方、同じマンションに住む、共に自閉症という兄弟は兄が息子と同い年なのだが、兄弟二人共息子とは別の小学校に通っていた。だから詳しいことは分からないのだが、こちらは兄弟でも症状が異なっているようだ。
同じマンションに住んでいるし、彼らの母親(会えば、いつも元気な声で挨拶してくれる気さくな女性だ)とも交流があるので、私も彼らとは20年以上に渡って根気強く接して来たつもりだ。
マンションの内外で比較的よく遭遇する兄の方は最近になって漸く私の存在を意識してくれるまでにはなった。しかし、挨拶しても未だに応えてはくれない。私を一瞥すると恥ずかしがって足早に去ってしまう。母親の話では養護学校の高等部を卒業後は職業訓練校に通ったらしいが、未だ就職出来ていないようだ。
弟の方は無口で幼い頃多動の傾向があったが、成長するにつれて多動は見られなくなり、今では一見したところでは自閉症児とは分からない佇まいである。しかし、マンション内で会っても、一貫してまるで私など目の前に存在しないかのような振る舞いで、20年以上経っても一切関係が築けないままだ。
幼い頃から接して来ただけに私としてはその動静が気にかかる3人だが、正直なところ、未だに彼らとどう接したら良いのか迷っている。日本は欧米先進国と比較して、自閉症に関する学術的研究や社会での理解が遅れていると言われるので、多くの人が私と同様の戸惑いを感じているのではないかと思う。
話を映画に戻すと、主人公の少年は他者とのコミュニケーションが苦手で、食事や行動、嗜好に独特の強い拘りがあり、産み育てて来た母親でさえ彼との接し方に戸惑うほどなのだが(←その様子が切なくて気の毒なくらい)、幼くして数学に特異な才能を見いだされ、小学生の頃から数学オリンピック出場経験のある数学教師の個別指導を受けることになる。
そして、高校生の時に国際数学オリンピックの英国代表候補者に選抜され、16人の候補者から6人の代表に絞り込まれる合宿に参加することになるのだ。
彼にとっては飛行機への搭乗、親元を離れて見知らぬ他人といきなりの海外(しかもアジアの台湾である!)での共同生活、得意な数学での優秀なライバル達との競争、と初めて尽くしの経験である。「変化が苦手」な自閉症児にとっては大変なストレスであったに違いない。
しかし、その合宿で彼は彼なりにさまざまな経験をしたことで、精神的に大きな成長を遂げるのだ。
本作は、合宿仲間との関わりを通して主人公の心情が徐々に変化してゆくさまを丁寧に描き出し(地元の学校のクラスメイトと違い、「数学」と言う共通項で互いを認め合う関係性が良かったのだろう)、さらに、もうひとりの自閉症児の苦悩も描いて、見る者に問いかける。
特異な才能のない"変人"(→自閉症児はその特徴から、その理解に乏しい周囲からは"変人"と見られやすい)では、生きる価値がないのか?
それは、こうも言い換えることが出来るだろう…
強くなければ生きる価値がないのか?
役に立たなければ生きる価値がないのか?
平凡では生きる価値がないのか?
そして、人と違ってはいけないのか?
そもそも"普通"とは何なのか?
私には、本作で映し出される、彼のあるがままを心から愛してくれた父親との深い絆のエピソードの数々が、その問いに対する答えのひとつのような気がした。
結局、さまざまな欲を削ぎ落して、親が我が子に望むことはただひとつ。
自分が生きている間、そして死んだ後も、我が子があるがままで幸せに生きてくれること。
これに尽きるのではないか?