「親ガチャ」と言う言葉を最近知った。
小型自販機の一種で、硬貨を入れ、回転式のレバーを回すとカプセル入りの玩具などが出て来るカプセルトイの別称をガチャもしくはガチャガチャと言い、そのガチャではカプセルを開くまで中身の玩具が何か分からないことから、「親+ガチャ」は「子どもはどんな親のもとに生まれるか分からない=子どもは親(や生育環境)を選べない」ことを意味するようになったと言う。
例えば「親ガチャに失敗」とは、「ダメな親のもとに生まれてしまった」ことを意味するらしい。
先日、偶然、女優松たか子のインタビュー映像を見た。彼女は今や日本を代表する(特に舞台での演技が素晴らしい)女優のひとりだが、彼女は言わずと知れた梨園のお嬢様である。彼女の祖父にあたる八代目松本幸四郎が創始した日本舞踊松本流の名取でもある。
そのインタビューに触発されたわけでもないが、今日、幕末の動乱期に長岡藩の家老を務め、佐幕派と尊王派の争いに翻弄された河合継之助(役所広司)の晩年を描いた映画「峠 最後のサムライ」を見て来た。彼女は本作で、その継之助の妻おすがの役を演じていて、その着物姿は凛として、手の指先に至るまで所作も美しく、梨園出身の面目躍如たる佇まいだった。
映画自体は名優役所広司がほぼ出ずっぱりの熱演で、まさに彼の独壇場とも言える作品。残念ながら、松たか子や永山絢斗、佐々木蔵之介など魅力的な役者を揃え、彼らもきっちり仕事をしているのに、作品としての出来は今ひとつであった。ただ、本作で河合継之助と言う歴史に埋もれた傑物の存在を知れたことは良かった。
小学生の時、父の主演舞台「ラ・マンチャの男」を見て以来、女優を志したと言う彼女。彼女が二代目松本白鷗の娘として生まれたからこそ、今日の女優松たか子が存在すると言っても過言ではないと思う。代々芸能に携わる一族の(美貌や才能も含め)有形無形の遺産を受け継ぎ、芸能界への有力なコネもあり、女優を目指すには最高の出自である。
ここまでの「親ガチャ」の"成功例"はそうそうないとは思うが、例えば、地方出身で何の後ろ盾もなく、下積みから女優を目指している人から見れば、彼女は羨望か嫉妬の的になるのかもしれない。彼女に嫉妬したところで詮無いけれど。
卑近な例を挙げれば、私の高校の同級生に、郷里にある短大の学長になった人がいる。その人は高校時代、特に学業成績で目立つ生徒ではなかった。卒業後は西日本にある私立大学に進学し、幼児教育の分野である程度名の知れた母親のアドバイスで、郷里ではまだ研究が遅れていた分野の専門家を目指して、その後さらに国立の大学院に進学し、帰郷後はその専門性を生かして今の地位まで上り詰めたと聞いた。
やはり県外の私学や国立大学院まで進学させる経済力が親にあったことと、親自身もある程度教育レベルが高く、その親からキャリア形成に関する的確なアドバイスを受けられたことは、その人のキャリア形成に大きなアドバンテージとなったのは想像に難くない。
通常、本人の努力もさることながら、親の物心両面に渡るサポートがなければ、人並み以上の知力や学歴や職能を獲得することは難しいと思う(もちろん、誰も出来ないとは言っていない。親のサポートを得られず、さまざまな障害があっても、そうした不利な環境をものともしない秀才・俊才・天才や稀有な才能の持ち主はいる)。
特に人格形成がなされる子ども時代に、親から時には厳しくも愛情のこもった励ましや要所要所で的確なアドバイスを継続的に受けることは重要だ。即ち、その内に自己肯定感を育み、それがチャレンジ精神へと繋がり、失敗してもめげることなく物事に取り組む粘り強さを身につけて、小さな成功体験を積み上げて行く、と言う一連のプロセスが、人に「自分は出来る」「努力は自分を裏切らない」と言う自信を獲得させるのだろう。
自分と言う人間を信じられるか否かは、長い人生を生き抜く中で、その人間的成長に大きな差異を産むものだと思う。
子育て期の親(親に代わる保護者)の役割とは、つまりはそういうことなのではないか?その点で恵まれなかった人間は、生まれながらに恵まれた人間以上の苦労を強いられることになるのだろうが、だからと言って絶望することもない。親ガチャ失敗を言い訳に、端から努力することを諦めるのが一番イケナイ。自分で自分を蔑ろにしてどうする?と言う話だ。
要は元々生まれが違う、生育環境の違う他人と自分とを比べて、自分の不足や不遇を嘆いても仕方ないのだ。そもそもスタート地点が違うのだから、自分のスタート地点から自分なりの人生を歩んで行くしかない。多少遠回りしてでも、なりたい自分を目指して地道に努力を続けて行けば良いのだ。
努力を続けていれば自分を取り巻く環境を変えることが出来る。環境を変えれば、自分を成長させる良い人との出会いを引き寄せることが出来る。そうすることで、どんな出自であれ自分の人生を自分なりに充実させることは可能だと思う。
価値観はそれこそ人それぞれで、幸福観も人の数だけあるだろう。ひとつには人は自分の人生で不足しているものを充足させることが幸福感に繋がるように思う。
自分の人生で何が一番必要なのか、自分が最も大切にしたいものは何か、自分自身に問いかけてみる。
私の場合、家族が仲の良い温かな家庭を築きたかったので、今の人生にはほぼ満足している。生活レベルにしても、日々をつつがなく暮らせる程度の蓄えがあれば十分だ。いまさら誰かと何かを競い合いたいとも思わない。実際、他人から称賛されるような社会的成功は、自分の中で必ずしも優先順位は高くない。
唯一心配なのは家族や自分自身の健康だが、一方で何が何でも健康でなければと、健康であることを絶対視すれば辛くなるだけなので、何事も自然の流れに任せたい。いつ寿命が尽きても後悔のないように、日々を楽しく生きて行くだけだ。
他人と自分とを比べることが不幸の始まり。しっかり自分と言う芯を持って、「人は人、自分は自分」と呪文のように唱えながら、自分の今ある幸福に感謝しながら生きて行きたいと思う。(了)
私も今日、「峠〜」見てきました。
確かに作品的には、少しお金をかけたドラマくらいな感じで平凡でしたが、はなこさんと同じく私も河井継之助についてほとんど知らなかったので、それだけでも個人的には楽しめました。
この映画だけ見ると薩長がめっちゃ悪い奴らみたいだけど、薩長側から見ると、それはそれでもっともな理屈もあって、歴史っていうものを大局的に見つめるのはなかなか大変な作業だな〜と思わされました。
「親ガチャ」って嫌な言葉ですよね。こういうのを一度言語化しちゃうと、それが独り歩きをはじめてしまうんですよね。
今は色々な事の価値観が変わってきていて、混沌の時代なのかも・・。でもそれはいつの時代でも同じなのかな・・。
映画「タイタニック」で、ディカプリオが、(人生は)「配られたカードで勝負するしかないのサ」ってカッコよく言ってましたが、ホントそれですよね。
幸せの基準も人それぞれですしね。
コメントをありがとうございます。
タイトルの「勝てば官軍」は、まさに本作が描く時代の戊辰戦争が由来なんですね。
今回は河合継之助と言う人物を描くことが主体だったせいか、対立の是非をかなり単純化して描いていたように私も感じました。
河合は若い時分に江戸や長崎等に遊学して当時としては先進的な考えを学んだ人だったので、新しい時代の到来を予見していたはずですが、家老として殿の意向を汲んで、あくまでも佐幕派としての筋を通したところに、彼の苦渋を感じました。長岡城奪還が4日?天下に終わり、抵抗虚しくその後敗北したことで彼の決断には賛否両論があるようですが、立場上仕方なかったのだと同情します。
しかし、藩は焦土と化しても人材を宝として、その教育に力を入れることが彼の遺訓となって、その後の長岡の復興に繋がったのだから、やはり彼は傑物だったと思います。上に立つ人が教育の価値を理解し、その重要性を人々に伝え、実戦を促すのは大切なこと。今の政治家に、そんな人いるでしょうか?今の日本の凋落は教育を蔑ろにしたツケが回って来ているのだと思います。
生まれによる格差なんて昔からあったのに、「親ガチャ」と言うハイブリッドな命名によって、改めて注目された印象です。
確かに嫌な言葉ですが、私達の世代は国の高度経済成長の後押しもあって、少なくとも真面目に努力すれば庶民でも大学を出て、良い就職先が見つかり、多少の階層移動が可能だったのですが、この「失われた30年」では経済の停滞に伴い階層は固定化傾向にあり、今の社会の現状に閉塞感を抱いている若者は少なくないのでしょう。
しかし、どの世代にも苦しい状況(戦争や貧困や飢餓や過度な競争等)に置かれた時期はあり、今の若者だけが貧乏くじを引かされているわけでもないと思うんですよね。
時代と共に社会がどんどん変化していくのは当然のことで、私達は努力してそれに対応するしかない。自分の不遇を嘆いてばかりいても仕方ない。
文句があるなら選挙に行け、デモでもなんでもやってしまえ、と思います。フランスやアメリカやイギリスの若者は不満があればデモして、きちんと主張していますもの。旅先で目の当たりにして、若者が元気だなあと感心しましたもん。彼らと比べたら日本の若者はおとなしすぎる。尤も政治への無関心にしろ、教育の問題なのかもしれないけれど(為政者にとっては本当に都合の良い従順さ)。
ごみつさん、映画の台詞をよく覚えていらっしゃいますよね。私は映像は覚えているけれど、台詞が出てきません。ディカプリオは「タイタニック」でそんなことを言っていましたか。かっこいいし、深いですね。
訂正します。
【誤】実戦 → 【正】実践