深津絵里が先のモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得して話題となっている映画『悪人』を見た。
芥川賞作家、吉田修一の小説が原作で、今回は原作者自身が李相日監督(『フラガール』)と共に脚色を担当している。本作は原作者が作家生活10年と言う節目に手がけた初の新聞連載小説で、それまで書いた中で最も長編の意欲作。自他共に「代表作」と認める作品だけに、その思い入れも一入なのだろう。
ポスター写真の対照的な2人の表情。どこか不安げな表情で視線が空(クウ)を泳ぐような祐一と、迷いのない真っ直ぐな視線を遠くに向ける光代。このツーショットに、2人の関係性や、それぞれの内面の実相が見て取れるようだ。「悪人」のイメージとはほど遠い祐一の弱々しく繊細なメンタリティに対して、光代の(普段の遠慮がちな態度からは想像もつかない)芯の強さと逞しさ。2人が見つめる先にはどのような風景が見えているのか?そして2人には、この先どのような運命が待ち受けているのか?―言葉以上に饒舌な二人の表情に、見る者は想像をかきたてられる。
舞台は九州北部。博多で保険外交員として働いていた若い女性が、福岡と佐賀の県境の峠で絞殺死体で発見される。その殺人事件を巡る人間模様が、長崎、博多、久留米、佐賀を舞台に展開する。
今年見た邦画の中ではダントツに見応えのある作品だった。シナリオ、キャスト、演出と三拍子揃った快作である。三者の力の籠もった合わせワザで冒頭からグイグイと作品世界に引き込まれ、濃密な2時間半の人間ドラマに酔いしれた。見終わった後は、そのテーマの重苦しさに胸が締め付けられると同時に、素晴らしい作品に出会えた感動で心が震えた。胸が締め付けられて、心が震えるなんて矛盾するようだが、そういう奇跡を起こしてくれるのが映画なのだ。まさに、私はこういう日本映画が見たかったんだあ!
深津自身が女優賞受賞インタビューで述べていたように、彼女の受賞は相手役の妻夫木聡の熱演に因るところが大きい。原作小説に感動して自ら祐一役を買って出た妻夫木に対し、深津は監督直々の指名を受けての登板であったらしいが、妻夫木の熱い思いが深津に伝播して、化学反応を起こした結果とも言うべき名演だった。2人がそれまでの(清純な?)イメージをかなぐり捨てて、獣のように互いを求め合い、身体を重ね合い、破滅へと直走る逃避行に身をやつす汚れ役に徹した姿は、それまでの2人を知るフアンには驚きをもって迎えられたかもしれない。しかし此度の迫真の演技で、2人は確実に演技者として数段進化したと言えるのではないか?
脇を固める俳優陣もベテラン、若手共に演技達者を揃えて、ドラマを盛り上げた。柄本明、樹木希林、宮崎美子、満島ひかり、岡田将生が、それぞれの役回りをキッチリと演じてくれたからこそ、主演の2人の演技も映えたと言えるだろう。
映画を見終わって改めて感じたこと、考えたことは2点。
1.本当の「悪人」は誰なのか?そもそも「悪人」とは何なのか?
2.人の人生を、本人以外の誰が知り得ようか?その生き様を一体誰が笑えようか?
戦争状態にない社会において、その秩序を守る為に、基本的に「殺人行為」は絶対悪として法の下で裁かれる。本作でも、法的に裁かれるのは殺人を犯した人間である。しかし本作を見る限り、ひとりの人間を直接的に死に至らしめた人間と、被害者の周辺にいて、結果的に被害者をそうした状況に追い込んだ人間とは、倫理的に紙一重の違いしか感じられない。寧ろ「明確な悪意」と言う点では、後者の方がより罪深い人間に見えるのだ。
しかも、こと殺人事件においては被害者自身にも重大な落ち度があり、「本来、出会うべきではなかった人々」の「負の部分」の「連鎖」が予想外の反応を呼び、本人達のみならず周囲の人々をも巻き込んで、それぞれの「運命を暗転」させた感がある。それが一番にやるせない。
本作で、九州北部に点在する若者達を結びつけたのは、携帯電話上の出会い系サイトであった。この出会い系サイトを巡る犯罪の報道を少なからず耳にしたせいか、その印象は胡散臭さが拭えないのだが、意外にも真剣に異性との出会いを求めて利用している男女もいるらしい。現実の世界で人と人との繋がりが希薄になり、こうしたツールに頼ったり、「婚活」と呼ばれる積極的な働きかけをしない限り、異性との出会いさえ叶わない、現代人が抱える孤独感。それは真剣な出会いを求めている人々にとって、私が想像する以上に深く厄介なものなのかもしれない。
そもそもひとりの人間の中で、善と悪は明確に区別できるものなのか?実際のところは誰もが自身の中に善意と悪意を内包し、さらにその善悪の間にはグレーゾーンが存在するのではないか?つまり、各個人が置かれた状況(そもそも生育環境の影響大!)、タイミング次第で、心の振り子は「善」にも「悪」にも振れるものであり、振り子がどちらにより大きく振れるかによって、人は「善人」にも「悪人」にもなり得るような気がするのだ。その意味で「悪人」「善人」とは、一般的に(←一部例外はあるのかもね)人間の「一時の状態、在り方」を指すのであって、人間としての「終生の本質」を指すものではないように思う。
他人に嘘をつく、他人を欺く、他人を肉体的or精神的に傷つける、他人を死に至らしめる~どれも、人間を「悪人」たらしめる「理由(要素?原因?)」であり、誰もがそれらと全く無縁に生きているというわけではないだろう。もし「自分は無縁だ」と言い切る人間がいるとしたら、その人は余程、自分の内に巣くう悪意に無自覚(鈍感)か、自らの誤謬性を一切認めない傲慢な人間なのではないか?
ところで、対人関係において、人間は無意識のうちに相手との力関係を推し量り、相手が(肉体的or精神的or社会的に)自分より弱い(立場)と見るや強気に出て、時には悪意を剥きだしにすることさえ憚らない一面があるように思う。
また、同質社会であればあるほど、少しでも他者より優位に立ちたいと言う意識が強く働き、他者との差別化に汲々とする傾向が否めないのではないか? (例えば、分譲の大規模集合住宅の居住者は、所得階層、家族構成、職種<自営業者よりサラリーマン世帯の数が圧倒的?>等の点で似通った人が多く、コミュニティ内で、<生活レベルや子どもの進学実績等>彼我の違いを競い合うようなところはないか?)
そうした、人間の心の弱さの裏返しとも言える虚勢や見栄が、結果的に人間を不幸にすることも少なくないように思う。
人間は他者の一面を、自らの色眼鏡で見ているに過ぎない。目の前にいる人間の全てなど知りようがないのである。一見して風采の上がらない中年男性にも、個人としてのそれまでのかけがえのない人生があり、喜怒哀楽があり、大切にしているものがある。それを否定し、嘲笑し、踏みにじる権利など、誰にもない。
人間は完全無欠では在り得ない。それゆえに人生で大小さまざまな過ちを犯しながら、恥をかきながら生きている。良かれと思ってしたことが、予想外に悪い結果を生むことがある。無自覚に他者を傷つけていることもあるだろう。
人生は思うようには行かないものだ。信じた人に裏切られることもある。正しく、誠実に生きて来たつもりなのに、裁かれることがあるかもしれない。幸せになりたいと誰よりも切望していたはずなのに、不運に見舞われることさえあるのかもしれない。
それでも命が続く限り、明日は来る。人生は続く。ならば心を強く持って、生きて行くしかない。
連日の精神的暴力とも言えるマスコミ取材に追われ、いつしかうつむき加減だった樹木希林演じる祐一の祖母は、ある人の励ましの言葉で我に返る。以後の彼女の毅然とした態度は、言外に多くのことを語っていたように私には思えた。
感想をもう少し簡潔にまとめられないものかと自分自身でも呆れているが、見終わった後、いつになく様々なことが想起されたので、とりあえず思いつくままに記録することにした。それだけ本作に心を動かされたと言える。映画ファンの1人として、できるだけ多くの人々に本作を見て貰い、日本映画の底力を感じて欲しいと切に願う。
■映画『悪人』公式サイト
芥川賞作家、吉田修一の小説が原作で、今回は原作者自身が李相日監督(『フラガール』)と共に脚色を担当している。本作は原作者が作家生活10年と言う節目に手がけた初の新聞連載小説で、それまで書いた中で最も長編の意欲作。自他共に「代表作」と認める作品だけに、その思い入れも一入なのだろう。
ポスター写真の対照的な2人の表情。どこか不安げな表情で視線が空(クウ)を泳ぐような祐一と、迷いのない真っ直ぐな視線を遠くに向ける光代。このツーショットに、2人の関係性や、それぞれの内面の実相が見て取れるようだ。「悪人」のイメージとはほど遠い祐一の弱々しく繊細なメンタリティに対して、光代の(普段の遠慮がちな態度からは想像もつかない)芯の強さと逞しさ。2人が見つめる先にはどのような風景が見えているのか?そして2人には、この先どのような運命が待ち受けているのか?―言葉以上に饒舌な二人の表情に、見る者は想像をかきたてられる。
舞台は九州北部。博多で保険外交員として働いていた若い女性が、福岡と佐賀の県境の峠で絞殺死体で発見される。その殺人事件を巡る人間模様が、長崎、博多、久留米、佐賀を舞台に展開する。
今年見た邦画の中ではダントツに見応えのある作品だった。シナリオ、キャスト、演出と三拍子揃った快作である。三者の力の籠もった合わせワザで冒頭からグイグイと作品世界に引き込まれ、濃密な2時間半の人間ドラマに酔いしれた。見終わった後は、そのテーマの重苦しさに胸が締め付けられると同時に、素晴らしい作品に出会えた感動で心が震えた。胸が締め付けられて、心が震えるなんて矛盾するようだが、そういう奇跡を起こしてくれるのが映画なのだ。まさに、私はこういう日本映画が見たかったんだあ!
深津自身が女優賞受賞インタビューで述べていたように、彼女の受賞は相手役の妻夫木聡の熱演に因るところが大きい。原作小説に感動して自ら祐一役を買って出た妻夫木に対し、深津は監督直々の指名を受けての登板であったらしいが、妻夫木の熱い思いが深津に伝播して、化学反応を起こした結果とも言うべき名演だった。2人がそれまでの(清純な?)イメージをかなぐり捨てて、獣のように互いを求め合い、身体を重ね合い、破滅へと直走る逃避行に身をやつす汚れ役に徹した姿は、それまでの2人を知るフアンには驚きをもって迎えられたかもしれない。しかし此度の迫真の演技で、2人は確実に演技者として数段進化したと言えるのではないか?
脇を固める俳優陣もベテラン、若手共に演技達者を揃えて、ドラマを盛り上げた。柄本明、樹木希林、宮崎美子、満島ひかり、岡田将生が、それぞれの役回りをキッチリと演じてくれたからこそ、主演の2人の演技も映えたと言えるだろう。
映画を見終わって改めて感じたこと、考えたことは2点。
1.本当の「悪人」は誰なのか?そもそも「悪人」とは何なのか?
2.人の人生を、本人以外の誰が知り得ようか?その生き様を一体誰が笑えようか?
戦争状態にない社会において、その秩序を守る為に、基本的に「殺人行為」は絶対悪として法の下で裁かれる。本作でも、法的に裁かれるのは殺人を犯した人間である。しかし本作を見る限り、ひとりの人間を直接的に死に至らしめた人間と、被害者の周辺にいて、結果的に被害者をそうした状況に追い込んだ人間とは、倫理的に紙一重の違いしか感じられない。寧ろ「明確な悪意」と言う点では、後者の方がより罪深い人間に見えるのだ。
しかも、こと殺人事件においては被害者自身にも重大な落ち度があり、「本来、出会うべきではなかった人々」の「負の部分」の「連鎖」が予想外の反応を呼び、本人達のみならず周囲の人々をも巻き込んで、それぞれの「運命を暗転」させた感がある。それが一番にやるせない。
本作で、九州北部に点在する若者達を結びつけたのは、携帯電話上の出会い系サイトであった。この出会い系サイトを巡る犯罪の報道を少なからず耳にしたせいか、その印象は胡散臭さが拭えないのだが、意外にも真剣に異性との出会いを求めて利用している男女もいるらしい。現実の世界で人と人との繋がりが希薄になり、こうしたツールに頼ったり、「婚活」と呼ばれる積極的な働きかけをしない限り、異性との出会いさえ叶わない、現代人が抱える孤独感。それは真剣な出会いを求めている人々にとって、私が想像する以上に深く厄介なものなのかもしれない。
そもそもひとりの人間の中で、善と悪は明確に区別できるものなのか?実際のところは誰もが自身の中に善意と悪意を内包し、さらにその善悪の間にはグレーゾーンが存在するのではないか?つまり、各個人が置かれた状況(そもそも生育環境の影響大!)、タイミング次第で、心の振り子は「善」にも「悪」にも振れるものであり、振り子がどちらにより大きく振れるかによって、人は「善人」にも「悪人」にもなり得るような気がするのだ。その意味で「悪人」「善人」とは、一般的に(←一部例外はあるのかもね)人間の「一時の状態、在り方」を指すのであって、人間としての「終生の本質」を指すものではないように思う。
他人に嘘をつく、他人を欺く、他人を肉体的or精神的に傷つける、他人を死に至らしめる~どれも、人間を「悪人」たらしめる「理由(要素?原因?)」であり、誰もがそれらと全く無縁に生きているというわけではないだろう。もし「自分は無縁だ」と言い切る人間がいるとしたら、その人は余程、自分の内に巣くう悪意に無自覚(鈍感)か、自らの誤謬性を一切認めない傲慢な人間なのではないか?
ところで、対人関係において、人間は無意識のうちに相手との力関係を推し量り、相手が(肉体的or精神的or社会的に)自分より弱い(立場)と見るや強気に出て、時には悪意を剥きだしにすることさえ憚らない一面があるように思う。
また、同質社会であればあるほど、少しでも他者より優位に立ちたいと言う意識が強く働き、他者との差別化に汲々とする傾向が否めないのではないか? (例えば、分譲の大規模集合住宅の居住者は、所得階層、家族構成、職種<自営業者よりサラリーマン世帯の数が圧倒的?>等の点で似通った人が多く、コミュニティ内で、<生活レベルや子どもの進学実績等>彼我の違いを競い合うようなところはないか?)
そうした、人間の心の弱さの裏返しとも言える虚勢や見栄が、結果的に人間を不幸にすることも少なくないように思う。
人間は他者の一面を、自らの色眼鏡で見ているに過ぎない。目の前にいる人間の全てなど知りようがないのである。一見して風采の上がらない中年男性にも、個人としてのそれまでのかけがえのない人生があり、喜怒哀楽があり、大切にしているものがある。それを否定し、嘲笑し、踏みにじる権利など、誰にもない。
人間は完全無欠では在り得ない。それゆえに人生で大小さまざまな過ちを犯しながら、恥をかきながら生きている。良かれと思ってしたことが、予想外に悪い結果を生むことがある。無自覚に他者を傷つけていることもあるだろう。
人生は思うようには行かないものだ。信じた人に裏切られることもある。正しく、誠実に生きて来たつもりなのに、裁かれることがあるかもしれない。幸せになりたいと誰よりも切望していたはずなのに、不運に見舞われることさえあるのかもしれない。
それでも命が続く限り、明日は来る。人生は続く。ならば心を強く持って、生きて行くしかない。
連日の精神的暴力とも言えるマスコミ取材に追われ、いつしかうつむき加減だった樹木希林演じる祐一の祖母は、ある人の励ましの言葉で我に返る。以後の彼女の毅然とした態度は、言外に多くのことを語っていたように私には思えた。
感想をもう少し簡潔にまとめられないものかと自分自身でも呆れているが、見終わった後、いつになく様々なことが想起されたので、とりあえず思いつくままに記録することにした。それだけ本作に心を動かされたと言える。映画ファンの1人として、できるだけ多くの人々に本作を見て貰い、日本映画の底力を感じて欲しいと切に願う。
■映画『悪人』公式サイト