私はテレビ番組の中で比較的トーク番組が好きだ。インタビュー番組の場合、大抵がゲストのヨイショに終始するものの、気をよくしたゲストがポロッと漏らす言葉に、その人の本音や思想・信条が垣間見えたりするのが興味深い。対談番組なら、複数のゲスト同士の会話が弾むうちに、意外な発言が引き出されて、発言者に対する認識が改まることもある。
私の夫のように「作品がすべて。作品が面白いか否か、素晴らしいか否か。それだけだ。その作り手には興味なし」と言う人にはどうでも良い類のものなのだろう。しかも殆どが録画番組であり、編集済みと言う点で、番組制作者の意図するところ(着地点)に視聴者が導かれるきらいもあるが、私は作品はもとより、作者の”創造の源泉”にも興味津々なので、飽きずにこの手の番組を見てしまう。
直近の1週間に見聞きしたトーク番組で印象に残った言葉を以下に記したい。
■長塚圭史 「『アバター』のような情報の多い作品は、あまり小さな子供には見せない方が良いと思うんです」(『ボクらの時代』フジテレビ、2010/11/07放送)
長塚圭史氏は今最も活躍が期待される劇作家・演出家のひとりだ(と言っても、彼の作品は未見。機会があれば是非見てみたいが、チケットは入手困難らしい)。2008年9月から1年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度でイギリスに留学し、帰国直後に人気女優の常盤貴子と結婚して世間を驚かせた(と、思う)。
彼は言う。「(舞台)演劇の可能性を信じたい」 つまり、演劇の場合、同じ舞台を見ても、観客の受け止め方は人それぞれで、観客に想像(観客が、その頭の中で独自に想像力を働かせて作品を補完すると言う意味では”創造”とも言えるか?)の余地が与えられている。観客は舞台が終わった後も感動の余韻に浸って、人間の創造力の素晴らしさにしみじみ感じ入ると言うか…
一方、3D作品である『アバター』の場合、作品の中にあまりにも多くの情報が盛り込まれている為に、情報過多な為に、観客はその情報量に圧倒され、それを受け止めることに精一杯で、そこから想像の翼を広げることは難しいのではないか?同席した松たか子は、舞台はナマモノで、ひとつとして同じものはない。演じ手にとっても、観客にとっても毎回が新しい、見る度に違うのが舞台の魅力だ、と言うようなことを述べていた(松たか子の主演舞台を生で見たことがあるが、確かに舞台で演じることの面白さも怖さも楽しんでいるような余裕すら見える、堂々とした役者ぶりだった。まさに演じる為に生まれて来たような、天才肌の女優だと思う。天は一人に二物も三物も与えることが稀にあるが、彼女もその一人だろう)。
だから、幼い頃から、その(『アバター』)ような大量の情報に晒されると、想像する楽しみ(ひいては想像する力)を奪われることになるのではと思うんだよね、と長塚氏は言った。
あ~、確かに。私も『アバター』は映像表現の著しい進歩に驚きはあったが、作品への感動がなかったんだよね。登場人物に感情移入することはなかったし、作品からさらに想像を膨らませるワクワク感もなかった。皮肉なことに、長塚氏は『アバター』上映前の、同じく3D映画である『アリス・イン・ワンダーランド』の予告編でその3D映像に驚いたが為に、『アバター』の3Dに改めて驚くことはなかったと言う。
残念なことに、人が技術の高さに驚くのは初見のみ。1回限りなのだ。ハリウッドがドラマ(物語)作りに行き詰まり、見てくれ(映像技術)の目新しさに走れば走るほど、観客の心に残る作品は生まれない。観客が何度でも見たいと思える名作は生まれ難い。結局、3D映画も、2回目、2本目以降は凝った映像表現よりも、従来の「物語としての面白さ」「登場するキャラクターの魅力」が問われることになる。
個人的には3D映画はメガネ・オン・メガネが負担。長時間の視聴は脳の疲労度も大きい。だから、よほどの作品でない限り(つまり3Dで見る事の有意性が見出せない限り)、追加料金を払ってまで見たいとは思わない。脳への負担という意味では、イタリアで幼児の鑑賞が禁止されたのは納得である。
どの道、観客を物語の面白さに引き込むことができなければ、ハリウッドは映画作りに行き詰まることになるのだろう。実際、最近は非ハリウッドの、プロット勝負、アイディア勝負の低予算映画で、面白い作品に出会うことが多くなった。
昨日見たスペイン映画(総製作費、破格の2.5億円ハリウッドのトップ・スターのギャラは1本20億円ですからねえ…)『リミット(原題:Buried)』は、手がけたのがスペイン人監督ロドリゴ・コルテス・スペイン人スタッフながら、キャストはカナダ人(ライアン・レイノルズ、あのスカーレット・ヨハンソンの夫)、物語はイラクに派遣された民間人(トラック運転手)の拉致問題、そして全編英語の台詞と、国境の垣根を越えた作品となっている。
大胆かつシンプルな状況設定と、効果的な小道具としての携帯電話の使い方(バッテリーの持ちなどツッコミどころもあるが)、物語が進むにつれ浮かび上がってくる軍需で利益を上げる企業の冷酷さと階層社会の悲哀(海外でトラブルに巻き込まれた時に誰が自分を守ってくれるのか、と言うシチュエーションは身につまされる。残酷だが、自分が値踏みされることになるのだから)に、思わず引き込まれた。見終わった後も、各々のシーンを振り返って、その意味を反芻するような楽しみがあった。
一緒に見た息子は「DVDで十分かな?」と言っていたが、私は映画館の暗闇の中で見てこそ、本作の主人公が味わった恐怖や絶望感を、観客は追体験できるのだと思う。真偽のほどはともかく、実際にありそうな話で、この作品がイラク戦争への痛烈な皮肉であることは間違いないと思う。米国では公開されたのだろうか?
◆『リミット』公式サイト
私の夫のように「作品がすべて。作品が面白いか否か、素晴らしいか否か。それだけだ。その作り手には興味なし」と言う人にはどうでも良い類のものなのだろう。しかも殆どが録画番組であり、編集済みと言う点で、番組制作者の意図するところ(着地点)に視聴者が導かれるきらいもあるが、私は作品はもとより、作者の”創造の源泉”にも興味津々なので、飽きずにこの手の番組を見てしまう。
直近の1週間に見聞きしたトーク番組で印象に残った言葉を以下に記したい。
■長塚圭史 「『アバター』のような情報の多い作品は、あまり小さな子供には見せない方が良いと思うんです」(『ボクらの時代』フジテレビ、2010/11/07放送)
長塚圭史氏は今最も活躍が期待される劇作家・演出家のひとりだ(と言っても、彼の作品は未見。機会があれば是非見てみたいが、チケットは入手困難らしい)。2008年9月から1年間、文化庁・新進芸術家海外留学制度でイギリスに留学し、帰国直後に人気女優の常盤貴子と結婚して世間を驚かせた(と、思う)。
彼は言う。「(舞台)演劇の可能性を信じたい」 つまり、演劇の場合、同じ舞台を見ても、観客の受け止め方は人それぞれで、観客に想像(観客が、その頭の中で独自に想像力を働かせて作品を補完すると言う意味では”創造”とも言えるか?)の余地が与えられている。観客は舞台が終わった後も感動の余韻に浸って、人間の創造力の素晴らしさにしみじみ感じ入ると言うか…
一方、3D作品である『アバター』の場合、作品の中にあまりにも多くの情報が盛り込まれている為に、情報過多な為に、観客はその情報量に圧倒され、それを受け止めることに精一杯で、そこから想像の翼を広げることは難しいのではないか?同席した松たか子は、舞台はナマモノで、ひとつとして同じものはない。演じ手にとっても、観客にとっても毎回が新しい、見る度に違うのが舞台の魅力だ、と言うようなことを述べていた(松たか子の主演舞台を生で見たことがあるが、確かに舞台で演じることの面白さも怖さも楽しんでいるような余裕すら見える、堂々とした役者ぶりだった。まさに演じる為に生まれて来たような、天才肌の女優だと思う。天は一人に二物も三物も与えることが稀にあるが、彼女もその一人だろう)。
だから、幼い頃から、その(『アバター』)ような大量の情報に晒されると、想像する楽しみ(ひいては想像する力)を奪われることになるのではと思うんだよね、と長塚氏は言った。
あ~、確かに。私も『アバター』は映像表現の著しい進歩に驚きはあったが、作品への感動がなかったんだよね。登場人物に感情移入することはなかったし、作品からさらに想像を膨らませるワクワク感もなかった。皮肉なことに、長塚氏は『アバター』上映前の、同じく3D映画である『アリス・イン・ワンダーランド』の予告編でその3D映像に驚いたが為に、『アバター』の3Dに改めて驚くことはなかったと言う。
残念なことに、人が技術の高さに驚くのは初見のみ。1回限りなのだ。ハリウッドがドラマ(物語)作りに行き詰まり、見てくれ(映像技術)の目新しさに走れば走るほど、観客の心に残る作品は生まれない。観客が何度でも見たいと思える名作は生まれ難い。結局、3D映画も、2回目、2本目以降は凝った映像表現よりも、従来の「物語としての面白さ」「登場するキャラクターの魅力」が問われることになる。
個人的には3D映画はメガネ・オン・メガネが負担。長時間の視聴は脳の疲労度も大きい。だから、よほどの作品でない限り(つまり3Dで見る事の有意性が見出せない限り)、追加料金を払ってまで見たいとは思わない。脳への負担という意味では、イタリアで幼児の鑑賞が禁止されたのは納得である。
どの道、観客を物語の面白さに引き込むことができなければ、ハリウッドは映画作りに行き詰まることになるのだろう。実際、最近は非ハリウッドの、プロット勝負、アイディア勝負の低予算映画で、面白い作品に出会うことが多くなった。
昨日見たスペイン映画(総製作費、破格の2.5億円ハリウッドのトップ・スターのギャラは1本20億円ですからねえ…)『リミット(原題:Buried)』は、手がけたのがスペイン人監督ロドリゴ・コルテス・スペイン人スタッフながら、キャストはカナダ人(ライアン・レイノルズ、あのスカーレット・ヨハンソンの夫)、物語はイラクに派遣された民間人(トラック運転手)の拉致問題、そして全編英語の台詞と、国境の垣根を越えた作品となっている。
大胆かつシンプルな状況設定と、効果的な小道具としての携帯電話の使い方(バッテリーの持ちなどツッコミどころもあるが)、物語が進むにつれ浮かび上がってくる軍需で利益を上げる企業の冷酷さと階層社会の悲哀(海外でトラブルに巻き込まれた時に誰が自分を守ってくれるのか、と言うシチュエーションは身につまされる。残酷だが、自分が値踏みされることになるのだから)に、思わず引き込まれた。見終わった後も、各々のシーンを振り返って、その意味を反芻するような楽しみがあった。
一緒に見た息子は「DVDで十分かな?」と言っていたが、私は映画館の暗闇の中で見てこそ、本作の主人公が味わった恐怖や絶望感を、観客は追体験できるのだと思う。真偽のほどはともかく、実際にありそうな話で、この作品がイラク戦争への痛烈な皮肉であることは間違いないと思う。米国では公開されたのだろうか?
◆『リミット』公式サイト