はなこのアンテナ@無知の知

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履修不足問題に思うこと

2006年11月02日 | はなこのMEMO
そもそもの原因は、この国の理念を欠いた教育政策だろう。
米国でなく、中国でもない、「この国」に生を受けた子供達が、
将来どのような大人(日本人)になるのが望ましいのかの
確たる理念が、この国には存在しないように思える
(ただ、この理念なるもの。けっして、イコール
”国にとってもっぱら都合の良い人間”像
というわけではない。)。
その為か、教育行政が打ち出す施策に一貫性がない。
例えば、朝令暮改の学習指導要領や、
それに基づいた学校での履修内容のレベルと
大学入試問題のレベルの違いの大きさに
教育現場や親や子供達が振り回され続けている。

今回、学校現場がもっぱら槍玉に挙がっている印象があるが、
公教育の場に数値目標を掲げ、成果主義を取り入れたり、
学校でしっかり学んでも、大学入試に対応できないというのが、
そもそもおかしいのだ。
裏カリキュラムなるものは、
行政からも父兄からも結果を求められた末の、
学校側の苦肉の策であったことは誰の目にも明らか。
今回の履修漏れ問題は、
大元の教育政策の誤りがもたらした結果であるに過ぎない。

履修問題を巡っては、あるテレビ番組で、
さる高名な弁護士(若手で最近テレビでの露出の多い人)が、
「効率性を重視して、入試とは関係ない科目を勉強しないなんて、
別に悪いことではない。それくらいの要領の良さがないと、
厳しい世の中を渡ってはいけない」と発言していた。

本当にそうなんだろうか?人それぞれの考え方ではあるが。
人生の目的は「成功すること」という基準で考えたなら、
確かにそう言えるのかもしれない。でも、何だかな…
私など要領の悪い人間の典型で、遠回りの人生を歩んで来た。
これまでの人生で、幾度となく”効率性とはほど遠い場”にいて、
”無駄なこと”を沢山して来たように思う。
でも、そのひとつひとつが、私の中ではかけがえのない経験だ。
人生を計る物差しは、人それぞれということなのだろうが、
「成功」や「要領の良さ」だけで人生を計っては欲しくない。

だいたい勉強して無駄なことなんてあるのだろうか?と思う。
大学入試の為に切り捨ててしまったものの中に、
もしかしたら自分にとって、
大事なものが含まれているかもしれないのに。

人生を生き抜く上で、
ある程度の要領の良さは必要なのかもしれない。
でも、長い人生をより深く味わうには、
幅広い教養を身に付けておいた方がいいに決まっている。
その教養の手始めとして、
人類の長い歴史の中で培われた学問を体系的に学べるのが、
学校という場のはずだ。
その意味で、今回の履修漏れ問題で
補習を受けなければならなくなった生徒達を、
私は気の毒だとは思わない。
目の前の損得勘定で奪われてしまった学びの機会が
回復しただけなのだから。

モノゴトはゆめゆめ近視眼的に見てはいけないと思っている。
人生何が幸いするかは、誰も現時点では知り得ないのだから。
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