はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

クレーム社会だからこそ、声を大にして良いことは褒め称えたい

2016年10月21日 | はなこ的考察―良いこと探し
 私も人のことを言えないのは重々承知の上で言うと、最近は一億総クレーマーかと思うほど「クレーム社会」になっている。

 ネット上のちょっとした発言に批判が殺到して発信元のサイトが「炎上」したり、TVCMの表現の一部が不適切だとのクレームが出たことが理由でCMが差し替えられりと、社会の中でクレームが大きな影響力を持ちつつある。

 特にネットの発達により個人の情報発信が容易になり、それまで内心思っていても、それを外に向けて発言することのなかった人々が、ネットを介してクレームをつけることが増えたと思う。そして、クレームを受ける側の企業や団体や個人も、ネットの情報伝播力(クチコミ)を恐れて、必要以上に神経質になっているように見える。

 もちろん、何事にもプラス・マイナスの両面があることは当然で、例えば行政サービスに不備がある場合、役所の窓口にメールで訴えることで、行政サービスが以前よりも迅速に改善されることも多くなっているのは確かだ。

 一方で、クレームの正否に関係なく、サイレント・マジョリティ(おとなしい多数派)よりもノイジー・マイノリティ(騒々しい少数派)の意見が採用される傾向も否めない。

 クレームにも、ある状態を改善したいと言う前向きな内容がある一方で、対象者を批判すること自体が目的化しているものもある。

 特に後者においては、批判によって相手を打ちのめすことが目的なので、その破壊力(負のエネルギー)には凄まじいものがある。

 また、現実社会においても、面と向かって相手を苛烈に批判する人も、中にはいる。

 しかし、当事者でない私が冷めた頭で客観的に見た場合に、そこまで激しくなじるほどのことか?と思うケースも少なくない。そのミスで莫大な損害が出るわけでもなく、生きるか死ぬかの深刻な問題でもないのに(もちろん、批判する側の小さなことも疎かにしない丁寧さ、生真面目さも一方で理解できるのだけれど)

 何か注意するにしても言い方があるだろうと思う。冷たく突き放すのではなく、批判一辺倒でもなく、威嚇するでもなく、的確な指摘による導き。そうしなければ、注意された方は「叱られた記憶」だけが脳裏に焼き付き、心が萎縮してしまうかもしれない。

 例えば、仕事上のミスに関しては、ミスを犯したことをただ責めたてるのではなく、ミスの原因を明確にして、今後ミスを犯さない為にどうしたら良いか一緒に考えると言うスタンスではダメなのか?たいていの仕事はひとりで背負い込むものではないと思う。チームワークで解決できることは、私達が思っている以上に多いはずだ。

【2016.10.23 追記】

 昨日の日経土曜版(p.7)で興味深い記事を見つけた。精神科医のコラムである。高野知樹ドクターは、まず臨床心理士堀越勝氏の著書からの引用で「コミュニケーションの深さ」について言及している。

 「コミュニケーションの取り方には『挨拶レベル→事実・数字レベル→考え・信条レベル→感情レベル』があり、だんだん深くなっていく。」

 上記のことを踏まえて、高野ドクターは仕事上のミスの指摘方法について、以下のようにアドバイスしている。
 
 「否定的な内容は傷つきやすい感情レベルから入らずに『ここ、ミス率が高いから気を付けて』となるべく事実・数字を入れて客観的に伝える。」

 「もし傷つけてしまったら、次の声かけは『ここは問題なし』など受け止めやすく。投げた言葉を、相手がどう受け取ったか観察しながら次の言葉を選ぶ。指摘するにも相手への思いやりが大切。その方が意図は伝わるはずである。」 

 ミスを指摘する側は、自分の指摘の仕方に、相手の尊厳に対する配慮が欠けてはいないか、常に気にかけるべきなのだろう。とにかく、自分自身の精神状態や相手に対する好悪の感情に影響されずに、冷静であるよう努めること。



 どうもこの頃、相手に対して過剰なまでの「怒り」をぶつける人が多いように思う(つまり感情的になりがち)。それだけ吐き出したいストレスを抱えている人間が多いと言うことなのだろうか?

 しかし、そのあり余っているエネルギーを、少しでも「人を生かす」方向には向けられないだろうか?「負」から「正」に転換はできないものか?

 現在のようなクレームだらけの殺伐とした社会で、人々が疲弊し、萎縮しがちだからこそ、人々の良い行い、素晴らしい行いに対しては、大げさなくらいに褒め称えた方が良いのではないだろうか?感動や感謝の気持ちを大げさなくらいに伝えてはどうだろうか?しかも気づいたら躊躇することなくすぐに。

 他の人が代わりに褒めてくれたからいいや、ではなく、自分も積極的に人を褒める。称賛する側に加わり、人に"正のエネルギー"を注ぐ。
 
 そうすることで、何だかイライラangerしている人が多い現在の高ストレス社会も、多少なりとも改善できるのではないか?

 人間は基本的に"イジワル"なのかwink、人の悪いところを見つけるのは得意なようだ。だからこそ、人の良いところを見つけるには努力が必要なのだろう。自分の心の目の曇りを取り払い、邪心なく人を見つめる為に。

 つまり、人の良いところを見つけるのは、自分自身の精神衛生上も良いと言うこと。粗さがしよりずっと前向きで、建設的で、創造的で、他者だけでなく自分自身をも生かす行為だと思う。


 人が生きた証として残すレガシーは、何もモノばかりではないんだよね。
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