私が小学生の頃、社会科の授業で教わった英国は、"揺り籠から墓場まで"社会保障制度が行き届いた、日本が手本とする社会であった。つい10年前には、米国の映像作家マイケル・ムーアが、先進国で唯一公的医療保険制度を持たない自国とは対照的な素晴らしい国のひとつとして、英国を例に挙げていた。
その英国で今、何が起きているのか?
英国の地方都市に住む、心臓を病んで失職した59歳の男性ダニエル・ブレイクと、彼を取り巻く人間模様を通して、本作は英国の今を描き出す。
主人公のダニエル・ブレイクは長年連れ添った妻を数年前に亡くして以来、近所付き合いも殆どない男やもめである。心臓発作を起こしてからは医者に働くことを止められ、国から雇用支援手当を受けているらしい。冒頭、真っ暗な画面で、その手当の継続審査を受けるダニエルと担当者のやりとりだけが聞こえてくる。
国から委託を受けた米国の民間会社の社員が審査を担当しているのだが、予め用意された汎用的な質問を繰り返すだけで、心臓疾患で働けないと訴えるダニエルとは全く会話がかみ合わない。
後日、支援を継続する条件を満たしていないとして、非情にも手当は打ち切られてしまう。
ここからダニエルの苦難が始まるのである。
手当の継続を申請しようにも、とにかく手続きが複雑すぎる上に、殆どの申請手続きがオンライン化されているので、学校を出てから大工一筋で来たダニエルはお手上げ状態なのだ。
「心臓疾患で医者から働くことを止められている」~手当を必要とする決定的な理由であるこの一点が、通り一遍の審査で認められないもどかしさ。
ただし、国の手続きが複雑なのにも、「不正受給を防ぐ」と言った理由があるのだろう。基本的に一連の手続きは「性悪説」に基づきシステム化されているように見える(担当者に反論しようものなら、理不尽にもペナルティを課されるのだから驚きだ)。申請手続きのオンライン化も、膨大な事務を効率的に処理する必要に迫られてのことに違いない。
演出上、映画の中では公務員が庶民を無碍に扱う横暴な人間として描かれているが、彼らは彼らの仕事をしているに過ぎない。日々、膨大な仕事量をこなすには、どこかで冷徹に線引きしなければならないのだろう。それでも、ダニエルのようにシステムから抜け落ちる人々への配慮はあってしかるべきだと思う。今の英国社会はその余裕すらない状況なのだろうか?
ふとしたきっかけでダニエルと親しくなったシングルマザー、ケイテイの境遇にも考えさせられるものがある。父親の異なる姉弟(きょうだい)を育てている彼女はロンドンから追われるように、何の当てもない当地へ移り住んできた。十代で最初の出産を経験し、我が子の生育に責任を持とうとしない男達との間に相次いで子どもをもうけ、現在は日々の食事にさえ事欠くほど経済的に困窮している。
彼女の口からは母親の話しか出て来ないから、彼女の母もまたシングルマザーだったのかもしれない。そうした彼女の境遇から、富める者はますます富み、貧しい者は貧しいままの英国社会の階層の固定化が見て取れる。
初めての地で孤立無援のケイテイの境遇に同情したダニエルは、彼女とその子ども達を放ってはおけず、なにかと世話をするようになる。そしてケイテイ一家との関わりが、頑なだったダニエルの心にも変化をもたらすのだ。
ダニエルやケイティの最大の無念は、彼らのひとりの人間としての尊厳が、国が整備した社会保障制度の下(もと)で踏みにじられることだろう。数十年にも渡って真面目に働き、きちんと納税して来たダニエルでさえ、思いがけない疾患で社会保障制度を利用した時に理不尽な扱いを受けてしまう。その口惜しさはいかばりか…
その映画人人生で常に庶民に寄り添って来たケン・ローチ監督の怒りは、そうした"彼ら(=社会的弱者)“に対する「国の冷淡さ」に向けられているのだと思う。
「あなたが私を助けたから、今度は私があなたを助ける」
精神を病んだ妻を長年ひとりで介護し、今また孤立無援のケイティ一家を助けるダニエル。ただひたすら無心に他者に尽くして来たダニエルに対して、ケイテイの娘デイジーがかけた言葉にハッとさせられる…
基本データ:映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」(allcinema online)
ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞