◆持ちつ持たれつ、大切なそのバランス
自分が自身の自由を満喫している時、その自由は誰かの自由や時間を奪うことによって成り立っているのではと、ふと思うことがある。
これが常に自由を満喫する側、自由や時間を搾取される側(=奴隷)とポジションが固定化されたり、個人がその自由と束縛のバランスを失って自身の現状に不満を感じるようになれば、「持ちつ持たれつの関係」は破綻してしまうだろう。
それは夫婦関係や友人関係、雇用主(会社)と従業員、商売上の取引相手との関係でも言えることだし、さらには徴税者(国家)と納税者(国民)の関係でも言えることだと思う。
今、巷間で話題になっている「少子高齢化による年金制度の維持に関する将来的な懸念」も、この「持ちつ持たれつ」のバランスが崩れることに起因している。
しかし、これは現役世代がリタイヤ世代を支える「賦課方式」(年金支給の為に必要な財源を、その時々<現役世代>の保険料収入から用意する)と言う年金制度の仕組みの問題であって、これによって社会保障の世代間格差が生まれたり世代間憎悪が生まれるのはおかしな話である。
特に街頭インタビュー等で若い世代の不安や不満を殊更引き出し、世代間憎悪を煽るような報道の仕方は問題だと思う。本来、権力の監視装置としての役割を担うべき立場にあるものとして、マスコミの現在の報道姿勢は無責任だ。
仮に百歩譲って、年金の制度設計がなされた当時、現在のような未曾有の少子高齢化が想定出来なかったとしても、制度発足から5年毎、10年毎と定期的に社会情勢の変化を鑑みて制度の見直しを図ることは出来たはずだ。それをなおざりにして来た日本政府の怠慢こそ問題だと思う。
しかもその間、年金原資を流用した官製リゾート事業の破綻(「グリーンピア」問題)も発生している。さらに「消えた年金問題」も記憶に新しいところ。しかし、当時の責任者は誰も責任を取っていない。この政府の無責任体質こそが、今日(こんにち)の年金不安の元凶だと思う。
つねづね思うのは、戦後の日本の教育(学校&家庭)の問題なのか、国の中枢で制度設計を担う人材の質に問題があるのではないか?今や東大でも最優秀の学生は官僚(近年、私大卒が増加)を目指さずに外資系金融やIT大手を目指すとも聞く。その優秀な頭脳を、自国の将来の為に生かそうと思う気概のある若者は、今の日本にいないのだろうか?
◆命に別条無し
幼い妹を交通事故で喪った遺族としては、報道でしばしば目にする言葉の背後にある意味を考えずにはいられない。
例えば事件・事故報道では「命に別条無し」と言う文言を目にするけれど、これは単に「死ななかった」と言っているだけで、けっして無傷な状態ではなく、軽傷でもなく、寧ろ一命を取り留めはしたけれど、社会復帰が困難な重篤な障害が残る可能性があることを指しているのだろう。
事故や事件の被害者が心身に深手を負い、その後、車椅子や介護を必要とする生活を余儀なくされたり、精神疾患で社会復帰が叶わなかったり、脳神経にダメージを受けた結果、身体の自由を奪われるような重篤な疾患を新たに発症しているケースも少なくないようだ。
事故・被害者がその後、想像を絶するような困難な人生を歩んでいるのに、報道では「命に別条無し」のひとことで片づけられる。ここで報道の在り方についてどうこう言うつもりはないが、被害者やその親族の置かれた状況を思うと心が痛む。日本はそうした人々を物心両面で支える社会でなければと思う。
(了)