はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

(19)『バベル』を見て感じたこと

2007年05月03日 | 映画(2007-08年公開)
 この作品は人を選ぶ作品なんだろう。見た人によって評価が大きく分かれるようだ。一緒に見た夫は「いまじゅう(イマイチの10倍という意味だそうだ)」とバッサリ。私自身、どう評価して良いのか判らない。傑作なのか?駄作なのか?はたまた問題作なのか?

 ただ、見ながらいろいろ考え、思う要素はあった。やはり自分の経験や知識や価値観に照らして映画は見るものなのだろう。だから同じ作品を見ても見る人それぞれに印象は異なる。主題からはかけ離れた枝葉末節に目が行ったりもする。例えばモロッコの風景。赤茶けた土漠の丘陵が連綿と続く。その間を縫うように走る道路。まるで私がかつて住んでいた中東の、郊外の風景そのままだ(かつてはひとつの巨大な大陸だったのが地殻変動によって五大陸に分たれた、という大陸移動説に甚だ納得)

※ご注意!以下は映画の内容に触れています。
 
 そこで羊や山羊を放牧してつましく暮らす一家がいる。中東・アフリカの遊牧民族にとって家畜は貴重な財産である。それをジャッカルなどの野獣から守ることは重要なことだ。知人から羊数頭と引き換えに手に入れたライフル銃は、一家の財産を守る為の武器である。そこでは子どもも貴重な働き手であり、だからこそ父親は外出の間、羊の番をする二人の幼い息子達にライフル銃を託したのだった。国、住む場所が違えば、常識のモノサシも異なる。その素朴な暮らしの中で、あらゆることにまで思いを致す必要もなかったりする。しかし運命のいたずらか彼らの予想だにしないことが起き、幼子が放った一発の銃弾が異国からの旅人を傷つけてしまう。

  妻が死にそうだ。早く助けを!

 ある出来事をきっかけに壊れかけた夫婦の絆を取り戻そうと旅に出た米国人夫婦。しかし、なぜその行き先がモロッコなのだ?しかも幼い子ども2人をメキシコ人乳母に託して。いかにも不機嫌な妻。その妻が凶弾に倒れ、治療もままならない異国で夫は右往左往し、理性を忘れ、周囲の人間に対して傲慢さを露わにする。更に間の悪いことに、夫妻の幼子を預かる乳母は翌日に故国メキシコで息子の結婚式を控えている。代わりの乳母の手当もできずに途方に暮れる彼女。「仕方がない。迎えに来てくれた甥の車に幼子二人を乗せてメキシコへ向かうしかない。」軽々と越境する車。しかし出国は容易くも、再入国はままならない…
私はいったいどうしたらいいの… 

 東京の聾唖の女子高校生。不機嫌な表情を隠そうともせず、常に挑みかかるような態度で周囲との軋轢を生んでいる。怒りを爆発させたかと思えば、逆にしなを作って異性を挑発したりする。何に怒っているのか?何を求めているのか?結局は壊れかけた心の空洞を埋めるべく他者との濃密な関わりを求めているのか?あからさまな性衝動は、愛情に飢えた末の行動とでも言うのだろうか?しかし、それはあくまでも若者が取り得る行動のひとつに過ぎないのではないか。それとも言葉でうまく伝えられない分、身体(ボディランゲージ)で伝えずにはいられないということなのだろうか?実際は聾唖という障害を持っていなくとも、言葉で気持ちを上手く伝えられない若者達(若者に限らないかもしれない)は幾らでもいるような気がする。



 クラブの喧騒の中に身を置く彼女に、その喧騒は聞こえない。狂喜乱舞する若者達の姿と明滅する照明と体感する振動とで、彼女はその喧騒を感覚しているのだろうか?―私は彼らと何も変わらない。私は彼らと繋がりたい…そんな彼女の心の叫びが聞こえて来るようだ。もちろん本当に繋がりたい相手は他にいる。

 繋がりたいはずの相手と、なぜか上手く行かない意思の疎通、ただ幸せに生きたいだけなのに、その切なる思いを嘲笑うかのようにままならない人生―人は時に絶望しながらも、与えられた運命の下に自らの人生を生きて行くしかないのか。

 本来ならば生涯関わり合うはずがなかったであろう人々が、本作では、放たれた一発の銃弾によって遙か時空を超えて交わることになる。そして事態は思わぬ方向へと展開し、それぞれの人生を翻弄するのである。個人的に最も共感する(同情する)のはメキシコ人家政婦に、であろうか。イニャリトゥ監督の前作『21グラム』も、スケールの違いこそあれ、本作と似たようなテイストの作品だったような…ただただ嘆息。
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