はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

もっと自分を信じて、自分の気持ちに正直に生きたら良いのに…

2017年03月16日 | 日々のよしなしごと
 何とはなしにテレビの電源を入れたら、ちょうどバラエティ番組で、「こんな人は嫌われる」と言う主旨のテーマで、SNSでの発言等、具体例が挙げられていた。

 そこで私が素朴な疑問として思ったのは、「なぜ、そんなに他人から嫌われることを恐れるのか?」と言うこと。

 現実社会では本音と建前を使い分ける日本人が、ネット上では辛辣なまでに本音を吐露するようになった今、いかにさまざまな価値観のもとで人々が物事の良し悪し、好き嫌いを語っているかが分かったのに、今更万人受けする発言や行動などありはしないのに、他人に嫌われまいと気を使い過ぎて、心を疲弊させてしまう日本人。

 他人に直接危害を加えたり、迷惑をかける恐れのある言動、極端に社会秩序を乱す言動でない限り、あまり他人の目や評価を気にする必要などないのではないか。私は生まれも育ちも日本人だけれど、私の目から見ても日本人は他人の目を気にし過ぎだ。

 アマゾンのクチコミを見ても、ある商品について、ある人は高い評価を下し、ある人はこき下ろす。絶対的な評価などあり得ないのだ。すべて評価者自身の価値観に基づく独善的評価。だから、人の評価など、殊更気にする必要などないのだ。自分が良いと思うのなら、自分の価値判断を信じたら良い。気に入ったのなら、他人の目、評価など気にせずにガンガン使えば良い。大切なのは、自分と直接関わり合いのない他人からどう見られるかより、「これから長く付き合うであろう物」との関係だ。

 服装についても同様だ。ある服の色に対して、ある人は「きれいな色ね」と言い、ある人は「年甲斐もなく派手な色」と言う。そもそも誰からも褒められる服なんてない。誰からも貶されない服もない。皆、好き勝手に自分の立ち位置から物を言っているだけなのだから、その言葉に言うほどの重みもない。だったら、他人の言うことなど気にせずに、自分の着たい服を着たらよい。自分が着て心地よいと思う服を思う存分着れば良い。それが自分の気持ちに正直な在り方であり、自分らしさなのだから(とは言え、発言者が単なる悪口ではなく良かれと思ってかける言葉を、アドバイスとして受け留める度量は持っていたい。そこには新たな自分を発見するヒントが隠されていることもあるから)

 また、最近読んだ記事で、ママ友いじめをする人(あくまでも一部の人々)の特徴として、彼女達は総じて自分に自信がなく、ある集団の中での自分の相対的な評価を気にする傾向が強いとの分析があった。だから、ひとりでは行動も判断も出来ない、自立も自律も出来ない人々なのだ。実際、常にグループでつるんで、グループの輪から脱落しまいと汲々としているように見える。

 さらに自分達の集団の中での価値観に基づいて、勝手に他人を評価しているのが彼女達だ。その価値判断に公正さはない。斯様な"期間"も"範囲"も限られた場でしか通用しない価値観に振り回されるのは、ナンセンス以外のなにものでもない。もっと広い世界に目を向ければ、ママ友世界での問題など、取るに足らないものだと分かるはずだ。

 只中にいるとそのことになかなか気づけないのかもしれないが、ママ友を巡る関係で悩んでいる人は、出来るだけ悩みは溜め込まずに自分が心許せる人間に打ち明けて、少しでも心を軽くする逃げ道は作っておきたい。一部の人間があれこれ言おうが、それは雑音として聞き流し、自分は親としてやるべきことを着実にこなすだけだ。そのうちにコップの中の嵐も過ぎ去って行く。


 結局、社会を窮屈にしているのは私達自身だ。生きづらさの原因は私達自身の中にある。「嫌われる勇気」なんてフレーズが流行ったのも、私達日本人があまりにも他人の目を気にし、嫌われることを恐れていることの裏返しなんだろう。

 そう言えば、日本には「村八分」と言う言葉があるように、日本人は集団から外れることを何よりも恐れる。そのためには「出る杭」にならないよう自身の言動も抑制するほどだ。言動の自由を奪われることを何よりも恐れる欧米とは真逆である(子どもの躾けにおいても罰として、日本の親は子どもを自宅から追い出して突き放すが、米国の親は逆に子どもに外出禁止令を出して子どもから自由を奪う傾向が強い)

 「民主主義」や「言論の自由」と言う概念も近代に海外から移入されたもので、他国の人々のように血と汗と涙を流して、長い闘いの末に獲得した権利ではないから、日本人の中には今一つ根付いていないように思う。未だに他人の目や評価を重んじる日本人は、「民主主義」や「言論の自由」にそれほど価値を置いていないようにさえ見える(だから為政者からその制限の動きが出ても一部を除いて危機感が希薄で、市民レベルで殆ど何のアクションも起こさない)

 日本の社会が、集団から外れることを厭う同調圧力の強い社会になったのは、日本という国が世界でも突出した災害大国であるがゆえに(世界の0.45%の国土面積しかない日本の災害被害総額は、世界全体の15〜20%を占めると言うのだから驚きだ)、その災害から生きながらえるため、常に集団で助け合うことが必要とされて来たからだとも言われる。しかし、そうした社会への過剰適応で、自らの首を絞めているのが、今の日本人だろう。

 もし今、この記事を読んでいる人が多少なりとも生きづらさ、息苦しさを感じているのなら、他人の目、他人の評価というしがらみから、もっと自分自身を解放して、自由に気軽に生きたら良いと思う。誰からも好かれ、誰からも評価される必要なんてないのだから。自分を心から理解し、受け入れてくれる人が、たったひとりでもいてくれさえすれば、それで十分なのだから。

 ただし、一度きりの人生をかけて、そのたったひとりの理解者を全力で探す努力だけはした方が良いと思うwink

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