少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

打ち合わせの意味

2016-02-08 20:10:35 | その他

会社に勤めていると打ち合わせをする。社内の人との会議もあれば社外の方との打ち合わせをすることもある。打ち合わせの内容をきちんと決めて短時間で議論を行い、終わったらちゃんと議事録をとって確認する。アクションについては期限を決めてパパッとリズミカルに話をすすめる。まあ、こんな感じだろうか。

 でも、研究所にいるころは、この打ち合わせというのが面倒くさくて仕方がなかった。今の時代、メールもあるんだから必要なことはメールで周知すれば済むことを、わざわざ電車賃を使って出向いて行って打ち合わせなんて何でするのだろうと思ったものだ。確かに必要なことはメールで文字にして伝えた方が、あいまいな話でコミュニケーションするより誤解がなくて良いような気もしないでもない。大体私の言うことを黙って聞いて、部下は作業をすればいいと思っていた私に会議は不要だった。でも、人々は打ち合わせをする。たくさんの会議室を奪い合うように予約して、毎日どこかで会議をやっている。自分だって、打ち合わせだらけの毎日を送っている。なぜか。

それはたぶん、会議をすると出席している人同士の相互作用があることが重要なんじゃないかと思う。メールで何かのメーッセージを相手に送ったとする。そのメールを受け取った人が、どのように思ったかを知るすべはない。もちろん、社交辞令の返事は来るかもしれないが、その人の真意をその返信メールからくみ取ることはなかなか難しい。ところが、会議では話はもっとストレートになる。気に入らない話をすれば、相手の人の眉間に皺がよったり、貧乏ゆすりを始めるかもしれない。そういうリアクションを目の当たりにすると、「おっとこれはまずい。」ということで、提案を少し変更することもあるかもしれない。そんな会議の参加者間の見えないリンク(相互作用)が会議の最も大事なことなのだ。

 相手が自分の意見に賛成したか反対したかということは、実はたいしたことではないのかもしれない。いろんな反応によって会議に微妙なバランスが形成されることを意識してはどうだろうか。あまり極端な意見を出すと、そのバランスは壊れてしまうに違いない。そんなカタストロフィにいたらなくても、いろんなバランスが会議には存在しうる。そういうバランスをコントロールする人、もしかするとあんまり意見も言わずに、会議室の端っこでお茶を飲んでいる人なのかもしれない。ほら、さっきの会議にもいたでしょ、そんな人。

会議をしましょう、会議。結構楽しいかも。


美術館での鑑賞について

2016-02-06 19:13:30 | その他

若いころは見向きもしなかったのに、だんだん年を取るってくるにつれて美術館へ行って絵を鑑賞するのが楽しくなってきた。まあ、写真とかを撮る様になったことも影響しているかもしれない。もちろん、大騒ぎとかしなければ、どういう風に鑑賞してもいいのだけれど、館内をよく見るとメモを取りながら詳しく見ている人もいれば、一番有名な絵だけさっと見て行く人もいる。そうかと思うと、友達とひそひそ感想を言いながら歩いている人もいれば、500円払ってレコーダをレンタルして、解説を聞きながら絵を見ている人もいる。あなたはどんな風に鑑賞しているだろう。

 

私の場合は、まず入口で500円(今日行った美術館は550円だった。)を払って、解説のレコーダを借りることが多い。他の人と一緒に行くことはない。一人行く。で、番号のついている絵を中心にゆっくり絵を見て歩く。もちろん絵の時代背景や作者の説明などを聞くと、なるほどという気にはなるが、実はあまりまじめには聞いていない。どちらかというと、番号のついたところの解説をペースメーカーのように聴きながら順路を進んで行く。でも、必ずしも順路にはこだわらず、少し離れたことから見ていて、人があまりい見ていない絵を見つけるとさっと、そこへ行ってみる。やっぱり大勢の人の後ろから絵を遠巻きに見るのはちょっといただけない。あと、レコーダには音楽だけのトラックがあったりすることもあるので、そういうの聴きながら歩くのも悪くないかな。

 

あとは、絵の前に立って鑑賞するのだけれど、私は脳の中にあるたくさんの自動ソフトエアのどれかが、その絵と共鳴して走りだすのをじっと待つ。と言っても、そんなに時間がかかるわけではなく、大体は1秒か2秒で決着が付く。そんな難しいことを言わなくても、要するに「いいなあ」と思うかどうかということである。いいなと思えた絵は、少しゆっくりその感触を楽しむし、逆にピンとこかなかった時は、あんまり頑張っても仕方がないので、さっさと次の絵に進む。大体こんな感じだ。一回の展示会で何枚かのいい絵に出合うと、とても良い気分になるもので、また絵を見に行きたいなあと思う。誰が描いた絵かとかそういうことはあまり関係がないけど、照明などを含む展示の仕方は、鑑賞の印象に影響を与えると思う。

 

出口の近くに、疲れ切ったおじさんが座り込んでいるのをよく見かける。たぶん、そういう人は、書いてある説明とかそういうのを一生懸命読んで、絵を「鑑賞」していたんだろう。それじゃあ、まあ、疲れるだろうけど、それも美術鑑賞には違いない。お疲れ様でした。

 


等価変換理論

2015-12-05 19:44:57 | その他

 なんか難しそうな理論である。私も最近まで聞いたことがなかった。同志社大学の故市川亀久彌教授の提唱した理論である。「創造性の科学」と題された氏の本には、親交のあったノーベル賞科学者の湯川秀樹が序文を寄せている。日本初のノーベル賞受賞者がお墨付きを出しているわけだから、怪しい理論ということで片づけてしまうわけにもいかない。

市川先生は、この本を初め多くの独創的研究の方法論についての著作を出版した。それらの多くの著作の中で、中心的な考え方が、等価変換理論というものらしい。ちょっと気になって今は絶版になっている「創造性の科学」を中古で入手してみた。ちょっと変わった本で、ほとんど説明もなく何十ページにわたってたくさんの図が収められていた。そこに示してあるのは、木の枝分かれの様子が川の枝分かれに似ていることとか、ペリカンのくちばしの角度がパワーショベルのバケットのそれとそっくりであることなど、とにかく身の回りの様々なものの類似点についてたくさんの例題が示されている。 

どうやら、こうしたたくさんの例から、市川先生は、世の中のいろんな事柄が一定の変換によって結び付けられることに気が付いたのである。それが等価変換理論である。本の中には、その変換を示す式が書いてあるが、普通の数式ではないその理論は今一つよくわからない。

長年技術者をやって来て、もともとの自分の専門分野とは異なるような分野の仕事にも関与するようになった。そういう時にどうやって未知の問題にチャレンジしてくかというと、実は類似性の発見というのが大きな武器になっている。要するに専門外の分野であっても、その問題の本質的なレベルでは、自分のよく知っている、例えば電気工学の分野と同じはずと考えるのである。そして、その類似性がある程度認められるような構造が発見されれば、答えを見つけるのはそれほど難しくない。言ってみれば、戦いを自分の得意な場所に引っ張り込むようなものである。さらにいうと、それは工学的な分野だけに限定されないような気もする。政治や社会のいろいろな問題をニュースで見ているときに、「この話、どっかで聞いたことあるなあ。」と思うことがある。それは、同じ話を新聞で読んだことがあるということではなく、構造が類似の問題を、他のところで見たことがあるということである。

例えば、最近進歩が著しい脳の仕組みについてのモデルは、階層化された人間社会の構造にすごく似ているような気がする。数多くの細分化された企業や自治体が全体として統合され、政治家がその頂点で国としての体面というか一貫性を保っている、というのが今の社会のありようだが、これってまさに脳の中で行われている処理とそっくりであると思うのだ。もし、この類似性が本当だとすると、脳の中にも警察とか裁判所とか、そういう構造もあるはずである。どうだろう?

いずれにしても、見る角度や立ち位置によって、物事というのはいろんな様相を呈して目の前に現れる。でも、一歩下がって、見直してみると、実は皆同じようなものであることに気がつく。どんどんどんどんその目線を後ろに引いて、高い位置に持っていくと、全てものが一体になった姿が目の前に現れてくるような気がしないでもない。こうなってくると工学というよりも宗教のお話になってくるかもしれない。

市川亀久彌、創造性の科学、日本放送出版協会、昭和45年第一刷発行

 


頭の中のソフトウエア

2015-11-02 23:05:31 | その他

仕事柄いろんなところでプレゼンテーションをする。自分で言うのもなんだけど、プレゼンテーションは得意である。概略の内容やスライドさえあれば、特に原稿など用意しなくても予定の時間にピタッとはめて話をするのにそれほど苦労することはない。何人の人が聞いているかも、あまり関係がない。いつからそういうスキルが身についたかよくわからないが、ツボにはまって話をしているときには、あまり自分では考えていない。上手く説明できないけど、勝手に話が口をついて出てくる感じだ。

他方、お金の計算は苦手である。電車賃の精算をしていても、数が増えてくるとなぜか答えが合わない。エクセルが計算しているだけなのに、計算するたびに答えが異なるのだ。よく見ると一か所だけ記入している欄がずれていたりするのだけど、そんな簡単な計算をしているだけで、変な汗がでてくる。まさかと思うかもしれないが本当の話である。全く情けない限りで、こんなことでビジネスマンが務まるのかと自分でも思うのだが仕方がない。それだけならいいのだが、他にも上手く出来ないことはたくさんあって、例えばひどい方向音痴。地下鉄に乗るたびに駅で迷子になる。とにかく方角に関してカンが働かないのだ。

脳科学の本によれば、頭の中にはたくさんのソフトウエアが主に右脳に埋め込まれているのだそうだ。そうしたソフトウエアを意識的にコントロールすることはできない。たぶん私の頭の中にはプレゼンをするソフトウエアはそれなりに完成されているが、電車賃を精算するソフトウエアはまだ完成されていない。仕方がないから左脳がよたよたと計算の仕事をしているんだろう。

意識しないで何かをしていることを考えるとき、実にたくさんのソフトウエアがあることに気が付く。キーボードを打つ時だって、いちいちキーを意識することはないし、ご飯を食べる時だって、箸の動きを意識してご飯を食べているわけではないだろう。そういうのは皆自動化されたソフトウエアなのである。というより、毎日の生活のほとんどの作業は、それら自動プログラムによって処理されているといってもいいらしい。そして、ほんのちょっとだけ、ソフトウエアで解決できない事柄の辻褄あわせが意識として作りあげられるのだという。意識とはリアリティとは関係がない言わばフィクションなのである。自分の意識が実は作られたものであると思うと、世の中の見え方が変わってくる。さっき部下に怒ったのは、自分の自由意志なんかじゃないかもしれない。それは、脳の中のソフトウエア群とリアリティの狭間で、ひねり出された苦し紛れのストーリーだとしたら、もう少し冷静に状況を判断できるようなるかもしれない。でも、そう考えている自分っていったい誰なんだろう。いよいよわからなくなってきた。

 ディヴィッド・イーグルマン著 / 大田直子訳:意識は傍観者である 早川書房 2012


意識について

2015-09-11 09:23:05 | その他

脳の様々な働きについては、このコラムでもこれまでも色々と取り上げてきた。脳に関する話題の中で最もチャレンジングなのが「意識」についてではないだろうか。我々が昼間活動しているときには、居眠りをしない限り(!)皆意識がある。その意味では最もありふれた対象であるにも関わらず、「いったい意識って何なの?」と問うた瞬間に何だかわからなくなってしまう。

そんな意識に関する本を読んだので少し紹介しようと思う。2人のイタリア人医師によって書かれた一般向けの本(1)だが、なかなか面白かった。詳細は本を読んでいただきたいのだが、一言でいうと意識というのは、

「意識をささえる基盤は、統合されかつ均質ではないシステムである。」

ということになるのだという。うーむ、分かったような分からないような表現ではある。
状況証拠を見てみると、脳の中の小脳や基底核と言われる場所は、独立した多くの均質なモジュールから成り立っているが、意識には関与しない。それに対して、視床-皮質系と呼ばれる場所は、左右に分かれた相互に繋がった密接なネットワークであり、意識にかかわっている。さらに、視床-皮質系では、外部刺激に対して複雑なネットワークにより作り出されたおびただしい数の異なる状況を区別し、その中から一つの選択がなされる。それが意識だというのだ。

ここで、恐ろしく複雑な構造と、そこから最終的には統一的な見解が導きだされるというところがミソらしい。例えば暗がりにいる時、「暗い」という感覚が意識にのぼるためには、それ以外の多数の選択肢、「明るい」、「赤い」、「黄色い」、「真っ暗」などの無数の選択肢の中から、「暗い」という選択肢が選ばれるプロセスが意識の本質なのだという。外からの刺激に対して意識が発生するのにかかる0.3秒程度の比較的長い時間は、この取捨選択に起因するらしい。

脳に限らず、あるシステムの構成要素のそれぞれが専門化し、差異が生まれれば生まれるほど、相互作用は難しくなり、それゆえ統合も困難になる。一方で、要素間の相互作用が活発であればあるほど、それぞれの要素は均一なふるまいをしがちである。脳は、この反発する力が奇跡的なバランスを保っているに違いないと主張する。

そういえば、あるプロジェクトを成功に導くためには、そこに参加する人々がそれぞれの分野の専門家であることが望ましい。その一方で、彼ら専門家の間の効率の良い意思疎通も重要だ。良いコミュニケーションをとり、あらゆる要素を考慮に入れて初めて全員が納得する仕事になるはずである。そこには、プロジェクトの意思が存在するとは言えないだろうか。逆に言えば、何も考えない同じような人ばかりの組織や、皆が勝手に動き回ってお互いのコミュニケーションがない組織には、組織全体の意識は存在しえないともいえるかもしれない。

企業が組織を変更したりして、新しいビジネス展開をすることがある。経営トップのメッセージが隅々までいきわたり、そこに向かって一丸となって邁進する。組織としては非常によろしい構図のような気もする。しかし、企業の意識とでもいえるような、有機的かつ柔軟に市場変化への適応性を持とうとしたとき、そうした均質な組織というのは、実はあまり良くないのかもしれない。脳科学のキーワード「多様性」と「統合」、もしかするとこれからの社会や会社組織においても重要なメッセージを含んでいるような気がしてきた。

(1)参考文献:マッスィミーニ、トノーノ:意識はいつ生まれるのか、2015、亜紀書房


天体観測のコツ

2015-06-13 20:06:40 | その他

私はいくつかの趣味があるのだが、その一つに天体観測というのがある。25センチもある大きな口径の反射望遠鏡なんかも持っていて、千葉に住んでいたころは田舎の田んぼの中に道具を持ち出して何光年も彼方の銀河を眺めていた。でも、数年前に都内に引っ越してからは、光害のためにそういう微かな対象はさっぱり見えなくなってしまい、今では太陽と月ぐらいが観測対象になっている。

 遥かかなたの銀河を望遠鏡で見る。たまには観望会を開いて近所の人にも見せあげたりすると、とても喜ばれる。土星の輪とか木星の大赤斑、オリオン座の大星雲なんかは、日ごろから見慣れていない人でもすぐわかる。でも、より遠くの微かな対象になってくると、とたんに見えなくなってしまる。私には、視野の真ん中にしっかり見えている星雲が、他の人にはさっぱり見えないこともしばしばだ。

 なぜ、そこにある星雲が見える人と見えない人がいるのか。おかしいといえばおかしな話ではある。

でも、暗いところで微かな星雲を見るには、いくつかのコツがあって、それを習得していないといくら頑張っても見えないのである。

 (1)そらし眼で見る。

人間の目の網膜は、中心部よりも端っこの方が感度が高い。だから、対象を見る時に、それを見つめるのではなく、そらし眼で見ると、より感度の高い網膜の部分に結像するので、より暗い対象が見えるようになる。

 (2)息を止めない。

望遠鏡で天体を見ると、つい息を止めてしまう。そうすると血中の酸素濃度が下がってしまって、目の感度が下がってしまうのだという。観測の前に何度が深呼吸してから暗い天体にチャレンジする人もいるらしい。

 (3)動かないでじっと見る。

カメラで暗い天体を撮影するときには、カメラの動きを星に同期させて長時間露光すればよいことを知っている人は多いだろう。人の目にはカメラのような光の蓄積効果はないことになっているが、実は数秒くらいは光を貯めることができるという話がある。つまり、天体がある場所をじっと動かないように見つめることで、光が蓄積されて見えるようになるらしい。

 個人的には、(1)については経験しているが、(2)、(3)についてはよくわからない。でも、ある程度はそういう効果もあるんじゃないかと思っている。そういう体の反応を見きわめながら天体観測をするのも楽しいものだ。

 今、社会は目まぐるしく変化している。目の前の状況がどうなっているかをしっかり把握することは非常に重要なことに違いない。そんなことはわかっているから、皆せっせとスマホでいろんな情報をチェックしている。でもね、目の前のものをちゃんと見るって、天体観測同様、案外難しいじゃないだろうか。ちょっとしたノウハウを知らないと、目の前で起こっていることもちっとも見えないのかもしれない。

天体観測ノウハウが、そんなとき案外役に立つんじゃないかと思う。


写真と時間の関係

2015-05-14 14:28:07 | その他

 このコラムでも何回も取り上げているので、ご存じかもしれないが、私は写真を趣味にしている。それもフィルムでモノクロ写真を撮って自分で現像までやっている。最近は、フィルムカメラなど使う人が殆どいないため、フィルムや現像液などの値段が高騰して、結構出費がかさむようになった。ただ、ネットが便利に使える現代では、世界中のどこかにフィルムや印画紙を作っているメーカーやショップはあるもので(と言っても旧東欧圏のチェコとかだけど)、しばらくは絶滅ということにはなりそうもない。

 さて、いったい写真とは何かという話になると、一義的には人や景色などの空間に存在するものをフィルムあるいはデジカメのメモリに固定する機械ということになるだろう。ファインダー越しに見えるイメージを、シャッターボタンを押して、パッと切り取る。カメラマンは、決定的なチャンスをとらえるために人のあまり行かないような場所に行って、一日中そのチャンスが来るのを待つのだ。そう、写真は空間を固定する機械である。

 ところで、アラーキーこと荒木 経惟氏という写真家をご存じだろうか。ちょっと下品な(?)写真とかをたくさん撮っている人で、なんか良くわかんないなあというのが、私の正直な印象だった。でも、最近読んだ雑誌(1)の中でアラーキー氏が、

 「写真は空間を撮るんじゃなくて時間を撮るんだ。」

 と言っていたの見て面白いなあと思った。具体的にどういうことかというと、例えば何の変哲もない町の風景を同じ場所で繰り返し写真を撮っていく。それぞれの写真には劇的なことは何も映ってはいない。でも、何枚も何枚もそういう写真を撮って、それを後から並べてみると、そこには同じ構造の繰り返し(家の並び)と、ちょっとした差異(トラックや人が通った)が連綿と連なっている。そこには確かに時間が写っていると言えなくもない。

 このコラムをもう何年も続けてきている。面白いねと言ってくださる方も少しはいて、しつこく続けてきてはいるが、その意味ってなんだろうと思わなくもない。でも、同じ目線からいろんな観察を行い、それを並べていくという意味ではアラーキー氏の写真と似たとことがあると気が付いた。だとすると、それぞれのコンテンツの内容も大事だけど、その流れの中に自分の仕事や会社の時間が写りこんではいないかということが気になり始めた。それは、きっとコラムに限った話でなくても、いろんな仕事の長年の積み重ねの中に必然的に写りこんでいるような気もする。そして、その時間の延長線上に未来は存在するようにも思えるのだ。

 会社が新しくなって、このコラムを新たに読んでくださる方も増えた。どんなことを書いたものかとちょっと迷いがないでもない。でも、その中身よりも、続けていくことに意味を求めてみたいと思い立った。そこには未来を映す時間が写っているのだから。

 

(1)SWITCH VOL.33 NO.2 FEB. 2015


新年早々

2015-01-10 18:46:17 | その他
年末年始、旅行に出かけて帰ってきてからPCをたちあげようと思ったら、いきなりBIOS何とかエラーでたちあげられなくなった。メーカーに問い合わせたが、ハードのトラブルのよう。まだ保証期間内なので無償でなおしてもらえそうだけど、しばらくスキャナーとかはつかえなくなってしまった。残念。

ルノアールについて

2014-12-25 23:24:32 | その他
たまに美術館に行ったりすることがある。絵画について特段の知識があるわけではないが、ちょっと時間があると上野のお山に行って、面白そうな展覧会をさっと見たりすることがある。
そんないい加減な絵画鑑賞趣味の中で、ずっと思っていたことがある。

ルノアールってへたくそだなあ。

人の顔もへんちくりんだし、色も暑苦しい。ルノアールの絵をじっくり長く眺めたことがなかった。だってぴんと来ないんだもの。

でも、ルーブルやオルセーにも絵がおさめられている天下のルノアールの絵がへたくそなわけがない。家族に言っても、それはあなたに絵を見る才能がないからだといわれていた。

しかし、自分と全く同じ評価をしている人を見つけた。

赤瀬川原平の名画読本

という本のルノアールの下りが、まさに僕の認識とピッタシカンカンだった。
赤瀬川源平氏というのもちょっと変わった人だったみたいだから、一般論というわけではないだろうけど、同じことを考えている人がいたのはちょっとうれしい。

ルノアールファンの人がいたらごめんなさい。あくまでも私見です。