今日は異動する同僚の歓送会。酔っ払いました。
繰り返し使用ができる現像液を10回使って、新しいのもに替えた。
そうしたら、ネガの濃さが愕然とするくらい違っていた。どうも10回は無理のよう。こんどから5回くらいでかえることにしよう。
そうしたら、ネガの濃さが愕然とするくらい違っていた。どうも10回は無理のよう。こんどから5回くらいでかえることにしよう。
この間4000円弱で買った200mmのレンズ。ミノルタのレンズのサイトがあったので、調べてみたら70年代後半のものらしい。定価は40000円弱。以前買った135mmF3.5も最初からあった50mmF1.4もみんな同じころのもの。ロッコールレンズというのは、阪神タイガースでおなじみの六甲おろしの六甲からきているんだと。勉強になりました。
本当に久しぶりに星を見た。いつの間にか木星も西の空に傾いて、以前のようなギラギラとした明るさはもうない。
夏の大三角が天頂近くに輝いているが、まだ雲が少しあって白鳥座ははっきりしない。ベガだけはギンギンに光っている。
もう9時を過ぎているので今日は望遠鏡の出動はなし。週末に晴れたらゆっくりみたいなあ。
夏の大三角が天頂近くに輝いているが、まだ雲が少しあって白鳥座ははっきりしない。ベガだけはギンギンに光っている。
もう9時を過ぎているので今日は望遠鏡の出動はなし。週末に晴れたらゆっくりみたいなあ。
久しぶりに田舎に帰省した。床の間には以前に送った子供の写真が飾られていた。
その時はなかなかの出来だと思って送ったのだが、今見ると、そこからはずしてもって返りたいくらいお粗末な写真に見えた。一年のほどの間に、少なくとも写真を見る目はずいぶん進歩した物だと思う。コツコツと続けていくことって大切だなあと思う。
その時はなかなかの出来だと思って送ったのだが、今見ると、そこからはずしてもって返りたいくらいお粗末な写真に見えた。一年のほどの間に、少なくとも写真を見る目はずいぶん進歩した物だと思う。コツコツと続けていくことって大切だなあと思う。
マップカメラミノルタでマニュアルフォーカスの200mmF4を3990円で売っていた。また思わずゲット。店の人に、こんなもん買う人いないでしょう、とふったら、案外若い人がマニュアルの一眼レフに古いレンズをつけて楽しんでいるとのこと、良いことじゃ。
ハッセルのレンズとなると中古でも10万円を下ることは滅多にない。それに引き換えミノルタのMFレンズだと、結構この値段でレンズが手に入る。性能はそれなりなんだろうけど、子供のサッカーを撮るのに135mmはちょっと短い感じがしていたので。
隣にこれも3990円でマクロリングが売っていた。箱付きで心が動きかけたが何とかこらえた。でも、買っちゃいそうだな。。。まだあるだろうか。
物欲がうずく今日この頃です。
ハッセルのレンズとなると中古でも10万円を下ることは滅多にない。それに引き換えミノルタのMFレンズだと、結構この値段でレンズが手に入る。性能はそれなりなんだろうけど、子供のサッカーを撮るのに135mmはちょっと短い感じがしていたので。
隣にこれも3990円でマクロリングが売っていた。箱付きで心が動きかけたが何とかこらえた。でも、買っちゃいそうだな。。。まだあるだろうか。
物欲がうずく今日この頃です。
ブローニーのフィルムを買ったら、箱に
快晴 f16 1/500
とあった。ISO400での条件だから200ならf8 1/500となる。
そういえば、この前子供のサッカーを撮った時はすごくいい天気だった。で、条件はf5.6 1/500。一段オーバーしている。
確かに露出計の指示はその通りだったのだが、結果的にオーバー露光。
箱に書いてある数字は、勿論目安に過ぎないけど、大体の感覚をもうちょっと磨いた方が良いなあと思った。
そういえば昔は、手動式の露出計と称するものが合ったらしい。その場所の条件を計算尺みたいなもので合わせていくと露出が決まるというもの。それが頭に入れば、まあ露出計なんかなくてもピッタリいけるんだろうなあ。
快晴 f16 1/500
とあった。ISO400での条件だから200ならf8 1/500となる。
そういえば、この前子供のサッカーを撮った時はすごくいい天気だった。で、条件はf5.6 1/500。一段オーバーしている。
確かに露出計の指示はその通りだったのだが、結果的にオーバー露光。
箱に書いてある数字は、勿論目安に過ぎないけど、大体の感覚をもうちょっと磨いた方が良いなあと思った。
そういえば昔は、手動式の露出計と称するものが合ったらしい。その場所の条件を計算尺みたいなもので合わせていくと露出が決まるというもの。それが頭に入れば、まあ露出計なんかなくてもピッタリいけるんだろうなあ。
ニュースを見ると痛ましい事件や自然災害が毎日のように報道されている。自然災害はともかくとしても事件の場合には当然犯人がいるわけで、なんでああいうことをするのかなあなどと思うこともしばしばある。日本の経済が右肩上がりで国中が調子よくやっていたころは、もうちょっと世の中もいろんな意味でましだったような気がしないでもない。
仕事をしていてもうまくいかないことが次から次へと起こってくる。相手の言っていることがコロコロ変ったり、「そんなこと言われてもなあ」と言いたくなるようなこともよくあることだろう。あたりまえのことだが、仕事に限らず物事は何か原因があってダメになるのである。ダメになる原因がなければうまく行くはずである。それが成功の定義と言ってもいい。
何かを成し遂げようと思ったとき、自分の外にその原因を求めると、それはもうどうしようもない。取引先が悪いとしたら、それは取引先の問題であり、自分にはなす術がないのである。その取引先のせいでプロジェクトは失敗してしまったのだ。
「あの会社があのときあんなことを言わなければうまく言ったのに。。」
という具合である。普通に考えると、自分じゃない取引先がやったミスなんだからどうにもならないと思うのも無理はない。
しかし、本当にそのプロジェクトを成功させたかったら自分の外に原因を作ってはいけないと思う。その問題を自分の中に取り入れてしまうことが必要なのである。そうすれば、失敗の言い訳がなくなる。でも、問題を自分に取り入れるって、一体どうすればいいんだろう。夢を食べる獏みたいに、問題を飲み込んでしまうなんてできっこないと思うかもしれない。
でも、そんな化け物のような胃袋を持たなくても問題を飲み込むことはできる。全ての自分のせいにすればいい。それだけのことだ。上の例で言えば、なぜ取引先の会社は余計なことを言ったのか、その意味を考えるのだ。その理由がわかれば、それを取り除けば問題は解決するはずだ。問題を自分のせいにして考える、この一点さえ間違えなければ目の前からトラブルは消えてなくなるのである。簡単といえば簡単なことである。
地球温暖化の問題や国の債務の問題に関して、日本の政府が悪いとかアメリカがガソリン使いすぎるからいけないというのは簡単なことである。でも、それではきっと問題は解決しないだろう。そういう問題も自分のせいにして考える事が大切なのである。みんながそうできれば、きっと地球も日本も大丈夫だろう。ちょっとした省エネ意識や無駄の排除を各自が考えることによって、いずれは小さな努力が大きな結果につながっていくに違いないと思うのだ。少なくともそういう気持ちを持っている人にとっては、その人の人生は悲観的なものではなくなるのである。成功も失敗も実は主観的な事柄なのだ。
仕事をしていてもうまくいかないことが次から次へと起こってくる。相手の言っていることがコロコロ変ったり、「そんなこと言われてもなあ」と言いたくなるようなこともよくあることだろう。あたりまえのことだが、仕事に限らず物事は何か原因があってダメになるのである。ダメになる原因がなければうまく行くはずである。それが成功の定義と言ってもいい。
何かを成し遂げようと思ったとき、自分の外にその原因を求めると、それはもうどうしようもない。取引先が悪いとしたら、それは取引先の問題であり、自分にはなす術がないのである。その取引先のせいでプロジェクトは失敗してしまったのだ。
「あの会社があのときあんなことを言わなければうまく言ったのに。。」
という具合である。普通に考えると、自分じゃない取引先がやったミスなんだからどうにもならないと思うのも無理はない。
しかし、本当にそのプロジェクトを成功させたかったら自分の外に原因を作ってはいけないと思う。その問題を自分の中に取り入れてしまうことが必要なのである。そうすれば、失敗の言い訳がなくなる。でも、問題を自分に取り入れるって、一体どうすればいいんだろう。夢を食べる獏みたいに、問題を飲み込んでしまうなんてできっこないと思うかもしれない。
でも、そんな化け物のような胃袋を持たなくても問題を飲み込むことはできる。全ての自分のせいにすればいい。それだけのことだ。上の例で言えば、なぜ取引先の会社は余計なことを言ったのか、その意味を考えるのだ。その理由がわかれば、それを取り除けば問題は解決するはずだ。問題を自分のせいにして考える、この一点さえ間違えなければ目の前からトラブルは消えてなくなるのである。簡単といえば簡単なことである。
地球温暖化の問題や国の債務の問題に関して、日本の政府が悪いとかアメリカがガソリン使いすぎるからいけないというのは簡単なことである。でも、それではきっと問題は解決しないだろう。そういう問題も自分のせいにして考える事が大切なのである。みんながそうできれば、きっと地球も日本も大丈夫だろう。ちょっとした省エネ意識や無駄の排除を各自が考えることによって、いずれは小さな努力が大きな結果につながっていくに違いないと思うのだ。少なくともそういう気持ちを持っている人にとっては、その人の人生は悲観的なものではなくなるのである。成功も失敗も実は主観的な事柄なのだ。
ミノルタの一眼レフは古い機械で露出計が満足に動かない。仕方がないのでマニュアルで露出を計って撮影をしているが、これがなかなか難しい。
大体ゾーン5になるあたりを見当をつけて露出値を設定するが、これがなかなか当たらない。最近はどうも露出過多で真っ黒いネガが出来てしまう。一段くらいはオーバーな感じだ。
露出計はゴッセンのデジシックスというハンディタイプのものだが、空からの光が入るのではないかと手で覆いをしたり、いろいろやるが今ひとつ自信がない。
センサの表面を半円形のカバーで覆うと受光式になるが、こっちはいよいよ難しい。わずかな向きの違いで大きく指示が変わってしまう。
露出とは本当に難しいなあ。
大体ゾーン5になるあたりを見当をつけて露出値を設定するが、これがなかなか当たらない。最近はどうも露出過多で真っ黒いネガが出来てしまう。一段くらいはオーバーな感じだ。
露出計はゴッセンのデジシックスというハンディタイプのものだが、空からの光が入るのではないかと手で覆いをしたり、いろいろやるが今ひとつ自信がない。
センサの表面を半円形のカバーで覆うと受光式になるが、こっちはいよいよ難しい。わずかな向きの違いで大きく指示が変わってしまう。
露出とは本当に難しいなあ。
この連休は、フィルムの現像はやらず、印画紙に焼く付けだけやった。今まであまり焼きこみや覆い焼といったテクニックは使っていなかったが、今日は積極的にやってみた。
なんか焼付けが機械的な作業で、つまらなくなっていた。印画紙に焼く付けをするときに作者の意図を織り込むためには、これらの作業は必須なのだろう。きちんとした階調がでるようにするだけなら化学の実験である。それを越えた何かが必要なのだ。写真をアートにするためには。
覆い焼をすると、今までよりも少し多めに露光が出来る。ハイライトにすこしトーンが出てしまいそうなくらいで焼いて、ハイライトを覆ってやる。そうすればしっかりとしたダークをだしつつハイライトもキチンとだせるのだ。
まあ、あまりやりすぎるといやらしくなってしまうのだが、しばらく焼付けがたのしくなりそうだ。
覆い焼の覆いのカタチや大きさというのもいろいろ流儀があるのだろうね。
なんか焼付けが機械的な作業で、つまらなくなっていた。印画紙に焼く付けをするときに作者の意図を織り込むためには、これらの作業は必須なのだろう。きちんとした階調がでるようにするだけなら化学の実験である。それを越えた何かが必要なのだ。写真をアートにするためには。
覆い焼をすると、今までよりも少し多めに露光が出来る。ハイライトにすこしトーンが出てしまいそうなくらいで焼いて、ハイライトを覆ってやる。そうすればしっかりとしたダークをだしつつハイライトもキチンとだせるのだ。
まあ、あまりやりすぎるといやらしくなってしまうのだが、しばらく焼付けがたのしくなりそうだ。
覆い焼の覆いのカタチや大きさというのもいろいろ流儀があるのだろうね。