四月になって新入社員も出社するようになり、そのせいかわからないがオフィスにちょっと緊張感が感じられる。朝のテレビを見ていると、そうした新人君たちのコミュニケーション能力関する話題が放送されていた。なんでも、最近の新人は何でもスマホで問題を解決する癖がついているので、対人コミュニケーション力が低いのだという。コロナ禍もあったから、余計に人と会って話をする機会が少なかったことも影響しているらしい。そうなると、近頃の若いものはけしからんというのは少し気の毒な話かもしれない。
じゃあ年を食っている我々はちゃんとコミュニケーション能力を持って仕事をしているかというと、それほど自信があるわけでもない。TEAMSでの会議でパワポを使ったプレゼンなどをすることも多い昨今、上手に相手に情報を伝えることができるかどうかはとても大切なことである。漏れがあるとまずいと考えすぎて、情報を詰め込んだスライドをよく見るけど、ああいうのは本当にいただけない。画面に出ている文字を読んでいるうちに次のスライドに行ってしまい、発表者が言ったことを聞き落とすこともある。もうそこで緊張の糸は切れてしまう。ね、ねむい。
また、議事録をまとめることもあるだろう。最近は長時間の録音もへっちゃらなので、あとから発言をみんな文字に起こして議事録としても、情報過多で何がポイントかわかったものではない。話を捏造してはだめだけど、上手に議論をまとめた議事録はうつくしいと思う。
パワポも議事録も大切なコミュニケーションの例であるのだが、今回はそうしたコミュニケーションの裏にあるものを考えてみたい。コミュニケーションの裏とは何だろう。それは、「そこに書いてないこと」である。資料とは、何かを伝えるために作るものなのだから、そこに書いてないことはコミュニケーションとは関係ないと思うかもしれない。しかし、そこに何かを書かないということは、例えばその資料に書いてない事柄を否定してはいないというメッセージにはなりはしないだろうか。あるいは、意図的にその資料にある情報を書かなかったということもあるかもしれない。
もちろん、資料にはその事柄について明示的には何も書いてないのであるから、書き手がそんなことは何も考えていなかった可能性はある。読み手のただの深読みに過ぎない。でも、微妙な交渉事において、当然言及しても良いと思われることが、なぜかその資料には書かれていなかった時、読み手はそこに何らかのコミュニケーションがあったと感じるのではないか?
例えば、製品の部品Aと部品Bについては記載があったのに、残りの部品Cについての説明がなかったとしよう。もちろん、その部品には説明するほどの意味がなかった可能性もあるのだけれど、もしかすると部品Cに問題があり、その点に触れたくなかったという意図がそこには隠されているのかもしれない。そこに情報がないということが、別の情報を示唆しているという訳だ。
表に書かれている情報は明示的であるので、その意味もはっきりしている。しかしここで指摘した「書かれていない情報」は、解釈の仕方によってどうにでもなるので不明確でぼんやりしているかもしれない。でも、ビジネスにおいて、後者の情報をうまくかぎ分けられるかどうかが、まさにコミュニケーションのコツではないかと思うのだがどうだろうか。ま、一年や二年では身に着けられるものではないかもしれないけど。