少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

書かれない情報について

2024-04-04 19:30:23 | 哲学

四月になって新入社員も出社するようになり、そのせいかわからないがオフィスにちょっと緊張感が感じられる。朝のテレビを見ていると、そうした新人君たちのコミュニケーション能力関する話題が放送されていた。なんでも、最近の新人は何でもスマホで問題を解決する癖がついているので、対人コミュニケーション力が低いのだという。コロナ禍もあったから、余計に人と会って話をする機会が少なかったことも影響しているらしい。そうなると、近頃の若いものはけしからんというのは少し気の毒な話かもしれない。

 じゃあ年を食っている我々はちゃんとコミュニケーション能力を持って仕事をしているかというと、それほど自信があるわけでもない。TEAMSでの会議でパワポを使ったプレゼンなどをすることも多い昨今、上手に相手に情報を伝えることができるかどうかはとても大切なことである。漏れがあるとまずいと考えすぎて、情報を詰め込んだスライドをよく見るけど、ああいうのは本当にいただけない。画面に出ている文字を読んでいるうちに次のスライドに行ってしまい、発表者が言ったことを聞き落とすこともある。もうそこで緊張の糸は切れてしまう。ね、ねむい。

また、議事録をまとめることもあるだろう。最近は長時間の録音もへっちゃらなので、あとから発言をみんな文字に起こして議事録としても、情報過多で何がポイントかわかったものではない。話を捏造してはだめだけど、上手に議論をまとめた議事録はうつくしいと思う。

パワポも議事録も大切なコミュニケーションの例であるのだが、今回はそうしたコミュニケーションの裏にあるものを考えてみたい。コミュニケーションの裏とは何だろう。それは、「そこに書いてないこと」である。資料とは、何かを伝えるために作るものなのだから、そこに書いてないことはコミュニケーションとは関係ないと思うかもしれない。しかし、そこに何かを書かないということは、例えばその資料に書いてない事柄を否定してはいないというメッセージにはなりはしないだろうか。あるいは、意図的にその資料にある情報を書かなかったということもあるかもしれない。

もちろん、資料にはその事柄について明示的には何も書いてないのであるから、書き手がそんなことは何も考えていなかった可能性はある。読み手のただの深読みに過ぎない。でも、微妙な交渉事において、当然言及しても良いと思われることが、なぜかその資料には書かれていなかった時、読み手はそこに何らかのコミュニケーションがあったと感じるのではないか?

例えば、製品の部品Aと部品Bについては記載があったのに、残りの部品Cについての説明がなかったとしよう。もちろん、その部品には説明するほどの意味がなかった可能性もあるのだけれど、もしかすると部品Cに問題があり、その点に触れたくなかったという意図がそこには隠されているのかもしれない。そこに情報がないということが、別の情報を示唆しているという訳だ。

表に書かれている情報は明示的であるので、その意味もはっきりしている。しかしここで指摘した「書かれていない情報」は、解釈の仕方によってどうにでもなるので不明確でぼんやりしているかもしれない。でも、ビジネスにおいて、後者の情報をうまくかぎ分けられるかどうかが、まさにコミュニケーションのコツではないかと思うのだがどうだろうか。ま、一年や二年では身に着けられるものではないかもしれないけど。


自動プログラムについて

2024-03-25 13:33:47 | 哲学
頭の中には本人もコントロールできない自動プログラムが走っていると指摘した。芸術を見て感動することなどは、そういう自動プログラムの結果ではないかと思うのだ。でも、普段、人はそういうプログラムの存在に全く気が付いていない。すべての行動は自分の意志によって行動していると思っている。もちろん私もそうである。
でも、時々そういうソフトウエアの存在を示唆するようなことに気が付くこともあるのではないだろうか。例えば恋愛感情というのは、自分の意志というよりも、相手のことを考えずにはいられないような意識を越えた力の存在を感じずにはいられない。時にそれを運命と意識は考える。でもロマンチックな話をこんな風に書いたら、イメージが台無しになってしまうかもしれないけど、こういう感情は頭の中に埋めこまれた自動プログラムの典型的な例の様に思える。恋に落ちるとは、ある種のソフトウエアが何かをきっかけに頭の中で走り出したことを意味するのだ。そのソフトウエアが何かの拍子にとまってしまうと、百年の恋も冷めてしまうことになる。嗚呼。
 
そんな風に考えると、自由意志と思っている私たちの意識いうのは、そのほとんどすべてが意識下の自動ソフトウエアの動作の結果ではないかとも思えてきた。他人が起こす、考えられないような事件や遠くの国で起きている争いごとは、遠く離れて客観的に見ればそんなことをなぜするのだろうと思うような事柄であっても、当の本人にとってはそうせざるを得ない意識によって引き起こされている。だから自動ソフトウエアには、民族や文化を共有する人たちにおいては、多分似通っているのだろうと思う。そしてそうした意識下の自動ソフトウエアが勝手に意識をコントロールしているとは言えないだろうか。行動を起こしている本人には、その行動を正当化するようなロジックが当然あるのだろうけど、実際には自動ソフトウエアがつじつま合わせの理屈を作っているだけに過ぎない。私たちの意識とは、多分その程度のものに過ぎないと思うのだ。
 
じゃあ、私たちにはそうした作られたインチキの意識に対して何の対抗手段も持ちえないのだろうか?自動ソフトウエアは、エゴイスティックに作られていて、そのせいで世の中から争いが絶えないのだろうか?私は自分の意志が自動ソフトウエアによって作られたものであると考えることにヒントが隠されているような気がする。それは自己否定にもつながるような考え方なので、やや精神的な危険を伴う考え方ではあるのだろうけど。

美術館の楽しみ方

2024-03-18 21:49:21 | 哲学

人間の脳において自動的なソフトウエアが走っているという話をした。それはその人の意思とは関係なく勝手に動作しているプログラムであり、自分で動かしたり止めたりすることはできない。そんなことを考えているときに、近くの世田谷美術館に出かける機会があった。世田谷美術館は、区立の美術館にしてはずいぶん立派な建物で、世界の名画とはいかないまでも、いろんな企画展をお手ごろな値段で楽しめる。今日は、小田急線沿線の美術家の作品を集めた展覧会をやっていた。最近のメジャーな美術館の入場料は2000円を超えて結構高いのだが、ここは500円と安くて助かる。

館内に入っていろんな芸術品を鑑賞するのだが、横に書いてある説明を私はあまり読まない。少し距離を置いて、絵を何となく眺めると、ちょっと心臓がどきどきしてくるというか、

「おおっ、いいなあ。」

と思える作品に時々出会う。どちらかというと輪郭のはっきりした、色味を多く使った作品に惹かれることが多い気がする。コントラストのはっきりしたモノクロ写真もいいと思う。昔は好きだった印象派のような輪郭のはっきりしないふわっとした作品はあまり感じない。何枚かそういう作品に出会えると、美術館にきてよかったと思う。

多分それは、自動的に私の頭の中で動いているソフトウエアが、その作品に反応しているのだと思う。意識とは関係ないところで、感情や体の反応という形でそのソフトエアはリアクションを示している。意識の主体である私は、それを横で傍観するしかないけれど、自動ソフトエアがどう反応するのだろうと考えながら絵画を鑑賞するのは悪くない気がする。

実は、こういうことって美術品の鑑賞に限った話ではないだろう。カメラを持って町に出かけるとき、写真家は何にレンズを向けるのか。それは必ずしも意識的に選択されるわけではないはずだ。考えてもよくわからないけど、

「おおっ、いいなあ」

と思う被写体にカメラを向けるに違いない。私もそんな感じでスナップ写真を撮る。それは、美術館のお気に入りの作品と同じだ。そして、そういう風にしてとられた写真というのは、同じような自動ソフトウエアを持った人にも同じ様な反応を想起させるんだろうと思う。こういうプロセスを「感動」と呼ぶんだろうなきっと。逆に言うと、いくら技巧を凝らしてきれいに見える作品や写真を撮っても、そういう自動ソフトエアの関与しない作品には感動は生まれないに違いない。豊かな自動ソフトウエアってどうやってはぐくまれるかはよくわからないけど、芸術を理解するというのは、そういう自動ソフトウエアの関与が絶対に必要なのだろうと思う。


感情について

2024-03-18 21:47:10 | 哲学

「何かを感じる」、それはその人の自発的な行為の様に普通は考える。しかし、そのプロセスをよく観察してみると、実は意識的に何かを感じているということはほとんどないのではないかと思う。本人の意思とは関係ないところで「感じる」というプロセスは発動していることが多いように思える。感じることは自動プロセスであって一義的には人の意識とは関係がないと言っても差し支えないのではないか。

他方、何かを感じるということは、感じる対象があるということだから、それは自分だけで完結する事柄ではなく、周りとの相互作用の結果生まれているともいえる。純粋に頭の中で起こった妄想でなければ、感じることも外部との関連は深く結びついているともいえるだろう。絵を美しいと感じることや小説に感動することなど、感情には対象が必要である。

では、果たして「感じる」という事象は、外部の対象によって起動された自動プロセスなのか、それとも自動プロセスが起動されたのちに辻褄合わせの様に外部の対象に結び付けられるのか、どっちが先かというとなかなか難しいところだと思う。どちらかというと前者の方が常識的な見方かもしれない。美しい絵を見たから「美しい」と感じたのであって、その逆ではないはずだ。しかし、自動プロセスによって想起された感情によって、周囲の状況とマッチするように状況が取捨選択され、それが体験として認識されるということはないのだろうか。例えば、「美しい」という感情が心の中に湧き上がってくると、何となく上野の美術館に行きたくなって、そこで見たゴッホの絵を見て感動する、みたいに。表面的には美術館で傑作を見たから美しいと思ったということになるけれど、本当は「美しい」という感情の方が先にあったということはあり得る気がする。

もし、そうだとすると、もし自動的な感情を何とかしてコントロールすることができれば、自分の目の前で起こる経験をも制御することができるのかもしれない。もちろん、自動的な感情をコントロールするというのは矛盾したステートメントである。自動的なものは制御できない。でも、人々は長い歴史の中でそれにチャレンジしてきたようにも思える。座禅などの瞑想や、リラクゼーション、運動など、精神的な安定のための方法が様々提案されているし、最近は不調をきたした精神に対する投薬も行われている。自動的な感情プロセスの起動には体のフィジカルな部分も含めて様々なファクターが関与しており、そうした因子を制御することにより感情の自動プログラムをコントロールしようとしているのである。

異常気象や天変地異、政治不信に紛争の長期化。皆、それぞれの人の感情とは別のところで起こっている事実の様に思っているけど、もしかするとそれぞれの個人の心の中で発動している感情ソフトウエアによって自らが拾い上げているにすぎないのかもしれない。


対立概念の生成と消滅

2022-05-03 19:33:46 | 哲学

レーザーを使ったガス漏れ検知器の製造販売を長くやっている。この機械は、メタンガスに強く吸収される波長の光を使うことによってガスを検知する。そのことはずっと昔から知られていることで特段我々のオリジナルということではない。実はガス検知をするためには、ガスに吸収される光だけではだめで、光に吸収されない光とセットで放射することによってはじめて定量的なガス検知が可能になる。詳しい説明はしないが、ガス検知器として機能するためには、ガスに吸収/非吸収される2種類の光の存在が不可欠なのである。レーザーメタンは、いわば光吸収のコントラストによってメタンガスを検知するのだ。

趣味でやっている無線、最近はカーボン製の釣り竿をアンテナに使うプロジェクトに取り組んでいる。以前は、やってもうまくいかないと誰もが思っていたのだけれど、使ってみるとこれが案外そうでもないことがわかってきた。少し理論的に分析をしてみるとこれがなかなか面白い。こういう新しいプロジェクトに取り組んでいる時には、新しいアンテナでよく電波が飛ぶということをいくら言ってもあまり説得力がない。

「それは、あなたの思い込みじゃないの?」

という声が必ず聞こえてくる。そういう時には、アンテナの条件を変えてうまく電波が飛ばない状態とのコントラストを作るのが一番だ。他のパラメータを全て同じにして、キーになる性能を比較する。ここでもコントラストが大事であり、そういうコントラストがうまく作れるようになると、面白いことに今起こっている現象の背景にある物理的意味が見えてくる。アンテナの話に限らず、技術・科学の探求においては必ずコントラストを作ることが必ず課題になる。逆に言うと、そういうコントラストが今やっているプロジェクトでは明確に意識されているかという問いが大切だ。

こんな風な考えをさらに延長すると、コントラストというのは科学にこだわったことではない事に気が付く。以前から言っているけど、モノクロ写真において写真に意味をもたらすのは白と黒のコントラストだし、文学においては愛と憎しみという2つの軸が中心課題としてとらえられることが多い。それは宗教においても言えることかもしれない。ちょっと興味があって、親鸞の教えについて少し本を読んでいるが、親鸞の思想の中には善と悪という二つの概念があり、その上で人は何が善で何が悪かなどわからないから、とにかく念仏しなさいと説く。

分野に限らず、意味というのはどういうプロセスで生まれてくるのかがだんだん見えてきた気がする。つまり、まずは二つの対立する軸を探す事から始めるのだ。技術的な課題だったり、社会の問題とかなんでもよいのだけれど、その問題を解決する方法や考え方を考える。まあ、ここまでは誰でもやることだ。そこにある程度はっきりしたポジショニングが出来たら、今度はそのコンセプトをま反対に振るのである。そしてその対立軸の中でアイデアを評価することが大事だ。そこに生まれるコントラストが明確になればなるほど、そこに明快な意味が生まれてくるのだ。そして、その意味がはっきりしてきたとき、最初にあった二つの対立は消えていくのだと思う。より高次の概念の前では、二つの対立軸は絶対的な意味を失うのである。

なぜ親鸞が念仏を唱えればよいといったのか、まだ確かにはわからないのだけど、ここで議論した「対立する概念の生成と解消のプロセス」が念仏という行為の中に凝縮されているのではないかと思っている。それは、素粒子の生成と消滅のプロセスにも似ているのかもしれない。


生物多様性と写真の関係

2016-01-13 17:52:19 | 哲学

だいぶ前になるが、写真を撮ると自分が見えるという話をコラムに書いたことがある。それは、最近流行りの自撮棒にスマホをつけて自分の写真を撮るという話ではない。いろんな写真を撮ると、そこに写っているものはおのずと自らの心を反映しているというような話だった。もうフィルムカメラなど使う人はいないだろうけど(自虐的!)、撮影したフィルムを並べて印画紙に焼き付ける「べた焼き」には、隠そうと思っても隠し切れない自分が見え隠れする。モノばかり撮る人もいれば、人ばかり撮る人もいる。もしかすると自撮棒で自分の写真しかとらない人もいるかもしれない。それは、写真を撮る人の心の中と無関係ではないだろう。そんなことを考えるようになってから写真の撮り方が変わった気がする。少なくともカメラというのは、被写体を客観的にフィルムや撮像素子に固定するだけのものではなくなったのである。カメラを通してみる世界は、カメラという道具によって自らの一部になったと言ったら言い過ぎだろうか。

 観察している自分とそれ以外の存在を分けて考える方法論が、科学の最も基礎となっている考え方だ。私が望遠鏡で月を眺める時、望遠鏡で眺めても眺めなくても、月にはクレーターはあるのである。当たり前のことと思うかもしれない。でも、上のカメラの例では、写真を撮っている人と、そこに写っているモノとはもはや無関係ではない。カメラを通してみる世界が自らの一部になったような気さえしたのである。少なくとも私にはそう思えた。自分とその周りにきちっとした境界があるという「近似」によって、物事はとてもわかりやすくなったし、科学技術もすごく発展した。でも、実はそれは近似であって、本当は自分という存在も明確な境目がある訳ではないのかもしれないと思うのだ。

科学と言われると良くわからなくても、会社での仕事で考えるとわかりやすいかもしれない。どんなプロジェクトでも、自分を客観的な存在として、目の前の問題から切り離しているうちは、問題の本質は見えてこない。チームの中で問題を共有して、それを自らの痛みとして感じることができて初めて光明は見えてくるに違いない。そんな時、自分という存在の境界は少しあやふやになっているとは言えないだろうか。

 なぜ生物多様性が大切かを考える時に、単純に経済的なメリットとかそういうことではなかなか理解することができないという。それは、科学的なアプローチかもしれないが、前提となっている構成要素、それは世界中の無数の生物であり、この問題を考えてる人であるのだけれど、それらが独立した小さい粒々であるという近似がうまくいかないのである。系の構成要素は、互いに関係しあって複雑に絡み合っている。だから、途上国と先進国がそれぞれ自分の主張を繰り返しているだけでは、問題の解決に至らないのは自明だろう。

じゃあ、どうすればいいのってことになるだろうが、とりあえずカメラを持って写真でもとってみませんか?少なくとも私はそこからいろんなことが見えてきたんだし。

参考文献 本川達雄:『生物多様性 「私」から考える進化・遺伝・生態系』中公新書、2015 


オクシモロン

2014-01-19 21:06:54 | 哲学
この言葉を聞いたことがあるだろうか。日本語では撞着語法(どうちゃくごほう)というが私はそんな言葉を聞いたこともなかった。もともと英語の oxymoronとは、ギリシア語のoxys(鋭い)とmoros(愚かな)を合成したことばで、両立しない言葉をわざと連結することを言うらしい。〈熱い雪〉〈燃える氷〉〈賢い道化〉〈残酷なやさしさ〉などがそれに当たる。

普通に考えると熱い雪があるわけはないし、氷が燃えるはずもない。(メタンハイドレートは燃える氷かもしれないけど、ここではその話は置いておこう。)では、このような語法は、いつも間違いかというと、そういうわけではない。むしろ複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もあるのだという。確かに、一言では表せないような微妙な状況を表す時に、あえてこのような表現をすることはあるような気がしないでもない。

さて、厳しい時代に生き残るために、企業は自らの持つ強みを更に強化して行くことが求められてきた。選択と集中は当然の戦略である。思いつきで他業種に飛び込んでみても成功する可能性などある訳もない。自らの強みをしっかり認識してその延長線上に新しい活路を求めることは当然の事だ。メーカーはさらにメーカーらしく、ガス会社は更にガス会社らしく、選択と集中というのはそういうことだろう。

しかし、今時代は大きく転回しつつある。自らの強みだと思っていた事業が、根こそぎその優位性を失うことは、決して珍しいことではない。液晶メーカーとして名を馳せた電機メーカーが、海外の安い製品の攻勢に対抗するために、原資を得意分野に集中したことが、却ってそれ以降の事業展開の足かせとなってしまった。選択と集中という戦略を是とすれば、決しておかしなことをしていたわけではないと思うが、結果は大変なことになってしまったのである。

これからの時代を考える中で、オクシモロンという修辞法がヒントを与えてはくれないだろうか。エンジニアリングらしくないエンジニアリング会社とかメーカーらしくないメーカーとか、そういう展開がこれからのキ―戦略にはならないかと思うのだ。

オクシモロンというのは、全く関係のない言葉をくっつけた訳ではない。ひとつの言葉を十分に吟味した上で、あえてその反対側に意味を振ってやる、とそこに深みが生まれてくると言うテクニックだ。会社の戦略においても同じことは言えないだろうか。自らの強みを十分に把握し、その上で敢えてその反対に戦略を振ってみるのである。それは必然的に事業の周辺領域ということになるかもしれないが、全く関係のない分野ということではないだろう。自らの強みとその対岸にあるコンセプトを結び付けることによる鮮明なコントラストが大切と言えるかもしれない。


参考:世界大百科事典 第2版

前景と背景について

2013-02-27 21:51:46 | 哲学
最近ちょっとスケッチに凝っていて、休みのたびに自転車で出かけては人や物をスケッチ している。多摩川の河原から少年野球の子供の絵を描いてみたり、お寺の境内を眺めては 鉛筆で素描してみたりと対象はいろいろだ。巷には、そうしたスケッチを始めたばかりの 人のためのノウハウ本があふれていて、私も何冊か買って試してみた。自分の気持ちに しっくり来る本もあれば、なんかいまひとつピンとこないものもある。

さてその中で、ちょっと面白い本に出会った。「脳の右側で描け」(Betty Edwards著)と いう本だ。2400円もするちょっと高めの本だったので、買うときに少し躊躇したのだ が、なかなか面白い本だ。この本によると、絵をかけない人というのは、脳の左側が常識 にとらわれて絵を描いてしまうので、目の前のありのままの姿をかけないことが一番の問 題だと指摘する。そして、その左脳の呪縛から解き放たれるために、左脳が嫌がるような 「面倒くさいこと」や「意味の無いこと」を意識的にやるのが効果的なのだという。例えば、 写真をさかさまにして模写をするとしよう。普通の上下が正しい写真には、車やビルなど の「意味のあるもの」が描かれているから、それらを左脳は容易に理解して、

「それは車ね!」 「こっちはビルですね!」

という具合に、どんどんシンボル化したイメージをステレオタイプ的に描いていってしま うのだという。ところが、写真がひっくり返った瞬間に、左脳にとっては、そこに写って いるものは「面倒くさい」「意味の無い」線の集まりとしてしか認識されないゴミとなってし まう。結果、左脳は、

「こんな意味の無い物を描くなんてナンセスだ!」

ということでストライキに入ってしまうらしい。こうなると仕方が無いので我らが右脳が 登場してスケッチの仕事を続けることができるようになる。右脳は直感的で非言語的なの で、そこにある構造がどんな意味を持っているかなど、知ったことではない。とにかく目 に前にある形を写し取っていくだけである。それこそが、著者が目指す絵を描くというプ ロセスなのだ。

左脳にストライキをやってもらうもう一つの方法として紹介されているのが、背景に注目 するというやり方だ。例えばイスを斜め上から見るとき、実際の4本の足の見え方は、結 構複雑な構図になっているはずである。しかし、我々の左脳は、「イスというのは同じ長 さの細い4本の足が、正方形の位置に並んでいる。」という先入観を捨て去ることができ ず、出来上がったスケッチは実際の見え方とは異なったものになってしまいがちだ。こう いう時に使える方法が背景に注目することだという。つまり、前景(注意の対象)には、 モノとして意味がついているが、背景は前景をくりぬいた後のゴミであるので、それ自身 には意味がない。意味が無い物を描くこと左脳が拒否するという先ほどの習性を利用し て、そこにあるがままを右脳が描いてくれるという作戦だ。これも結構うまく行く。

長々とスケッチのことを書いてきたが、こういう方法論ってもしかするとスケッチだけの 話ではないような気がし始めた。例えば、ある市場のマーケット調査をしようとしたとし よう。注目している製品や消費行動などにマーケッターは注目する。当たり前である。で も、そこには調査をする人の左脳的なイメージが強く焼きついてしまっている。ずっとそ の商品を売ろうと思って、いろいろ考えてきたのだから当然だろう。でも、それはもしか すると左脳が描いたスケッチと同じようなものなのかもしれないではないだろうか。本当 の市場の動向ではなく、こうあるべきという左脳の作り出したイメージを書き出すだけに なりはしないだろうか。そんな時に背景に注目してみるのも一手かもしれない。自分たち が見ていない市場を注視してみるのである。自分たちに関係ない市場に注目することな ど、無駄以外の何物でもないはずである。その無駄であるという認識こそが、正しいマー ケティングのためには重要だとしたらどうだろう。プラントを売ろうと思って、食品市場 を調査する、あるいは医薬品市場を調査する。こんなことをやったら頭がどうかしたのか といわれそうだけど、右脳式スケッチと同じ理屈なら、それが正しいマーケティングへの 近道になっているはずだ。ちょっと仕事と関係ないことを調べてみたくなってきたなあ。

ぐずぐずすること

2012-05-26 23:21:55 | 哲学
最近よく「ぐずぐず」しようと思うことがある。えっ!?と思われるかもしれない。しかたなく「ぐずぐず」する事はあっても、自分から「ぐずぐず」しようと思うことなど、あまり考えられないと思うかもしれない。

そんなことを考えていたら、まさにビンゴの名前の本を見つけた。大阪大学の総長も務められた著者の鷲田先生によれば、「ぐずぐず」というのは次のようなことを指すらしい。

ぐずぐず」とは、決断がつかず決着を引き延ばしているうちに、やがて「自然」に引っぱられ、流されていく、そんな予感に包まれたひとのためらいや逡巡を表わす。身を引き裂かれる思いにさらされながら、情けないことにいつまでも決心がつかない。宙ぶらりんのままだから、当然力が入らない。力が入らないまま、そのだれた姿をそのまま晒す。

普通は、もうちょっとスマートにぱっぱっぱと決断なり何なりをした方がいいだろうに、「ぐずぐず」するというのは、何ともみっともない。でも、「ぐずぐず」に関連して、先生はこうも言っているのである。

すかっと噛み切れる論理より、いつまでも噛みきれない論理のほうが、重い。滑りのよい言葉には、かならず、どこか問題を逸らせている、あるいはすり替えているところがある。ぐずぐずしながらも、逡巡の果てにやがてある決断にたどりつく、いやたどり着くことを嫌でも強いられる。その時間をそぐことだけはしてはならないとおもう。その時間こそ人生そのものなのだろうから。

そう、私もまさにそんな風に考えていた。仕事をする時には、「上手く行く仕事」と「上手く行かない仕事」があり、「正しい仕事」と「正しくない仕事」があると考える人は多い。でも話はそんなに簡単ではないのである。どっちの意見もそれなりに正しく、それなりに問題を抱えていることが殆どではないか。

「今日はとりあえず、この辺までにして一杯行きますか?」

なんて、適当なことを言って「ずるずる」と話を先延ばしにしていませんか?でも、それっていけないことなのだろうかと思うのだ。多分そんなことはない。一生懸命「ぐずぐず」していると、その逡巡の果てにある決断にたどりつく、そう、そんなもんだよきっと。みんなで「ぐずぐず」しませんか。

参考文献:鷲田清一、“「ぐずぐず」の理由、”角川選書

光速を超える粒子の発見について

2011-10-29 00:38:49 | 哲学
先日、光のスピードよりも早い粒子が見つかったという報道があった。それ以降、時々「あれって本当なんですかね。」と聞きに来る人がいる。もちろん、最先端の物理学の研究のことなど分かるはずもないので、ことの真偽については良く分からないと答えるしかない。

でも、それではちょっと悔しいので、このことについて自分なりに考えてみることにした。まず、もし光の速さを超える粒子が見つかったら、アインシュタインの相対性理論は崩れ去ってしまうのだろうか。多分、そんなことは全然ないんだと思う。そもそも相対性理論というのは、

「どんな座標系から見ても、光の速さは変わらない。」

というところからスタートしている。良く考えるとこれっておかしな話である。自分がどんなスピードで動いていても、他の物体のスピードが変わらないなんてありえない。自分が動いていれば、見た目のその物の速度だってそれなりに変わるのが普通の現象だろう。動いている車から外を見れば、止まっている電信柱も動いて見える。当たり前の話だ。でも、光というのは特別の存在で、どんなに速く動いている宇宙船から見ても光のスピードは相変わらず秒速30万キロになるという。で、このへんちくりんな主張を認めるといろんなことが起こってくる。例えば光速近くにスピード上がるとモノの長さが縮んだり、時間のスピードがゆっくりになって行くといったお馴染みの相対性理論の世界が現れてくる。

まあ、この辺の詳しい話はどうでもいいのだが、大切なことは「どんな座標系から見ても、光の速さは変わらない。」という主張は、決して事実ではなくアインシュタインの仮説であるということだ。この仮説を認めると、実際に起こっていることの多くを説明できると言っているに過ぎないのである。相対論というのは、要するに提出された仮説の上に構築した論理の積み重ねに過ぎないのである。つまり、彼は決して光のスピードは変わらないとか、光の速度を超えるものは絶対にないと言っているわけではないのである。こうした仮説は、いくら現実に起こっている現象に良くマッチするからと言って「仮説」から「事実」に格上げされることはない。たった一つの反証があるだけで、それは否定される運命にあるのである。科学というのは、実は皆そんなもんである。正直言って結構しょぼい。

他にも例はいくらでも見つけられる。例えばニュートンの万有引力の法則。有名なあの式だって別に証明があるわけではない。つまりこれもニュートンが提出した仮説にすぎないのだ。確かに相対論的な作用を考えに入れると、ニュートンの力学では十分に説明できない現象はたくさんある。でも、だからと言ってニュートン力学が崩壊してしまったかというと、決してそんなことはない。日常の物理現象であれば、もちろん十分に役立っている。

化学反応の世界で良く出てくるアレニウスの式というのがある。普通あれは、事実に基づく式だと思っているかもしれないが、実はアレニウスの式には証明がない。アレニウスが、こんな感じなんじゃないの?と言って思いついただけのものなのだ。量子力学のシュレジンガー方程式だってそうだ。物事の基本になっている根本の原理というのは、実は証明なしに使っている言わば仮説に過ぎないのである。多分、これらの基本原理を提唱した人は、それらが仮説であって、事実ではないことを十分に理解していたのだと思う。しかし、あまりにその原理が上手く世の中の現象を説明できると、そのうちにその原理は事実であると錯覚されてしまうのである。だから、光より速い粒子が見つかったと言っては皆大騒ぎをしているのではないだろうか。事実が否定されるというのは、大変なことであるが、仮説が否定されるというのは、もともと仮説とはそういうモノなんだからなんということはないのである。

新しいことを見つけるためには、自分たちの立っている地平が有限であることを認識しなければならないと思う。相対性理論を絶対正しいと思うことによって、その先にあるものは見えなくなってしまう。どんなにすごい理論であっても、その広がりは決して無限になることはない。科学の先にはきっとまだわれわれの理解を超える世界が広がっているに違いない。そう思えば、光のスピードをこえる粒子が見つかっても全然へっちゃらである。さらに言えば、いわゆるスピリチュアルな世界というのは、普通はあやしいということになっているが、それは単に我々の理解できる科学で説明がつかないというだけのことだ。だからといって、それが存在しないという証明にはならないと思う。