Vitelloというクレータは、その火口の中にいくつもの小川が流れている変わったクレータだそう。中央の山を取り巻くような川が見えるらしいが、今日は陰になっていて火口の中は見えず。寒くて、スケッチが終わるころには手がかじかんできた。冬本番。
先日BSでコスミックフロントを見たら、太陽の話題を扱っていた。スーパーフレアなるものすごいフレアが太陽で起こるかどうかが議論されているらしい。とりあえず、今のところはその心配はないようですな。朝のシーイングのせいか、黒点の周りの細いフィラメント状の構造がよく見える。
だいぶ前になるが、写真を撮ると自分が見えるという話をコラムに書いたことがある。それは、最近流行りの自撮棒にスマホをつけて自分の写真を撮るという話ではない。いろんな写真を撮ると、そこに写っているものはおのずと自らの心を反映しているというような話だった。もうフィルムカメラなど使う人はいないだろうけど(自虐的!)、撮影したフィルムを並べて印画紙に焼き付ける「べた焼き」には、隠そうと思っても隠し切れない自分が見え隠れする。モノばかり撮る人もいれば、人ばかり撮る人もいる。もしかすると自撮棒で自分の写真しかとらない人もいるかもしれない。それは、写真を撮る人の心の中と無関係ではないだろう。そんなことを考えるようになってから写真の撮り方が変わった気がする。少なくともカメラというのは、被写体を客観的にフィルムや撮像素子に固定するだけのものではなくなったのである。カメラを通してみる世界は、カメラという道具によって自らの一部になったと言ったら言い過ぎだろうか。
観察している自分とそれ以外の存在を分けて考える方法論が、科学の最も基礎となっている考え方だ。私が望遠鏡で月を眺める時、望遠鏡で眺めても眺めなくても、月にはクレーターはあるのである。当たり前のことと思うかもしれない。でも、上のカメラの例では、写真を撮っている人と、そこに写っているモノとはもはや無関係ではない。カメラを通してみる世界が自らの一部になったような気さえしたのである。少なくとも私にはそう思えた。自分とその周りにきちっとした境界があるという「近似」によって、物事はとてもわかりやすくなったし、科学技術もすごく発展した。でも、実はそれは近似であって、本当は自分という存在も明確な境目がある訳ではないのかもしれないと思うのだ。
科学と言われると良くわからなくても、会社での仕事で考えるとわかりやすいかもしれない。どんなプロジェクトでも、自分を客観的な存在として、目の前の問題から切り離しているうちは、問題の本質は見えてこない。チームの中で問題を共有して、それを自らの痛みとして感じることができて初めて光明は見えてくるに違いない。そんな時、自分という存在の境界は少しあやふやになっているとは言えないだろうか。
なぜ生物多様性が大切かを考える時に、単純に経済的なメリットとかそういうことではなかなか理解することができないという。それは、科学的なアプローチかもしれないが、前提となっている構成要素、それは世界中の無数の生物であり、この問題を考えてる人であるのだけれど、それらが独立した小さい粒々であるという近似がうまくいかないのである。系の構成要素は、互いに関係しあって複雑に絡み合っている。だから、途上国と先進国がそれぞれ自分の主張を繰り返しているだけでは、問題の解決に至らないのは自明だろう。
じゃあ、どうすればいいのってことになるだろうが、とりあえずカメラを持って写真でもとってみませんか?少なくとも私はそこからいろんなことが見えてきたんだし。
参考文献 本川達雄:『生物多様性 「私」から考える進化・遺伝・生態系』中公新書、2015
午後になって晴れてきたので今日もスケッチ。太陽表面はおとなしいけど、12日には磁気嵐が起こるかもしれないとのこと。 co-rotating interaction region (CIR) という高速と低速の太陽プラズマの隙間のような場所を地球が通るためらしい。