少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

今日の黒点

2005-01-30 21:58:17 | 写真
今朝は、一組の黒点がこじんまりと出ていた。

最初両眼装置で見たが、あまりシーイングも良くなく、ボケボケで断念。10mmの接眼レンズに付け替えて観察した。

スケッチが一通り終わってから、もう一回両眼で見てみた。そしたら驚いたことに細かいところまではっきり見えるではないか。

一旦低倍率で形を認識してからだと、両眼で倍率を上げてみても結構分かるのだ。頭の中に「こうふうに見えるはずだ」という仮説がすでに出来てから両目に映像を入力すると頭というのは、結構分かったと言うことになるらしい。

つくづく人間の情報処理というのは面白いものだと思う。

現像条件実験結果

2005-01-30 18:58:32 | 写真
このブログにコメントしてくださるまささんの助言に従って現像条件を変えてみた。本当はTRYX400で現像する条件なのだが、ちょうど印画紙を買ったときのおまけのイルフォード デルタ100というフィルムを撮り終わったので、これを8分30秒@22度、1分攪拌+5秒攪拌(30秒毎)という条件で現像した。

このフィルムはクラッセでプログラムオートモードで撮ったものだ。夜フラッシュを焚いたときもあれば外で昼間に撮った物もある。大体の焼付け条件は3秒から4.5秒(F11,フィルタ#2)くらいになった。以前のものと比べると大分焼付け時間が長くなり、写真のメリハリも良くなった感じだ。ただ、まだまささんの条件に比べると絞り1段くらい足りない。

いまだにプラスチック製の現像タンクを使っているので、外からの温度制御はほとんど出来ないが、現像中温度の変化を調べたところ8分経過後でも温度の低下は0.3℃程度で、まず問題はない。

フィルムが違うのが大きいかも知れない。金曜日にTRI-X 400を3本ほど買ってきたので、これで今度はためしてみよう。

だんだん、焼きあがった写真を見る目も違ってきた気がする。こういうプロセスが楽しい。道はまだまだ遠いけど。いずれにしても御助言いただいたまささんに感謝します。

抽象モード

2005-01-29 21:16:05 | その他
ここ何日か、どうも頭が抽象的なモードに入ってしまった感じがする。いつもなら、手が勝手に動いてキーボードをたたいて文字が出てくるのに、ちっとも言葉が出てこない。

頭はお休みしているかと言うと、そうでもなくていろんなことが出たり入ったりしている感じはある。

仕事のこと、写真のこと、天体のこと、いろんなことが少しずつ重なっては離れていく。なにか創造的なことが起こる前兆のような気がする。必ずしも悪い気分と言うことでもない。

本を読むスピードもなんだか余りあがらない。すぐ飽きちゃう。

イトーヨーカ堂で花を買ってきた。細かく考えずにパッと花を探したりするのはとても気持ちがいい。

意味を考える

2005-01-27 22:58:37 | 写真
すべての物事には意味がある。

実験のデータや世の中で起こる事件、一枚の写真、何気なく読んだ本、僕たちが触れるるすべてのものには意味がある。

その意味をどうすれば知ることが出来るのか。それは対象を素直に見ること。じっくりと観察すること。

でも、じっくり観察した結果、その意味はどこから来るのか。そう、意味はその実験データからくるのではない。僕の心の中からヒョッと顔を現す。突然に。

その意味を取り出すために、心に向けて分析データを送り込む。データを送り込むときには、あれこれ考えてはいけない。あくまでも素直に分析を繰り返す。考えずに分析をするという、ちょっと高度な技を使うのだ。

芸術家は絵や彫像やいろんな作品を作り出す。写真のような分かりやすいものもあれば抽象的でよく分からないものもある。以前は、ああいう抽象的な芸術と言うのがさっぱり分からなかった。

でも、今その考えは大きく変わった。芸術家の作品というのはモチーフのコピーではない。モチーフを分析したデータを作家自身の心の中に放り込んだ結果、その心から飛び出てきたものが作品となったに違いない。だから、作品がモチーフと同じである必要は全くない。

そんな風に考えるようになってから、抽象的な芸術も楽しめるようになった。全体をパッとみて、それを自分の心の中に投影する。何かがそこで共鳴するか。するときもあればしないときもある。わー、いいなあと思える作品にであったとき、なんとも言えず満たされた気分になる。

写真も同じ。写真はただの記録のための道具ではない。フォトグラファーが被写体を分析して心に情報を放り込んだ結果、心の中に浮かんだイメージを印画紙に焼き付けるのだ。道はまだ遠いけど。

唐招提寺展

2005-01-25 23:18:53 | 哲学
唐招提寺展は、平日の午前中だというのに結構な人出だった。

国宝級の展示物のオンパレードということで多くの人の関心を集めるのも無理はない。

ただ、いくら国宝でも壊れかかった瓦のキレッパシには、申し訳ないが余り興味がわかなかった。

しかし、何体もの仏像は1200年もの時を越えてすごい迫力で見るものに迫ってきた。鑑真和上の閉じられた目は左右にほんのわずかだが形の違いがあり、まさに生きている人のようなリアリティがあった。もうそのころは失明していたのだから実際にそのまぶたが開くことはなかったのかもしれないが、今にもすっと眼を開けてしまいそうな雰囲気があった。薄い唇の上下は、ほんの少し離れており、見つめていると鑑真その人の言葉が聞こえてきそうな錯覚に落ちてしまいそうだ。

盧舎那仏を守るように配置された四天王立像立像たちも強烈なオーラを放っていた。印を結んでいるしなやかな仏像の手と仏像の顔を斜めに見る位置が一番良い。しなやかな指とその端正な顔とのマッチングが絶妙だ。ちょっと光を工夫して写真を撮ったら、すごく良い写真になりそうな気がした。土門拳のように。(無理かな?)

それにしても、あの仏像はなぜあのように怒っているのだろう?衣の下に鎧をつけているものもいる。やさしさだけでは人は生きていけないということなのだろうか?どんな気持ちで大陸からわたってきた人たちは、あの像を作ったのだろうか。

怒りや恐れ、そしてねたみや嫉妬、そうした気持ちは物事の成就には禁物だ。何事にも平静に対処することが出来れば万事は上手くいく。でもそれが出来ないのが人間の弱さ。その弱さの一面を仏像に刻み込んだのはなぜだろう。そうした弱さもまた受け入れるべきものなのか。

今にも話をしだしそうな仏像たちに心の中でそんな質問をぶつけてみた。もうちょっとで話してくれそうな気がしたが、残念ながらその声は聞けずじまいに終わった。

ハッセルも3色旗

2005-01-25 22:19:53 | 写真
実は、小物でカラフルな色が入っているものが結構好きであちこちに飾ってある。かくいうハッセルブラッドにもレンズの根元にサイパンで買ったブレスレットを巻きつけてある。これもなかなかおしゃれだと思うんだけど。

写真は気分である。カメラも着飾っていい気分で写真を撮りたい。ね、そうでしょう。

望遠鏡にブレスレット

2005-01-25 22:14:54 | 天体観測
今日は仕事をさぼって上野の国立美術館へ行った。唐招提寺展を見るためだ。そこでブレスレットを買った。1200円也で、ちょっといいネダンだと思ったが、しっかりした作りで結構気に入った。自分の腕にもしてみたが、やっぱり女性用なのか、ちょっと小さい。

実はこれ、望遠鏡のアクセサリーにどうかと思って買ってきた。ダイアゴナルという光の向きを90度変える部品に取り付けてみたのが写真。ブレスレットの大きさが変えられるようになっているので、その部品にあわせてピッチリとめてある。

望遠鏡自体の黒と緑の地味な色に、ちょうどピッタリのアクセントになった。唐招提寺1200年の歴史の重みがこのアメリカ製のハイエンド望遠鏡に実に良くマッチしてると思う。スケッチもさらに気合が入りそうだ。いい買い物だった。

レンズの焦点距離と被写体までの距離

2005-01-24 23:10:38 | 写真
今アンセルアダムスの「カメラ」を読んでいる。なんとなくは知っているカメラに関する常識が、これでもかと言うほど細かくネチネチと説明されている。忘れそうなのでメモ代わりにわかったことを少しずつまとめておこうと思う。


(1)レンズの焦点距離が変わっても写っているものの相対的な大きさは変わらない。視野の大きさが変わるだけである。


(2)近くのものに焦点をあわせると、近くのものと遠くのものの距離の違いによって大きさが異なる。遠くに焦点をあわせるとそういう効果はなくなるのでぺタッとした印象になる。


レンズの焦点距離と被写体までの距離は良く混同してしまうので注意が必要だ。

こういう理屈を分かった上でファインダーの中に写る映像を分析し、必要ならフレーミングやフォーカスを変える。彼の方法論は、いつも分析からスタートしてそれが直感的なレベルになるまで繰り返すというプロセスを強調する。最初から直感ということは決してない。左→右という一貫した方法論である。見方を変えると右脳的なプロセスと左脳的なプロセスは本来は同じものという考え方があるといっても良いかもしれない。