少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

ギリギリで考える

2016-12-08 20:09:14 | その他

 

何かのプロジェクトに取り組むことを考えてみる。ゴールに向かってのシナリオを策定し、必要な人員や費用を見積もる。後から困らないように、いろいろな手を打ってシナリオ通りにプロジェクトが進むように配慮する。現在の立ち位置からゴールに向かって一本の道筋があるイメージだ。きちんとゴールを見据えて進むことはとても重要であり、着陸地点がぶれたプロジェクトがうまくいくとは到底思えない。

しかし、今までの経験に照らしてみると、ほぼ百パーセント計画通りにプロジェクトが進むことはないのも事実だろう。いわゆる想定外のことが起こって、余計に時間がかかったり、予算が超過したりする。「まあ、仕事なんてそんなものですよ」ということなのだが、なぜそういうことになるかというと、良くわからない。

ずっと昔のコラムで「仕事は締切りギリギリでやるのが良い」みたいな話を書いた記憶がある。もう何年も前のことだ。その時の細かい話はもう忘れたのだが、要するに余裕を持って仕事をすると、そこに「甘え」のような気持ちが入り込んでしまい、結局仕事の仕上がりも甘えた内容になるという話だったような気がする。それから何年もの時が流れても、日々の仕事は皆、締切りギリギリばかりで、ある意味コラムに書いた通りの生活を送っているのだが、果たして仕事の成果に甘さはないかと問われると、ちょっと自信がない。

何か、このへんにヒントがあるような気がするのである。つまり、余裕を持った予定通りの仕事には、ある種の「甘さ」が内在しているという視点である。時間や予算がぎりぎりになったり、作った装置が予定通りに動かなかったりしたとき、人は一生懸命に考える。というか、そういう状況が生まれない限り、我々は考えることができないといってもいいかもしれない。生物の進化を考えたって、猛烈にエネルギーを消費する脳みそをフル回転することは、人間にとってリスクの高いことに違いがない。やらなくても済むことは、やらない方がいいに決まっている。

仕事にトラブルはつきものである。できればそういうことなしにスーっと話を進めたいと思うが、でも、たぶん、それではゴールにたどり着くことはできないんだろうとも思う。言い方を変えると、計画やシナリオという「虚構」が、締め切りやトラブルによって「リアル」なものに変換されていくプロセスが、そこにはあるのだ。金が足りない、人が足りない等々、いろんな足りないにまみれてもがきながら答えを探すプロセスが、どうしても必要なのである。そんなことに気が付くと、プロジェクトをうまく進めるコツみたいなものも見えてきた気もする。要は、問題があれば仕方がないので脳みそは動き出すのだ。

そう言えば最近はやりのAI(人工知能)技術。人を超えるのも時間の問題というような話も聞く。でも、多分AIは締切りが近いからやばいとか、うまくいかないから困ったとか、そういう感覚はないのだろうと思う。とすると、人間が行うようなプロジェクトの遂行プロセスは、まだまだ困難なんじゃないかと思うのだが、どうだろうか。

車窓の景色のパラパラ写真

2016-11-25 23:57:30 | その他

最近新しいデジカメを購入した。いつもはフィルムで写真を撮る私は、普通のデジカメでは面白くないので、ちょっと変わったカメラを購入することにした。カシオから販売されているそのカメラは、撮影をするレンズ部分と、イメージを見るディスプレー部分が分離する構造になっている。二つのユニットは無線通信ができるようになっているので、少し離れたところにあるレンズユニットに写っている映像を、手元で確認しながら撮影することができる。山登りなどのフィールドでの写真やムービーの撮影で活躍しそうなデジカメである。

 そのカメラのもう一つの機能が、タイムラプス撮影である。要するに決められらた時間間隔、例えば5秒とか1分とかの時間ごとにパチリと写真を撮っていく機能だ。定点観測的な撮影や移動しているときの様子を後から時間を縮めてみることができる。これも楽しそうである。

 今日は、出張で新幹線に乗って郡山まで行った。ふと思いついて、新幹線の窓からの景色をコマ撮り撮影してみることにした。時間にして2時間にもいかないくらいの時間だから5秒間隔で写真を撮り続けてもメモリは十分足りるはず。小さなレンズユニットを窓際においても殆ど気が付く人はいない。時々撮影中を示す赤いLEDが点灯するだけで、郡山に到着するちょっと前まで撮影を行うことができた。

 写った数百枚の写真を、パラパラ漫画のような映像に変換してみると、停車駅で止まる映像を挟んで東京から郡山までの景色がすごい勢いで流れていく。当たり前といえば当たり前の映像である。でも、もうちょっと詳しく見てみると面白いことに気が付いた。つまり、新幹線のすぐ外の電線や近くの家のような景色は、それぞれのコマ間に関連がなく意味のある映像としては認知されないのに対して、例えば空に浮かぶ雲は、コマをまたがって撮影されるので、パラパラ漫画で見ても徐々に動いていく映像として見える。更に遠くの雪をかぶった山々は、パラパラ漫画の中でもあまり動いていないように同じ場所に映っていた。まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

 パラパラ漫画のように写真をたくさん撮影すると、目の前で起こっていることが単純に時間を圧縮して見えると普通は思うのだが、実際はそうではない。自分と対象との相対的な速度と、サンプリングをする間隔にによって、ある特定のスピードで動く対象しか知覚されないのだ。新幹線の窓から意味のある変化として見えたのは、近くの雲のような(多分数キロメートルから10キロメートルくらいの距離にある)対象であり、それより近いものはランダムな映像ににしかならず、逆に数十キロメートル以上離れた山々は動かない対象としてしか見えなかった。

 まあ、新幹線の窓から撮った景色のパラパラ漫画くらいで、そんなにごちゃごちゃ言わなくてもいいのだが、物事というものは、どのように見るかということによって案外いろんな見え方をするということに注意をした方が良いと思うのだ。例えば最近はやりのビックデータ、とにかくたくさんデータを集めれば、今まで見えなかったいろんなことが見えてくるという。それはそれで間違いはないのだけれど、データのとり方や、処理の仕方によって、見えてくる意味というのは必ずしも一つではないと思う。新幹線の窓から見える景色も、もっと早くサンプリングをすれば、もっと近いところの景色がパラパラ漫画で見える様になるし、逆にゆっくりサンプリングをすると、遠くの山が徐々に動いていくように見えるようになるに違いない。もちろん、私たちは本当は景色の中を新幹線が疾走していることを知っているので、どのパラパラ漫画を見ても誤解をすることはないだろう。でも、未知の対象相手のデータを分析している時に、こういうことが起きたらどうだろうか。話はそれほど簡単ではないかもしれない。


数学する身体

2016-11-04 17:35:19 | その他

最近のこのコラムは、読書感想文みたいな文章が多い。ということで今回も取り上げる本の名前は「数学する身体」である。小林秀雄賞という賞を受賞したというありがたい本である。新聞の書評欄で取り上げられていて、題名が面白いと思って読んでみた。

この本で中心に書かれているのが岡潔という大数学者の人生である。一応自分は理系なのだが、高等数学など理解できるはずもなく、岡潔の名前も知らなかった。なんでも多変数解析関数論の分野で世界的な成果を挙げた研究者なのだという。多くの読者同様、私も何の事だか全然わからない。ただ、その本の中に書かれている岡の思想というのは、なかなか面白いと思ったので紹介しようと思う。

 数学に限らず研究者が何かすごい業績を上げるためには、朝から晩まで専門分野のことを「自分」のアタマで必死に考えているのではないかと思われるかもしれない。でも、岡先生は、

 数学を通して何かを本当にわかろうとするときには、「自分の」という意識が障害になる。むしろ「自分の」という限定を消すことこそが本当に何かを「わかる」ための条件でもある。

 という。自分を消すってどういうこと?と思うかもしれない。その問いについて、例えば「悲しい」ということをわかる方法を次のように言っている。

 他の悲しみがわかるということは、他の悲しみの情に自分も染まることである。悲しくない自分が誰かの気持ちを推し量り「理解」するものではない。本当に「他の」悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。

 こう言われると、自分を消すというのもなんとなく理解できるような気がしなくもない。ここまで読んで、もしかすると物事を理解するというのは、数学に限らず同様な考え方ができるのではないかと思えてきた。例えば、ちょっと前に「ユーザーズエンジニアリング」について考えたことがあった。我々ユーザー系エンジニアリング会社の強みとして真っ先に挙げられる要素なのだけど、それって具体的に何かと考えると、よくわからなくなってしまう。それは、「ユーザーズエンジニアリング」を客観的に外から理解しようとしているから、いつまでたってもわからないのではないだろうか。そうではなく、現場に行き、お客様のニーズを具現化する行為そのものを自らの体験として一体になることによって、はじめてわかるものなのかもしれない。そこには現場を外から見る「私」は存在しないのだ。以前にも指摘したことだが、どんなプロジェクトであっても、外からそれを客観的に見るのではなく、その中に身を置いて、問題や矛盾を自らの問題として認識することが決定的に重要であるといえば反対する人はいないだろう。(コラムvol.180:生物多様性と写真の関係参照)

 岡先生は、

 数学的な思考の大部分は非記号的な身体のレベルで行われているのではないか。

 とも言っている。簡単に言えば「アタマじゃなくてカラダで覚えるんだ!」という話といってもいいのかもしれない。あんまりアタマで考えすぎてはいけないと岡先生は説く。

 そういえば、うちの会社には朝の始業前と午後3時ごろに2回体操をする時間がある。これは朝体操をする会社と3時に体操をする2つの会社が合併したことによる。合併前の名残がこんなところに顔を出している訳だ。もちろん、体操は強制ではなく、体操をする人もいればしない人もいるんだけど、もしかすると一日2回ラジオ体操すれば、もう少し自分の会社がわかるようになる気がするのだが、どうだろうか。だから、みんなで体操しましょうよ。

 

参考文献:森田真生、「数学する身体」、2015年、新潮社


外来種は本当に悪者か?

2016-08-26 23:03:54 | その他

環境保護の名の下、自然を人間の開発の手から遠ざけ、そこに住む多くの生物を守る。生物多様性という言葉を聞くようになって久しい。まあ、何でもかんでもコンクリートの建物を建設して、それまであった森の木々を伐採、そこに住んでいたたくさんの虫や鳥を消滅させてしまうことに対して、私も含めてできればそういう生物の暮らしが守られればいいなあと皆思っている。

このコラムのタイトルと同じ名前の本によれば、有名なガラパゴス諸島だけでなく、世界の様々な場所で、所謂在来種の動植物を外来種から守るための様々な対策がとられ、莫大な費用が投下されている。しかしながら、思ったほどの効果を上げていないことが多いのだという。

著者は本の中でたくさんの例を挙げ、実際には在来種と外来種の区別がきわめて曖昧であること、人間の関与の全くない”手つかず自然”というのは地球上にはほとんど存在しないのだと主張する。例えアマゾン奥地のジャングルであっても、かつて人が住んでいた痕跡を見つけるのは、それほど難しくないのだという。自然と言うのは、人間がちょっと関与したくらいでへこたれることはなく、すぐに回復する力を持っているのだという。

じゃあ、自然を壊して何をやってもいいかと言っているわけではないのだけれど、これまでのように、孤立した生態系があるからと言って、全ての外来動植物がそこに入ることを遮断したり、人のアクセスを全く出来ないようにして、いわば幻想でしかない”手つかずの自然”や”純血種”を守る努力をし続けるのはもうやめにしたらいいというのが、著者の主張である。もっと生態系というのは、ダイナミックで力強いものだというのである。著者は、

「ダーウィンから150年もたったいま、特定の種や生物共同体を良い悪いで区別することに、いったい何の意味があるか?」

と断じている。さらに、

「外来種がたえず入ってきて基礎体力がついた生態系は、新しい種の到来にに対しても踏ん張りがきくだけでなく、侵入種を巧みに活用できるはずだ。これが『生物的抵抗力』である」

 とも言っているのだ。外来種が入ってくるのもあながち悪いことばかりではないらしい。

ビジネスの世界でも、エネルギーの自由化をはじめ、これまでの既存の領域に新しい勢力が参入してくる状況が、あちこちで起こっている。会社の合併も身近な出来事だろう。そういうことが起きたことに対しての考え方はいろいろあるかもしれない。でも、どうやら起こってしまったことは素直に認めて、その先を考えた方が良さそうな気がしてきた。異質な存在との接触を刺激ととらえ、その中で新たなコミュニティでの自分の新たな立ち位置(ニッチ)を探す。それは組織対組織で考えることではなく、それぞれの個人の問題である。

参考文献:フレッド・ピアス著、 「外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD」、2016、草思社


途中も大切

2016-06-21 15:01:35 | その他

厳しいビジネスの世界を生き残っていくために、企業はいろいろなチャレンジをしている。成功する企業もあれば、失敗に終わる企業もある。いや、ほとんどのトライアルは失敗するのだろうけど、どこかに成功を勝ち取る企業もあるといった方がいいだろう。そんなプロセスが生物の世界の進化の過程に重ねて見られることがある。弱肉強食の動物の世界は、まさに厳しいビジネスの世界のパラレルだといってもおかしくないだろう。

 それでは、その生存競争の中でどうやったら生き残れるか。時に新たなマーケットを求め、新たなビジネスモデルを求め、さらには新技術に活路を見出して、企業は生き残りを図っていく。企業のリーダーは、進む道を分かりやすくかつしっかりと見極めて事業を展開していかなければならない。そのゴールへの道のりは、決してやさしいものではなく、とにかく我慢に我慢を重ねて、強い決意を持って立ち向かっていかねばならない・・・ということになっている。

 他方、生物の世界で進化のプロセスについて初めて指摘したのは、言うまでもなくダーウィンである。ダーウィンはその著書「種の起源」の中で、多くの例を挙げて生物の進化について議論をした。

 鳥が空を自由に飛べるのはなぜか?魚が水の中を泳げるのはなぜか?

 もちろん、その答えが突然変異と適者生存というメカニズムであることは、今や常識となっている。しかし、この進化メカニズムで注意しなければいけないことがあることに気が付いた。(というか本に書いてあった。)例えば最終的にキリンの首が長くなることによって高い木から餌をとれるようになるために、最初は首の短い馬みたいな動物だったキリンの祖先が、突然変異でちょっとだけ首が長くなったとする。そのわずかな変化が、当のキリンの祖先にとって、以前より生存に有利に働いたはずであることに注意しよう。なぜなら、少しだけ首が長くなったことが、まったく生存で有利に働かないか、逆に生存に不利な要素だったとしたら、そういう動物は生き残ることができないことになるはずである。もしそうだとすると、首をすごく長くするという形質は、一足飛びには起こりようがないので、結局キリンという動物は存在しないことになってしまう。

 ちょっとごちゃごちゃしてしまったが、要するに進化のそれぞれのステップで、突然変異によって生じた形質のわずかな変化は、その時点においても生存に有利でなくてはならないということが言いたいのである。首のすごく長いキリンという最終的な形質だけが生存に有利な訳ではない。もし、途中一回でも生存に不利な進化を遂げたならば、自然は容赦なく襲い掛かって、その種は絶滅への道を突き進むことになるのである。

 ビジネスにおいても同じことが言えないだろうか。ビジネスを最終的に成功させ、繁栄を享受するために、ビジョンを描いて邁進する。しかし、その途中のプロセスを無視してはいけない。最終的なビジネスモデルに到達するまでの、それぞれのステップにおいても生物同様淘汰圧が社会からかかっていることを忘れてはいけないと思う。進化のためのわずかな変化が、企業の存在価値を少しでも高める方向に働かないと、結局最終形には到達できない。とすると、ビジネス構築の途中であっても安易な判断は命取りになるかもしれない。途中も最終形同様に大切なのである。

 チャールズ・ダーウィン著、夏目大訳、「超訳 種の起源」、2012年、技術評論社


ノウハウの相対性について

2016-06-13 11:54:58 | その他

エンジニアリングを生業にしている会社において、良く言われることにノウハウやユーザーエンジニアリングの伝承というのがある。これまで長い時間をかけて培ってきた現場のノウハウや工場の建設の際に積み上げてきたエンジニアリング力というのは、我々が持っているリソースの中でも最も価値のあると良く言われる。

 でも、具体的にノウハウやユーザーエンジニアリングって何だろうと考えると途端に良くわからなくなってしまう。時々、そういうノウハウを伝承するためのデータベースを作ったりするのだけれど、これまでの経験を文字にしたとたんに、手の隙間から砂が落ちるように、ノウハウとは程遠い無味乾燥な資料の山になってしまうこともしばしばである。

 話は変わるが、最近工業デザインにおける製品の色についての講演を聞く機会があった。色なんて、それこそ機械的にRGBの指標か何かで決めれば一意的に決まると思ったのだが、実際はとんでもないのだという。製品の素材の質感やサイズ、その他いろいろなファクターによって、色の見え方というのは微妙に変わってしまうため、厳密にコードによって色を伝えることはできないのだという。色というのは、まさにノウハウというか感覚の世界なのだ。ただ、そういう色の世界で唯一言えることは色の相対的な違いだという話に興味を持った。例えば「この色よりもう少し青みを強くした色」とか「もう少し暖かみがある色」みたいな表現を数値化することはできるのだという。

 もしかすると、エンジニアリングにおいても色の相対性と同じようなことが言えるのではないかと思った。つまり、普通は「どこそこにネジを締める」というような絶対的な情報が技術であると思われるのだが、むしろ普通の状態からの偏差に、より注目をすることがノウハウを理解するためには重要ではないかと思うのだ。通常の手順から何かの理由で異なった手順を踏んでしまったために発生した事故というのは、貴重なノウハウになるに違いない。そこには、通常の手順とそうでない手順の間に偏差と言える何かが存在する。手順の偏差、それは言い換えれば「経験」と呼んでもいいかもしれない。

 今や皆がスマホを持って、朝から晩までインターネットにアクセスする。どんな事柄でも、ちょっとググれば、関連する情報が0.5秒で何万件も得られる。でも、そういう知識って多分大した役には立たない。わかったような気にはなるんだけど、それはある事柄を別の文字に置き換えただけで理解とは程遠い。なぜ理解したことにならないかと言えば、そういう知識には相対的な関係が含まれていないからとは言えないだろうか。知識と知識の相対的な関係が見えてきて初めてその知識は意味を持ってくるんじゃないかと思う。


専門家について

2016-06-05 17:36:05 | その他

大きな地震が発生すれば地震の専門家がテレビで解説をし、経済が低迷すると経済学の専門家が今後の株価の見通しについて解説をする。そりゃあ、我々シロウトには何が起こっているのかさっぱりわからないので、その道のプロにご意見を伺うのはもっとなことなのだろう。これが病気のことになると尚更だ。ある特定の疾患に関する専門医が登場して、可能性のある病気について詳しく説明したりする。極めて多岐にわたる疾病について一人の医者が全てを診断できるはずもなく、その道を究めた専門医が様々なデータをもとに診断を下していくのだ。こういう傾向は会社においても同じことである。ありとあらゆる業務は細分化され高度化されてきている。そして、プロの世界にいい加減は許されないのだから、その道の専門家と言われる人が極めて狭い分野について専門的業務を遂行する。社内に専門家がいなければ外部に委託をする。世の中専門家だらけと言ってもいいかもしれない。

すでにどこかで書いた気もするのだが、そういう専門家の発言に「きちんと対応することが肝心ですね。」とか「しっかりと全てを精査すべきです。」といったフレーズが多いことが気になって仕方がなかった。もちろん、全てをきちんと精査してきちんと対応することができれば良いに決まっているのだが、そんなことは専門家でなくてもわかったことではないかと思えたのだ。

 そういう専門性に関して、前回のコラムでも紹介した参考文献の中に、次のような記述を見つけた。

 「プロフェッショナルがその専門性を十分に活かすためには、専門領域の知識だけではどうにもならないということだ。なぜなら、一つの専門性は他の専門性とうまく編まれることがないと、現実の世界でみずからの専門性を全うすることができないからである。」

 また、こうとも言っている。

 「専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に掴んでいなければならない。」

 そうだよなあと思う。残念ながら「きちんと対応することが肝心ですね。」という発言には、自らの専門性の限界は見えない。つまり、目の前に起こっている事柄は自分の専門性の傘の中に納まっているという立場とは言えないだろうか。

 じゃあ、どうすればいいんだろうという話になる。それに対しては、次のような記述を見つけた。

 「みずからの専門領域の内輪の符丁で相手を抑え込もうとするひとは、そもそもプロフェッショナルとして失格なのである。」

 「「どんな専門家がいい専門家ですか?」返ってきた答えはごくシンプルで、高度な知識をもっているひとでも、責任をとってくれるひとでもなく、「いっしょに考えてくれるひと」というものだった。」

 何だか引用だらけになってしまったが、こういうことってすごく大事なことではないかと思う。そういえば最近NHKのテレビに「総合診療医ドクターG」という番組がある。総合診療医というのは、特定の疾患に対する専門医の対極にあって、患者の訴えに耳を傾けて疾患の本質を見抜く医師だ。正しく診断を下した後は、専門医にバトンタッチして治療を行うわけだが、そうした専門医の隙間をうめる総合診療医のような立ち位置こそが、これからの時代に求められる専門家の一つの姿ではないかと思う。

 参考文献:鷲田精一、しんがりの思想(反リーダーシップ論)2015年、角川文庫

 


「しんがり」について

2016-05-09 13:56:51 | その他

最近山登りに興味がわいてきて近くの山に登ったりしている。一応登山靴をはいて、着るものも綿ではなくすべて化繊、汗がすぐ乾くように配慮する。とは言っても登る山は500メートルくらいだから、一時間くらいしかかからない。気温が25℃くらいあれば、頂上に着くころには結構な大汗をかいているから、頂上を吹き抜ける風で結構な爽快感を感じることができる。

 里山に登るくらいなら一人で登山してもそれほどの問題もないのだろうけど、高い山になると何人かのパーティで行った方が良いと聞く。何せ相手は自然である。道に迷ったりけがをしたりと、予想していなかった事態が起きた時に、皆で力を合わせることができればどれだけ心強いだろう。複数の人が登山する時には、一番後ろに最も経験を積んだ人がつき、先頭で2番目に経験を積んだ人がリードするのが良いとされている。私のようなシロウトは、彼らエキスパートの間に挟まれて歩くことになる。こういう最後のポジションを「しんがり」という。そういえば、戦国時代、負け戦で撤退を余儀なくされた時に、最後に撤退をする部隊のことも同じように「しんがり」という。言うまでもなく、追ってくる敵の攻撃に直接さらされる最も危険なポジションである。

 登山でも戦でも「しんがり」に求められる資質とはなんだろう。参考文献によれば、「誰かに犠牲が集中していないか、リーダーが張り切りすぎて皆ついていくのに四苦八苦しているのではないか、そろそろどこからか悲鳴が上がらないか、このままで果たしてもつか、といった全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断」をすることなのだという。

 ビジネスの世界では、リーダーに求められる資質の話がいつもされている。現代のような先行き不透明な時代には、なおさら遠くを照らすことのできるリーダーが求められている。ビジョンを描き、そこに向かって邁進する姿こそが、現代のビジネスリーダーに求められる資質なのである。

 でも、日本の人口はピークを越え減少に転じて久しいし、シニア世代の人口比率がどんどん高くなって、世界有数の老人国になりつつある。東京と地方の格差もどんどん広がるばかりだ。もちろんグローバル化で海外に活路を見出すこともあるかもしれないが、当然リスクも高い。そんな中で、「ダウンサイジング」や「撤退戦」というシナリオもありという考え方を社会全体で考える必要があるのではないかというのが、参考文献の著者、元大阪大学学長である鷲田氏の主張であり、そういうシナリオの中では、リーダーよりもフォロワー、あるいは「しんがり」の立ち位置が重要なのだという。「リーダーに、そしてシステムに全体をあずけず、しかも全体をじぶんが丸ごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いをできるところで責任を負う、そんな伸縮可能なかかわり方」、それは上位下達や指示待ちの対極にある行動様式であるとも言っている。これからの時代を生きているためのヒントになるのではないかと思った。

 参考文献:鷲田清一、しんがりの思想(反リーダーシップ論)、2015、角川新書


骨董という商売

2016-04-21 23:25:26 | その他

テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出演している有名な中島誠之助氏の新書本を読んだ。氏が骨董の世界に入るまでのいきさつや、骨董に対する考え方などが書かれており、なかなか面白かった。この本の中で中島氏は、骨董というのは悪く言えば人をだますことが商売の原点であると述べている。つまり、古美術の仲介とは、このくらいの値段がするだろうなあと思った古美術品を、知らぬ素振りで安い値段で買い、その値段よりはるかに高い値段で別の買い手に売りつけることで、その差額を利益にする。決して自分の目利きした値段を人に言ってはいけないのである。インターネットで調べると、その壺の値段がパッと誰でもわかるようでは、骨董商の商売は成り立たない。自分で磨き上げた審美眼だけを頼りに、目の前にある美術品の値踏みをする。残念ながら壺の裏を見ても値段のシールなど決して貼っていない。目利きの感性によって、その値段は10万円になることもあれば100万円になることもあるだろう。どれが正しくてどれが間違いということでもない。決してこの壺の価値は100万円と一意に決まらないのだ。そういう価値の曖昧さが、本質的に大事なのである。

 そういう曖昧さのなかにずっと身を置いてきた中島氏が、突然テレビに出て、「この壺は1000円です。」と皆の前で言い切ってしまうことになったのである。これは大変なことである。業界からは、相当の反発があったのだという。それはそうかもしれない。結局、テレビ出演から何年かたって中島氏は自分の骨董店を閉めてしまうことになる。「いい仕事していますねえ。」という名文句で、あれほど有名になってしまうと、その流れも仕方のないことだったのだろう。実はテレビに出る前から、中島氏は自分の店で正札で骨董を売ったりしていて、同業者から顰蹙を買っていたこともあるというから、騙し合いのような骨董商という商売に元々違和感を感じていたのかもしれない。

 値段のはっきりしない骨董品の取引というのは、我々の普通のビジネスとはかけ離れた別世界のことと思うかもしれないが、もしかすると我々のビジネスだって、煮詰めるとそういう騙し騙されという側面だってあるのではないかと思う。いつもお客様の利益のために最善をつくすとか、CS最大化が目標とか言う言葉を聞く。そのことを否定するつもりはないけど、それだけでは商売というのは長続きしない。申し訳ないけど、営業というのはそういうことではないのだろうと思う。さらにもうちょっと考えてみると、骨董の価値のような価値がフワフワした対象を見つければ、そこには美味しいビジネスが潜んでいるのかもしれない。どっかにころがっていないかなあ、フワフワしたもの。

 参考文献:中島誠之助、骨董掘り出し人生、朝日新書、2007


駅における整列乗車について

2016-04-09 19:41:41 | その他

通勤で使っている電車の駅、始発の電車を待って、多くの人がきちんと並んで電車を待っている。どの列に並んだ方が座れる可能性が高いかもしっかり研究してあるので、後ろの方に並んでいても、殆ど座ることができる。並んでいる間と座ってからの少しの間が毎日の読書の時間だ。残念ながら、座ってしばらくたつとついつい眠ってしまい、次に気が付いたときには終点に到着というのが毎日のルーティーン。

 多くの人が続々とやってくるので、駅員さんも事故が起こらないようにマイクに向かって声を張り上げている。なかなか大変な仕事だなあと思うのだけれど、その中でちょっと気になることがある。というのも、始発で並んでいる人に対して

 「電車をお待ちの方は、黄色い印のある所に4列に並んでお待ちください。」

 と連呼している。しかし、実際に並んでいる人をみると、どの列も2列しかない。駅員は、列が長くなるとプッラットフォームの反対側まで人があふれるので、4列になるように繰り返しアナウンスをするのだけれど、誰もそれを聞いて4列になる人はいない。このアナウンスをするようになってもうだいぶ期間が経つのだが、状況が改善される様子は一向にないのだ。一度だけ、駅員さんが列のところまでやってきて強制的に4列にさせられたことがあるのだが、それ以降同じような誘導はしていないようだ。

 なぜ、2列は4列にならないか?それは、皆が4列に並ぶという気持ちになっていないので、誰かが4列になろうとしても、「2列でいいじゃん」と思っている人とトラブルになってしまうと思っているからではないかと思う。しつこく4列にならびましょうとアナウンスを続けて「4列に並ぶのね」と思う人がある水準を超えると、ぱたっと4予列モードに遷移するのかもしれない。物理学でいう相転移という現象に似ているかもしれない。とすると、過冷却の水にちょっと衝撃を与えると急に凍るのと同じように、どこかの一列だけ毎日4列にするように(例えばペイントや駅員の誘導)工夫してみるのはどうだろうか。

 こんな些末な事柄を観察してもわかるように、人の心や行動というのは言葉や理論によって簡単には変わらない。いくら言葉によって伝えられる事柄が理路整然として「正しいこと」であっても、そのことが相手の人の気持ちを変えることにつながるかはわからない。本人も理屈としては分かったつもりでも、それを飲み込んで自分の気持ちにできるかどうかは別のことである。

世界中で争いが絶えない。ビジネスにおいても大きな会社の内紛などが毎日ニュースになっている。なぜ、そんなことが起こるのか。それは、正しいことを伝えれば、正しくないことをしている人が気持ちを翻して、正しいことを言っている人に従うと思っているからではないか。でも、それはたぶん幻想である。私たちは、意識をコントロールできないのだから。じゃあ、どうすればいいんだろう。大体何が正しくて何が正しくないなんてことだって、実はわかりはしないのではないかと思えてきた。