有名な宮沢賢治の雨ニモマケズの最後に次のようなくだりがある。
ミンナニ デクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフ モノニ/ワタシハ ナリタイ
賢治はデクノボーと呼ばれたいと書いている。全く不思議なフレーズではあるまいか。なぜ賢治はデクノボーになりたいのだろう。
あの人はできる、とか、あの人のやることに間違いはない、と言う風に言われる人が何かをするのは簡単である。だって、人はその人を信用するから。
でも、デクノボーが何を行ってもダメだろう。誰もその人の言うことなんか信用しない。だから、デクノボーが何かをやり遂げることって、すごくカッコいいと思うのだ。
上手く行っても上手く行っても、それに満足することなく、解決しない問題の前で身悶えし続ける。どっちへ行くのか、いつも優柔不断なことこの上ない。それでいい。僕もそんなデクノボーでありたいと思う。
そのデクノボーは、お芝居である。究極のお芝居。それを成し遂げることが出来る人はめったにいない。猛烈な力を内在している人だけが、それをなしうるのだ。賢治の本心は、きっとそんなところにあったのではないかと思うのだが。
ミンナニ デクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフ モノニ/ワタシハ ナリタイ
賢治はデクノボーと呼ばれたいと書いている。全く不思議なフレーズではあるまいか。なぜ賢治はデクノボーになりたいのだろう。
あの人はできる、とか、あの人のやることに間違いはない、と言う風に言われる人が何かをするのは簡単である。だって、人はその人を信用するから。
でも、デクノボーが何を行ってもダメだろう。誰もその人の言うことなんか信用しない。だから、デクノボーが何かをやり遂げることって、すごくカッコいいと思うのだ。
上手く行っても上手く行っても、それに満足することなく、解決しない問題の前で身悶えし続ける。どっちへ行くのか、いつも優柔不断なことこの上ない。それでいい。僕もそんなデクノボーでありたいと思う。
そのデクノボーは、お芝居である。究極のお芝居。それを成し遂げることが出来る人はめったにいない。猛烈な力を内在している人だけが、それをなしうるのだ。賢治の本心は、きっとそんなところにあったのではないかと思うのだが。