このブログでも何度か書いてきた短縮ダイポールの調整に関するメモをまとめてCQ出版に投稿したら、CQ誌に掲載の方向で検討するとの返事がきた。何月号になるかは分からないが、ちょっと楽しみだね。
天体観測が趣味で、太陽や月を望遠鏡で良く観察する。写真を撮るのではなく、対象を見ながら鉛筆でスケッチをする。なかなかこれが楽しい。
寒い冬の夜に、外で1時間も2時間もじっとしてスケッチするのを他の人に理解してもらうのは難しいのだけれど、とても充実した時間を過ごすことが出来ると本人は思っている。
関連して、最近「生き物の描き方」という本を読んだ。この本は、大学教授である著者が、自然のスケッチ観察について、その基礎をレクチャーしたものだが、正直言ってあまりに素晴らしいハイレベルのスケッチで、素人がちょっと真似できそうなものではない。それでも、採録されているたくさんの動植物のスケッチを見るだけでも楽しい内容ではある。
この本の中で著者の盛口先生が、スケッチのポイントとしてあげていたことが気になった。それは、スケッチを描く時に
1. ウソは、はっきりつとつく。
2. ウソのつき方をうまくする。
3. ウソはつきとおす。
ということが大切だという。普通スケッチを描くというと、「対象をしっかり観察して、出来るだけ予見をいれずに描きましょう。」などというのが普通だと思うのだが、この本では、平気な顔でウソをつけという。なぜ、そんなことを言うのかというと、要するにスケッチという行為には、観測者の主観が入るものであるということらしい。主観の全く入らない客観的なスケッチなど存在しないのである。(じゃあ写真なら主観が全く入らないかと言うと、きっとそんなことはないと思う。)
月のクレーターのスケッチでも、同じようなクレーターを描いていると、光の当たり方で影のでき方にいくつかのルールがあるのがだんだん分かってくる。そういうことを理解しているかいないかでスケッチを描くスピードも出来も全然違ってくる。これだって、ウソと言えばウソみたいな話だと思う。
また、こういうことってスケッチだけにはとどまらない気もする。例えばある研究テーマの実験をするとしよう。そもそも実験というのは、自然の摂理を見極めるために行うためのものだから、観察者の偏見を排除して客観的に行うものである。が、そういう実験は、殆ど役に立たないことをプロの開発者はみんな知っているんじゃないかと思う。実験をするときにこういう風に結果を出してやろうというイメージをあらかじめ持って研究者は実験を巧妙に作り上げるのだ。自分の思うような結果を出すために実験の条件を自分の都合が良いように合わせたり、実験のサンプルの形を変えたり、いろいろと「インチキ」をやらかす。いや、インチキになってしまってはいけないのだけれど、そのぎりぎりのところのころ合いを見極めることができる研究者は一流ということになる。少なくとも研究開発はサイコロを振って幸運に6が連発することを期待するということではないのである。
本の中で先生はこうも言っている。
「真実を知らないと、うまくウソはつけないのである。」
なかなか含蓄のある言葉だと思う。もしかすると、うまくウソをつくことと真実を知ることというのは同じことなのかもしれない。
参考文献
盛口満:生き物の描き方、 東京大学出版会、2012
寒い冬の夜に、外で1時間も2時間もじっとしてスケッチするのを他の人に理解してもらうのは難しいのだけれど、とても充実した時間を過ごすことが出来ると本人は思っている。
関連して、最近「生き物の描き方」という本を読んだ。この本は、大学教授である著者が、自然のスケッチ観察について、その基礎をレクチャーしたものだが、正直言ってあまりに素晴らしいハイレベルのスケッチで、素人がちょっと真似できそうなものではない。それでも、採録されているたくさんの動植物のスケッチを見るだけでも楽しい内容ではある。
この本の中で著者の盛口先生が、スケッチのポイントとしてあげていたことが気になった。それは、スケッチを描く時に
1. ウソは、はっきりつとつく。
2. ウソのつき方をうまくする。
3. ウソはつきとおす。
ということが大切だという。普通スケッチを描くというと、「対象をしっかり観察して、出来るだけ予見をいれずに描きましょう。」などというのが普通だと思うのだが、この本では、平気な顔でウソをつけという。なぜ、そんなことを言うのかというと、要するにスケッチという行為には、観測者の主観が入るものであるということらしい。主観の全く入らない客観的なスケッチなど存在しないのである。(じゃあ写真なら主観が全く入らないかと言うと、きっとそんなことはないと思う。)
月のクレーターのスケッチでも、同じようなクレーターを描いていると、光の当たり方で影のでき方にいくつかのルールがあるのがだんだん分かってくる。そういうことを理解しているかいないかでスケッチを描くスピードも出来も全然違ってくる。これだって、ウソと言えばウソみたいな話だと思う。
また、こういうことってスケッチだけにはとどまらない気もする。例えばある研究テーマの実験をするとしよう。そもそも実験というのは、自然の摂理を見極めるために行うためのものだから、観察者の偏見を排除して客観的に行うものである。が、そういう実験は、殆ど役に立たないことをプロの開発者はみんな知っているんじゃないかと思う。実験をするときにこういう風に結果を出してやろうというイメージをあらかじめ持って研究者は実験を巧妙に作り上げるのだ。自分の思うような結果を出すために実験の条件を自分の都合が良いように合わせたり、実験のサンプルの形を変えたり、いろいろと「インチキ」をやらかす。いや、インチキになってしまってはいけないのだけれど、そのぎりぎりのところのころ合いを見極めることができる研究者は一流ということになる。少なくとも研究開発はサイコロを振って幸運に6が連発することを期待するということではないのである。
本の中で先生はこうも言っている。
「真実を知らないと、うまくウソはつけないのである。」
なかなか含蓄のある言葉だと思う。もしかすると、うまくウソをつくことと真実を知ることというのは同じことなのかもしれない。
参考文献
盛口満:生き物の描き方、 東京大学出版会、2012
この聞き慣れない効果のことを知っている人はそれほど多くないかもしれない。プルキニエ効果というのは、人間の知覚に関する。特に視覚に関する効果である。通常の明るさのもとでは人間の眼というのは、だいたい緑色の波長の光に対して最高の感度を有する。しかし、周囲が暗くなってくると、光に対する感度が青い方に(波長が短い方向)シフトする、これがプルキニエ効果だ。もっとわかりやすく言うと、明るいところでは、赤っぽい色の方が目立って見えた物が、暗いところへいくと青っぽい色の方がよく見えるということになる。日本の救急車は赤いサイレンを回しているが、海外の救急車の色が青っぽかったりするのは、この効果を考慮したものと言う話もある。
さて、明るいところで赤いものと青いものを並べてみたとしよう。この時赤い方がちょっと明るいように見えたとする。ここで、だんだん周りを暗くしていくと、次第に青い色の方が明るいように見えてくるかもしれない。それは上に書いたプルキニエ効果により人の感覚が周囲の明るさによって変化したことによる。実際には赤と青の色の明るさは少しも変わってはいない。
でも、その時あなたは、そう思うだろうか?多分違うだろう。知覚したとおりに赤の色がだんだん暗くなって逆に青が明るくなったと思うに違いない。当たり前だ。そう見えるんだから。いくら他の人をたくさん連れてきて、同じ現象を見せても答えは変わらないに違いない。人間にはみんなプルキニエ効果を生むような受容器官が埋め込まれている。
こういうことって、視覚だけの事ではないのだろうと思う。政治や社会現象などにおいても、同じようなことは多分良く起こっているのではないだろうか。目の前に起こっていることが、果たして“事実”なのか、それとも受け取り側の“バイアス”のせいなのか?それはちょっとやそっとでは区別はつかない。アンケートなんかとっても、その結果の吟味は微妙だ。少なくともそれが“事実”ではないと思った方が無難だろう。
もともとのプルキニエ現象を発見したプルキニエ博士は、どうやってこの生理学上の発見をしたのだろか。19世紀の科学者だから、今のような高度な光学センサーなどあるはずもない。私は、多分、目の前にある明るさに関する事実を否定することから始まったのだと思う。明るさが違って見えるようになることは事実ではなく、知覚の何らかの傾向によるものだと仮説を立てたところから答えは見つかったのではないだろうか。
目の前にあることを否定してみる。そこから見えてくることもあるような気がする。
さて、明るいところで赤いものと青いものを並べてみたとしよう。この時赤い方がちょっと明るいように見えたとする。ここで、だんだん周りを暗くしていくと、次第に青い色の方が明るいように見えてくるかもしれない。それは上に書いたプルキニエ効果により人の感覚が周囲の明るさによって変化したことによる。実際には赤と青の色の明るさは少しも変わってはいない。
でも、その時あなたは、そう思うだろうか?多分違うだろう。知覚したとおりに赤の色がだんだん暗くなって逆に青が明るくなったと思うに違いない。当たり前だ。そう見えるんだから。いくら他の人をたくさん連れてきて、同じ現象を見せても答えは変わらないに違いない。人間にはみんなプルキニエ効果を生むような受容器官が埋め込まれている。
こういうことって、視覚だけの事ではないのだろうと思う。政治や社会現象などにおいても、同じようなことは多分良く起こっているのではないだろうか。目の前に起こっていることが、果たして“事実”なのか、それとも受け取り側の“バイアス”のせいなのか?それはちょっとやそっとでは区別はつかない。アンケートなんかとっても、その結果の吟味は微妙だ。少なくともそれが“事実”ではないと思った方が無難だろう。
もともとのプルキニエ現象を発見したプルキニエ博士は、どうやってこの生理学上の発見をしたのだろか。19世紀の科学者だから、今のような高度な光学センサーなどあるはずもない。私は、多分、目の前にある明るさに関する事実を否定することから始まったのだと思う。明るさが違って見えるようになることは事実ではなく、知覚の何らかの傾向によるものだと仮説を立てたところから答えは見つかったのではないだろうか。
目の前にあることを否定してみる。そこから見えてくることもあるような気がする。