趣味で写真を撮っている。カメラの量販店には1000万画素を超えるような高性能のカメラが安価に手に入る時代だ。写真を撮って楽しまない方がおかしい。が、私はデジカメは使わない。正確には仕事以外ではデジカメは使わない。珍しくなったフィルムをカメラに入れて写真を撮り、現像から引き伸ばしまで自分でやっている。これがなかなか楽しい。
ここひと月ほど、35mmカメラで同じような写真を同じようにとっては現像し、気になったコマをプリントして見た。対象は見慣れた街の風景ばかりなので、これといった写真はない。でも、中にはいいなと思うのもたまにある。
そんな何気ない風景の一連の写真にはどれが大切でどれが大切でないというコマごとの差がない。一方、いつもはこれと思った風景や人の写真をとっているから、これはと思っていない写真や露出を間違えたコマはすべて失敗ということになる。そういうコマはプリントされることもない。つまり撮られた写真には良い写真と悪い写真があるだけだ。良い写真と悪い写真の間に意味はない。
ところが、カスみたいなコマばかりだと、どれがいいか悪いかよくわからないから、とりあえずベタ焼き(ネガを並べて全部を一度に印画紙に焼き付けること)をしてみることになる。すると今まで気にしていなかったいろんなことが見えてきた。同じ露出条件でとった写真でも結構ネガの濃度が違っているとか、お天気の違いでネガの濃度が大きく違うことなどいろいろだ。今まで失敗として見捨てられれていたコマにもちゃんと意味があることが見えてくるのだ。
どうも人間というのは物事を絶対的に見ることができないらしい。要するに慣れてしまうのだ。こういう時には比較をしてみることが有効だ。つまりベタ焼きのように並べてみること。我々は、どっちが濃くてどっちが薄いかということなら間違いなくできるように出来ている。濃度の差には意味がある。そのことを考えてみることが大事なんだと思う。そんな意味で、ネガのベタ焼きを強くオススメする。ベタ焼きは思った以上のことを語りかけてきてくれるのだ。
この方法論は写真だけに言えることではないだろう。どんなベタ焼きを作るかは考え方次第なのだから。
ここひと月ほど、35mmカメラで同じような写真を同じようにとっては現像し、気になったコマをプリントして見た。対象は見慣れた街の風景ばかりなので、これといった写真はない。でも、中にはいいなと思うのもたまにある。
そんな何気ない風景の一連の写真にはどれが大切でどれが大切でないというコマごとの差がない。一方、いつもはこれと思った風景や人の写真をとっているから、これはと思っていない写真や露出を間違えたコマはすべて失敗ということになる。そういうコマはプリントされることもない。つまり撮られた写真には良い写真と悪い写真があるだけだ。良い写真と悪い写真の間に意味はない。
ところが、カスみたいなコマばかりだと、どれがいいか悪いかよくわからないから、とりあえずベタ焼き(ネガを並べて全部を一度に印画紙に焼き付けること)をしてみることになる。すると今まで気にしていなかったいろんなことが見えてきた。同じ露出条件でとった写真でも結構ネガの濃度が違っているとか、お天気の違いでネガの濃度が大きく違うことなどいろいろだ。今まで失敗として見捨てられれていたコマにもちゃんと意味があることが見えてくるのだ。
どうも人間というのは物事を絶対的に見ることができないらしい。要するに慣れてしまうのだ。こういう時には比較をしてみることが有効だ。つまりベタ焼きのように並べてみること。我々は、どっちが濃くてどっちが薄いかということなら間違いなくできるように出来ている。濃度の差には意味がある。そのことを考えてみることが大事なんだと思う。そんな意味で、ネガのベタ焼きを強くオススメする。ベタ焼きは思った以上のことを語りかけてきてくれるのだ。
この方法論は写真だけに言えることではないだろう。どんなベタ焼きを作るかは考え方次第なのだから。