少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

夏休み

2007-07-28 22:27:00 | その他
明日、成田に向かいます。

なんだか頭の調子がイマイチで、気合いが入っていません。
いつもは南の島にいくときは望遠鏡をかついで行くのだけれど、満月と重なっていることもありやめにします。双眼鏡でもみえるものなら見えるでしょう。

鮮やかな色のインドネシアの建物も楽しみだけど、写真はどうなるかねえ。ちょっとこっちも自信がありません。

かえってあまり気負わないほうがいいかもしれないし。いってきます。

明日から夏休み

2007-07-27 22:55:40 | その他
猛烈に忙しい日々が続いていたが、明日からお休み。バリ島へ行く。

なんだか仕事は、ぶちぶちに。

ちょっとお休みもしないとね。

写真も天体観測もあんまりてがついていない。

がんばらないおやすみにしよっと。

でも、ダイエットはするぞい。

KLASSEでポジ

2007-07-25 22:40:31 | 写真
初めてクラッセにポジのフィルムを入れてみた。もう何日も前になるが、なぜかシャッターが切れない。いや、別にカメラがこわれたわけではない。街の中にもたくさんの色がある。のだけど、何となくシャッターを切る気になれない。10枚以上はとったんだけど、24枚までにはまだ何枚かある。どうしちゃったんだろう。

頭の中が白黒になれすぎたからだろうか。形やコントラストではなく、色で世界を見る。世界は、人と関係なく存在しているのではない。それぞれがどのように周りを見るかで世界はかわるのだ。僕の頭の中は、まだモノクロのような気がする。明るく鮮やかな色はまだ僕の心の中には似合わない気がするんだよね。

本当は来週夏休みでバリ島へ行くのでそれまでにクラッセとポジフィルムの感じをつかみたかったんだけど。ぶっつけ本番になりそうだなあ。

柔軟であること

2007-07-22 20:23:13 | 哲学
毎日の仕事の中で様々な問題に出くわす。それを解決するためには、今までの慣習や思い込みを捨て、柔軟に対応することが大切だ。一見解決できなさそうに見える問題でも、注意深くそしてしつこく問題に取り組んでいくと、そのうち解決策の糸口が見えてくる。すべての事柄はあきらめた瞬間に終わってしまう。あきらめない限り、解決の可能性はゼロではない。まあ、誰がどう見ても失敗にしか見えない状況で、ひとりで頑張り続けることは、そう簡単なことではない。リーダーと呼ばれる人に求められる資質というのは、まさにそういう執念なのかもしれない。

と、ここまでの話は今までにも何回か議論したことがあるような気がする。でも、ここまでの議論で何か変なことに気がついた。つまり、リーダーが何かを成し遂げようとする信念というのは、その問題解決のために必要な「柔軟性」という資質と全く反対の事柄ではないかということだ。信念というのはその定義においてふらふらと揺らいではいけない。今日はこうしようと思ったのに明日はああしようと思うではお話しにならない。それは信念なのだから、何があっても変えてはいけないのである。

変えてはいけない何かのためにほかの何かを柔軟に変えていく。それこそが何かを成し遂げるための王道なのである。でも、私たちの人生の中で、何が目標で何がプロセスなのかということは、そう簡単に決められないことが多いのも事実だ。朝起きて会社に行くことははたして目標なのかプロセスなのか。お金をもらうことが目標なら、会社へ行くことはプロセスにすぎないだろう。でも、お金を稼ぐことではなく、会社でいろんな仕事をして充実した毎日を送ることが目標だとすれば会社へ行くことは、それ自身が目標だと言えなくもない。その行為が目標なのかプロセスなのかは要するに主観的な問題であって、その事柄に付随する絶対的な特性ではないのだ。

こうなってくると人は物事に柔軟であるべきなのか頑なであるべきなのかという問題への答えはよくわからなくなってしまう。それがゴールなら頑なに守るべきであり、手段であるのなら固執せず柔軟であるべきであるということになるが、そのゴールと手段だって時とともに変化していく。そう考えると簡単なレシピなどありそうもない。

柔軟であることと頑なであること。それは一見全く反対の意味の概念なのだが、実はそれは物事の表と裏にすぎないのではないのだろうか。そのどちらもが正しく、そのどちらもが間違っている。そんな気がしてきた。だから、仕事が続かなくって会社をすぐやめる人だって、自分の人生を悔やむ必要はないし、いくら一つの会社で40年頑張ったって大して威張るようなことではないのかもしれない。もちろん、その又逆も言える。そんな風に考えたらちょっとは人生楽にはなりませんかね。

プリント交換のコメント

2007-07-18 23:17:40 | 写真
ネットで知り合った人とモノクロ写真の交換をしている。受け取った方からのコメントをもらった。

感想は、「バイクのカタログみたい」だった。

ふーん、と思った。最近感性というより形式的なことをきちんとやろうと思うことが多い。ここ何年か、感性を大事にして仕事も趣味もやってきたのだが、ここにいたって、形式的なこと(書類をきちんと書くとか、稟議をちゃんとまわすとか)に挑んでいる。

心の中では、そんなことくだらないと思ってはいる。でも、自分がやりたいことをやるために、そういう形式的なことをやらなければいけないなら、やってやろうと思うようになってきた。そんなことで負けたくない。やりゃあいい。

そんな気持ちが写真にも写ったような気がする。カタログみたいな写真、まさに形式的な商品説明。

でもね。一方ではカタログの中にも感性は必要だとも思う。商品のコンセプトやデザインの芸術性、そういうものがカタログの中にも必要かもしれない。

写真に写った自分の姿。もうちょっと感覚的な方向にふってみようかなあ。

e-Machine

2007-07-17 22:09:28 | その他
壊れたと思ったパソコンは、結局ハードディスクの補修をしたら治った。が、DVDのドライブの調子も悪かったので、新しいパソコンを購入した。e-Machineという聞いたこともないブランド。アメリカ製の大きなマシンに512MBのメモリと160GBのHDが付いている。モニタは別で7万円弱。よくこの値段でパソコン作るもんだと思う。さすがにWINDOWS VISTAを標準メモリではきついということで1GBのメモリを追加して7万5千円ほど。

配達してもらってメモリを組み込み、周辺機器をつなげてインターネットにも接続。きわめてスムースにことは進みました。ステレオスピーカも付いていて、これが結構いい音がします。

相対性理論について

2007-07-15 10:30:05 | 哲学
問題:「あなたは窓のない電車の中にいます。客室で友達とボール投げをしました。このとき、あなたは自分の乗っている電車が止まっているのかそれとも時速200Km/hで走っているのかを知ることはできるでしょうか。」

何だか今回はいきなり妙な質問で始まった。この質問の答えは、「わからない」である。勿論電車の振動とかそういうことは無視しての話である。もしかすると「そんなことはないだろう」と思われる方もいるかもしれないから、もっと卑近な例で、高層ビルのエレベータに乗った時のことを思い出してもらえばいいだろう。エレベータが動き出す時と止まる直前には、身体が浮き上がったり沈み込んだりする感覚があるが、途中はエレベータが動いているんだか止まっているんだかよく分からなくなる。あの状態である。要するに一定の速度で動いている時には、その中にいる人はそれが動いているのか止まっているのかは、内側からでは分からないのである。

実は、こういうことを始めて言ったのは、あのガリレオ・ガリレイらしい。表題の相対性理論というとアインシュタインの名前が浮かんでくるかもしれないが、アインシュタインの相対性理論というのは、もうちょっと(ちょっとじゃない?)難しいのだが、このガリレイの相対性理論とも密接に関係があることは間違いない。もちろん今物理の講義をしようと思っているのではない。この相対性理論って、ビジネスにも言えることだなあと思ったのだ。つまり、最初の問題を電車→会社と置き換えるのだ。するとビジネス版相対性理論はこうなる。

ビジネス版相対性理論:「会社の中にいる人は、その会社がどこへどんな速度で向かっているかを知ることは出来ない。」

会社が一定の速度である方向に進む限り、その会社の中にいる人はそれを知る術がないということになる。それは、社長や社員の資質とか能力の問題ではないのである。ガリレオが主張する相対性原理によって決まっていることなのである。では、会社がどちらに向かって進んでいるかを知るためにはどうすればいいかといえば、視点を外に置くことが大切ということになる。電車のスピードは、外の踏切から見れば一目瞭然なのだから、会社のスピードも視点を社外に持っていけばはっきりするに違いない。よく、会社や業界の人だけと付き合っていると、思考が固まってしまうから、いろんな人と話をしたほうが良いなどという。それは、まさにこのビジネス版相対性原理に基づいた考え方なのである。(もちろん、そんな難しい話をしなくても、他社の人と付き合ってもらえばいいんだけど。)

この会社に来てもう2年以上の月日がたった。最初は見るもの聞くもの全てが新しく感じられ、またどうしていいか分からず戸惑った。でも2年も経つとどこにどう話をすれば話が進むのかも、どんな問題意識を社員が持っているのかもだいぶ見えてきた。それはそれでいいことなんだろうけど、逆に言えば、だんだん電車の中に入ってきつつあるということなのかもしれない。一度電車の中に入ってしまうと、外の動きは見えなくなるのだ。これはどっちが良いという話ではない。会社の中がよく分かるということと、会社の外から会社の動きをよく理解するということは相反することだということを理解することが大事なのだと思う。

一方、エレベータは、動き出す時と止まる時には中にいてもその変化を感じることができることにも注意してみよう。会社も同じようなことが言えないだろうか。他社や社会との摩擦、あるいは業績が急に悪くなる時というのは、エレベータが減速するのと似ている。そういう時、その会社の有り様が会社の中にいてもチラッと見えるのかもしれない。業績が悪いのはもちろん歓迎される話ではない。でも、それを単に悪いことと考えるのではなく、なぜそうなったかを考えてみることが出来れば、それはそれで意味のあることになる。

実はこの相対性理論は、会社だけではなく個人にも当てはまると思うのだが、話が長くなるのでまた別の機会に議論してみたと思う。

パソコン不調

2007-07-10 13:42:27 | その他
家にあるパソコンが不調でアップが出来なくなってしまいました。
IEを開くとダウンロードはするのですが、最後にコケて終了になってしまいます。当分更新はスローペースになりそうです。

何か特効薬はありませんかねえ。

偶然と必然が出会う時

2007-07-08 20:57:32 | 写真
昨日七夕の日に現像したフィルムの整理番号がなんと77。2007年7月7日77番だ。
だからどうしたといえば、どうってことはない。ただの偶然。
でも、僕は偶然の中にこそ必然が隠されていると思っている。この偶然はただの偶然ではない。いやただの偶然ではあるのだが、そこには何かしらの意味が埋め込まれている。絶対に。イクスチェンジのカットはこのフィルムから選ぼうと決めた。理由はないけど、そうするべきだという気がするのだ。

写真を撮る。それは目の前に広がる現実とフレーミングとシャッターのタイミングで決まる。言ってみれば写真は偶然に決まるのだ。

でも、写真に写るイメージには様々な意味が隠されているに違いない。シャッターを切る瞬間に全ての偶然は必然に変換される。シャッターを切る瞬間というのは、そういう不思議が凝縮される瞬間なのである。

カメラオタクたちは、シャッターを切るときの音や感触を気にする。そんなものがどうであっても写る写真に関係はないと思うかもしれない。その通りである。光の粒子がレンズを通ってフィルムにあたり、そこで光化学反応を起こすプロセスにシャッターの音や感触など何の関係もない。

でも、シャッターが切られる瞬間というのは、そういう科学的な意味を超えた意味を持っている。だから、その時写真家がどう感じるかということは極めて重要な意味を持っているのだ。なぜなら、物事が必然なのか偶然なのかということは客観的な事柄ではなく、人がどう思うかということに関係しているからだ。

今という瞬間。それを意識するための道具がカメラなのである。今をどう感じるか。それによって写真も変わってくるはずである。どれだけ今を大切にするか。そこが問題なのだ。