少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

車窓の景色のパラパラ写真

2016-11-25 23:57:30 | その他

最近新しいデジカメを購入した。いつもはフィルムで写真を撮る私は、普通のデジカメでは面白くないので、ちょっと変わったカメラを購入することにした。カシオから販売されているそのカメラは、撮影をするレンズ部分と、イメージを見るディスプレー部分が分離する構造になっている。二つのユニットは無線通信ができるようになっているので、少し離れたところにあるレンズユニットに写っている映像を、手元で確認しながら撮影することができる。山登りなどのフィールドでの写真やムービーの撮影で活躍しそうなデジカメである。

 そのカメラのもう一つの機能が、タイムラプス撮影である。要するに決められらた時間間隔、例えば5秒とか1分とかの時間ごとにパチリと写真を撮っていく機能だ。定点観測的な撮影や移動しているときの様子を後から時間を縮めてみることができる。これも楽しそうである。

 今日は、出張で新幹線に乗って郡山まで行った。ふと思いついて、新幹線の窓からの景色をコマ撮り撮影してみることにした。時間にして2時間にもいかないくらいの時間だから5秒間隔で写真を撮り続けてもメモリは十分足りるはず。小さなレンズユニットを窓際においても殆ど気が付く人はいない。時々撮影中を示す赤いLEDが点灯するだけで、郡山に到着するちょっと前まで撮影を行うことができた。

 写った数百枚の写真を、パラパラ漫画のような映像に変換してみると、停車駅で止まる映像を挟んで東京から郡山までの景色がすごい勢いで流れていく。当たり前といえば当たり前の映像である。でも、もうちょっと詳しく見てみると面白いことに気が付いた。つまり、新幹線のすぐ外の電線や近くの家のような景色は、それぞれのコマ間に関連がなく意味のある映像としては認知されないのに対して、例えば空に浮かぶ雲は、コマをまたがって撮影されるので、パラパラ漫画で見ても徐々に動いていく映像として見える。更に遠くの雪をかぶった山々は、パラパラ漫画の中でもあまり動いていないように同じ場所に映っていた。まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

 パラパラ漫画のように写真をたくさん撮影すると、目の前で起こっていることが単純に時間を圧縮して見えると普通は思うのだが、実際はそうではない。自分と対象との相対的な速度と、サンプリングをする間隔にによって、ある特定のスピードで動く対象しか知覚されないのだ。新幹線の窓から意味のある変化として見えたのは、近くの雲のような(多分数キロメートルから10キロメートルくらいの距離にある)対象であり、それより近いものはランダムな映像ににしかならず、逆に数十キロメートル以上離れた山々は動かない対象としてしか見えなかった。

 まあ、新幹線の窓から撮った景色のパラパラ漫画くらいで、そんなにごちゃごちゃ言わなくてもいいのだが、物事というものは、どのように見るかということによって案外いろんな見え方をするということに注意をした方が良いと思うのだ。例えば最近はやりのビックデータ、とにかくたくさんデータを集めれば、今まで見えなかったいろんなことが見えてくるという。それはそれで間違いはないのだけれど、データのとり方や、処理の仕方によって、見えてくる意味というのは必ずしも一つではないと思う。新幹線の窓から見える景色も、もっと早くサンプリングをすれば、もっと近いところの景色がパラパラ漫画で見える様になるし、逆にゆっくりサンプリングをすると、遠くの山が徐々に動いていくように見えるようになるに違いない。もちろん、私たちは本当は景色の中を新幹線が疾走していることを知っているので、どのパラパラ漫画を見ても誤解をすることはないだろう。でも、未知の対象相手のデータを分析している時に、こういうことが起きたらどうだろうか。話はそれほど簡単ではないかもしれない。


数学する身体

2016-11-04 17:35:19 | その他

最近のこのコラムは、読書感想文みたいな文章が多い。ということで今回も取り上げる本の名前は「数学する身体」である。小林秀雄賞という賞を受賞したというありがたい本である。新聞の書評欄で取り上げられていて、題名が面白いと思って読んでみた。

この本で中心に書かれているのが岡潔という大数学者の人生である。一応自分は理系なのだが、高等数学など理解できるはずもなく、岡潔の名前も知らなかった。なんでも多変数解析関数論の分野で世界的な成果を挙げた研究者なのだという。多くの読者同様、私も何の事だか全然わからない。ただ、その本の中に書かれている岡の思想というのは、なかなか面白いと思ったので紹介しようと思う。

 数学に限らず研究者が何かすごい業績を上げるためには、朝から晩まで専門分野のことを「自分」のアタマで必死に考えているのではないかと思われるかもしれない。でも、岡先生は、

 数学を通して何かを本当にわかろうとするときには、「自分の」という意識が障害になる。むしろ「自分の」という限定を消すことこそが本当に何かを「わかる」ための条件でもある。

 という。自分を消すってどういうこと?と思うかもしれない。その問いについて、例えば「悲しい」ということをわかる方法を次のように言っている。

 他の悲しみがわかるということは、他の悲しみの情に自分も染まることである。悲しくない自分が誰かの気持ちを推し量り「理解」するものではない。本当に「他の」悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。

 こう言われると、自分を消すというのもなんとなく理解できるような気がしなくもない。ここまで読んで、もしかすると物事を理解するというのは、数学に限らず同様な考え方ができるのではないかと思えてきた。例えば、ちょっと前に「ユーザーズエンジニアリング」について考えたことがあった。我々ユーザー系エンジニアリング会社の強みとして真っ先に挙げられる要素なのだけど、それって具体的に何かと考えると、よくわからなくなってしまう。それは、「ユーザーズエンジニアリング」を客観的に外から理解しようとしているから、いつまでたってもわからないのではないだろうか。そうではなく、現場に行き、お客様のニーズを具現化する行為そのものを自らの体験として一体になることによって、はじめてわかるものなのかもしれない。そこには現場を外から見る「私」は存在しないのだ。以前にも指摘したことだが、どんなプロジェクトであっても、外からそれを客観的に見るのではなく、その中に身を置いて、問題や矛盾を自らの問題として認識することが決定的に重要であるといえば反対する人はいないだろう。(コラムvol.180:生物多様性と写真の関係参照)

 岡先生は、

 数学的な思考の大部分は非記号的な身体のレベルで行われているのではないか。

 とも言っている。簡単に言えば「アタマじゃなくてカラダで覚えるんだ!」という話といってもいいのかもしれない。あんまりアタマで考えすぎてはいけないと岡先生は説く。

 そういえば、うちの会社には朝の始業前と午後3時ごろに2回体操をする時間がある。これは朝体操をする会社と3時に体操をする2つの会社が合併したことによる。合併前の名残がこんなところに顔を出している訳だ。もちろん、体操は強制ではなく、体操をする人もいればしない人もいるんだけど、もしかすると一日2回ラジオ体操すれば、もう少し自分の会社がわかるようになる気がするのだが、どうだろうか。だから、みんなで体操しましょうよ。

 

参考文献:森田真生、「数学する身体」、2015年、新潮社