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少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

意識と無意識

2006-02-28 23:05:02 | 写真
引き続き意識についての本を読んでいる。カルテックの教授である著者のお話は、後半結構難しくなってきた。

その中で、意識というのは無意識に積もり重なった経験が、何かをきっかけに文字通り意識になるという話があった。芸術家や科学者が何かを創造するときに、何気ないしぐさや観察からそれを生みだすのは、それが無意識と深く関係している証拠だという。確かに何かを思いつくときは、うーんとうなって考えても大体上手くいかない。意識と無意識の境目のようなところで半分ボーっとしているようなときが多い気がする。

ちょっと言葉足らずで上手くいえないが、なんとなく本の話って納得してしまった。記憶と同様に意識さえも環境に埋め込まれているという話、最近読んだ本ではダントツトップだな。

荒天

2006-02-27 22:19:48 | 天体観測
せっかくOⅢフィルターを買ったのに、それっきり天気が悪くなってちっとも観測が出来ないでいる。もうちょうっと正直に言うと、買ってから数日は冬晴れのいい天気の日もあったのだが、寒くてサボった。あれがいけなかった。甘かった。

まあ、季節の変わり目なので、こういう天気は仕方がないのだが。早くいい天気にならないかな。バラ星雲を試してみたいんだけどなあ。ほんとに見えたら感激間違いないんだけどなあ。

現代の貴族と武士

2006-02-26 19:14:25 | その他
ちょっと前から思っていたんだけど、歴史の教科書にでてくる貴族と武士の関係って、今の私企業と公務員の関係ににてないかなあと思うときがある。もちろん、貴族が公務員で私企業が武士。

公務員って、言ってみれば一生懸命働くかどうかはあんまり関係ない。面子とか位置関係とかそういうことが一番大事な人たち。それはいいとか悪いとか言う問題ではない。そういう大義名分みたいなものがないと、物事は進まない。私企業が、いくら金や力を持っていても、それだけでは物事はなしえない。それって、家康や秀吉が、官位を頂いて天下に号令したのにも通ずるものがあると思う。

私企業では効率や資金力が全てである。その一点に注目してビジネスは進む。でも、それだけでは、人はついてこない。それだけではなんというか品がないのだ。

ビジネスには品が必要だ。いま、そういう品を与えるのがお役所であったり、そういう性格をもつ一部の公共企業だろう。その価値は金では測れない。効率では測れない。もしかすると、そういうことはできるだけ非効率的な方がいいのかもしれない。それこそ古の都にいた公家たちそのものではないだろうか。

公家には公家の生き方がある。そんなところで、効率とか安いとかそういう下品なことを言ってはいけないのだ。


記憶について

2006-02-24 23:29:51 | 哲学
講談社現代新書の「<意識>とはなんだろうか」(下條信輔著)という本を読んでいる。まだ読みきっていないが、なかなか面白い。その中で記憶とは何かというくだりがある。

普通記憶というのは頭の中に刻まれたビットの集まりだとみんな思っている。でも、どうも記憶というのはそういうものではないらしい。つまり記憶というのは環境の中にある何かによって想起されるという意味において環境の中にもきざまれているという。

ある記憶が呼び起こされるのは、その記憶に関する何かが周りの環境にあって、それを見たり触ったりすることによって励起される。それは良くあることだろう。なくなった祖母の使っていた杖を見ることによって祖母の面影が思い起こされる。このことを、祖母の記憶というのは頭の中だけにあるのではなく、その杖もまた記憶の一部だというのだ。

何だかなあ、という話かもしれない。でも、この話ってこのブログでいつも僕が議論してる写真の意味の話ともつながるところがあると思う。写真を撮ることによって自分の内面を知るみたいな話だ。

この本の中には、錯覚の話なんかも出ていていろいろ面白い。読みきったらまた感想などアップしたいと思う。

写真の哲学

2006-02-22 20:56:36 | 哲学
写真を撮る。私たちは何を撮るのか。

ふつーの人は、私たちがその花を見ようが見まいが、そこにはその花があると思っている。美しい山は、私たちがそれを見ようが見まいが、そこにずっとあると思っている。

でも、それって本当だろうか、と思うときがある。

何かすばらしい理論を思いついたとする。でも、それを誰にも見せなかったとしたら、果たしてその理論は存在したといえるのだろうか、と思う。

他の人と、その考えを共有したとき初めてその理論は存在したと言える。誰もその存在を認めなかったとしたら、それはたわごとに過ぎない。だから、人は新しい理論を他の人に見せ、認めてもらわねばならないのだ。

風景も同じこと。それを見る人が誰もいなかったら、それはそこにあるとはいえないのかもしれない。私たちは、そこにずっとあると「思っている」だけだ。だって、誰も見ていなければそれを証明するすべがないではないか。

さて、話を写真にもどそう。写真に写るのは果たして何か。それは私が、それを見てそこにあると思ったイメージである。それは絶対的にそこに存在した原子の集まりにあたって跳ね返ってきた光子の粒粒の軌跡ではないかもしれないのだ。それも、一つのお話に過ぎないではないか。いや、そのことを私たちが信じるなら、それが写真であると言っても間違いではない。

この宇宙を認識し、理解するというプロセスは、実は心の中にイメージを作り、それを外の世界とマッチングさせるということなのである。写真というのは、その内なる宇宙と外の宇宙の間に存在する微妙なものなのである。

写真を撮ると何が写るのだろう。僕の心の中には何があるのだろう。そして、宇宙とは一体なんだろう。

そんなことを考えながらシャッターをいつも切れたら、いいなあ。

矛盾

2006-02-21 21:34:47 | 哲学
今、頭の中には矛盾が渦巻いています。

矛盾こそが宇宙の原理ではないかと。

矛盾した文章は、それ自身が矛盾しているがゆえにケチのつけようがないのです。

矛盾のない文章は、うしろに「ではない」とつければ否定できるのです。

でも矛盾した文章はそうはいかない。

うーん。よくわからなくなっちゃった。

頭は今哲学モードです。どんどんその穴の中に深く落ちてゆきます。


人のことを悪く言う

2006-02-19 22:31:25 | 哲学
あのひとはねえ。。。

そんなことを誰も言ったことがあるだろう。もちろん僕も。
でも、最近そういうことを言うのがすごくいやな気がするようになって来ている。
別に良い子ぶろうとしているわけではないのだが、何かそういうことを言うと、ものごとが自分の思う通りにかなくなる気がするのだ。

我慢をすること。それは何かをなしとげるための唯一の道だと思う。とすると、たとえ誰かが、自分の前で変なことをしでかしても、それを口に出さずに黙っていることは、ある意味で我慢することだから、だからそれもゴールに向かうための一手になるような気がするのだ。

我慢が出来るにもかかわらず我慢しなかったことが、一つゴールへの道を遠くに離れさせてしまう。

我慢するためには、それが我慢であることを認識する必要がある。だって、いやなことでなければそれは我慢ではないのだから。

我慢すること。それは我慢したことを自分が意識するというだけのことかもしれない。だとしても、それでも我慢は大切なのだと思う。