少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

四角い写真

2005-03-28 23:22:09 | 写真
ハッセルで撮った写真は6×6という真四角なフォーマットになる。
なかなか縦横比が同じ写真というのは構図が難しいのは事実だと思う。

それはともかく、撮った写真をフレームに入れ、さらに額に入れようとしたとき、真四角なフレームがあまり売られていないことに、いつも戸惑う。大手のヨドバシとかでもわずかしか在庫がないことはざらだ。

他のみなさんはどうしているのだろう。自分で特殊なカッターできるんだろうか?

アイデアとは何か

2005-03-27 21:06:54 | 哲学
何をするにしてもアイデアが大切だという。では、斬新なアイデアはどうやって生まれるのか。
いろんな知識を知っていることも大切だろう。一生懸命考えることだって必要だろう。
それだけあれば、誰でもいいアイデアが生まれるか?答えは否である。それだけではだめだ。

アイデアが生まれるためには勇気が一番必要だと思う。それはアイデアとは何かを考えてみればすぐ分かることだ。新しいアイデアというのは、今までに考えられていなかったことである。それはそうだろう。どっかで既に提案されていたアイデアでは、斬新なアイデアとはいえないだろう。特許ももう出願されているかもしれない。下手に使ったら大変なことになる。200億円払えといわれてもそんな金はどこにもない。

だから新しいアイデアというのは、誰も今までに考えたことのないものである。そんな当たり前のことが何を意味するのか。それは、誰もそのアイデアに同意してはくれないという悲しい事実をつきつけてくる。だって、そのアイデアを聞いた全ての人は、そのアイデアを知らないのだから、同意しようがないではないか。

ここまでアイデアという言葉を使ったが、それを研究と置き換えてもいい。他人に認められた研究は実はもう研究などではない。それは作業だ。

研究でもアイデアでも、最終的には多くの人の役に立たなければ意味を持たない。その意味においては研究やアイデアは多くの人に理解されなくてはならない。しかし、それが最初から万人がわかるようなものであるはずがない。すごい研究というのは、最初は誰も分からず、多くの人から拒絶を受けるのだ。それは、すばらしいアイデアが世の中に出てくるための儀式といってもいいだろう。

そういうプロセスを経ていないテーマはインチキである。研究をする人は、進んで人の拒絶を受けよう。味方など作ってはいけない。孤軍奮闘孤独に戦うのだ。どこまで一人で戦えるかでそのテーマの価値は決まる。どこまで一人でがんばれるか、その人の勇気によって研究の価値は決まるのだ。


博士の愛した数式

2005-03-26 22:57:30 | 哲学
ちょっと前から気になっていた本を購入して読んだ。決め手は、ぱっと開いたページに

exp(i*pai)+1=0

というオイラーの公式が出ていたことだ。この式は全く違ういくつもの定数が、これほど簡単な式によって結び付けられている。この式を人類の至宝とも呼ぶらしい。

この本に出てくる博士は事故で頭を打って80分しか記憶が持続しなくなってしまっている。数学者である博士と、お手伝いさんに来ているシングルマザーとその子供との間でおこった、何と言うことはない出来事がつづられていた。

お手伝いさんが毎日やってくるたびに、博士は見知らぬ女性の訪問を受けるのだ。全ては毎日そこから始まる。

私も博士号を持っている。ピッツバーグのカーネギーメロン大学からPh.D.の学位を授与されてからもう10年になる。学位をとったからといって別に何かが変わるわけではない。が、時間が経つにつれて不思議な感覚を持つようになってきた。

それはなんというか、博士の愛した数式の話の全く反対なのである。それは、人々の記憶が比較的短い時間しか持続していないのではないかと思えるときがあるのだ。未来に起こることに不安をいだき、過去に起こったことを後悔する。でも、よくそれらを目を凝らしてみてみれば、過去は失敗でもなんでもなく様々な経験を私たちに与えてくれているし、未来は全くの予測不可能な存在でもなんでもなく、過去と現在との因果によって起こるべくして未来は作られていく。

と私には思えるのだけれど、人々はほんのわずかな時間の出来事だけに右往左往し、悪者探しを朝から晩までやっている。そして僕が「どうしたの」と手を伸ばそうとすると、強烈な拒絶にあう。あたかも違う世界の人間のようだ。

時間軸を拡張して認識が出来るようになればなるほど、現在における存在は他からは見えなくなってしまうらしい。僕の手は、人々に接することなく体を通り越してしまう。そんな感じがする。

本の博士とは全く逆なのだが、彼の気持ちを僕はとてもよく分かる気がする。いい本なので是非読まれることをお勧めする。

写真の裏側

2005-03-23 20:55:07 | 写真
自分で現像をやりはじめてから気がついたことがある。
それは、写真には裏側があるということだ。うーん、あたりまえのことだけどね。

デジタルカメラのイメージをプリンタで出すとき、その映像は紙の表面のほんの表面にしか存在しない。勿論、アナログカメラで撮った写真だって色素は表面の近いところにしか存在していない。物理的には、少なくとも。

でも、モノクロ写真を自分で現像すると、イヤでも印画紙の裏側を見ることになる。印画紙にもいろいろと種類があることも分かってきた。RCペーパーだと、それほどでもないが、バライタ紙のときは印画紙の全てに薬液がしみこんでいることを実感する。目には見えなくても映像は紙の裏にも存在するのだ。薬液につっこんんでふにゃふにゃになったバライタ印画紙は一杯に薬を吸い込んでパンパンになっている。

最近バライタ紙に焼いた写真を頂いたのだけれど、その深い味わいに感動した。

すばらしい写真を撮るためには、実はカメラや写真の撮影テクニックそのものは重要ではないのかもしれない。写真をとろうとしたときの思いや印画紙、そうした目には見えないディテールの積み重ねが、写真をただの記録メディアから芸術に昇華させるのだと思う。

人生の意味

2005-03-20 19:46:53 | 哲学
人生の意味って何だろう。以前にも同じことを書いたかもしれない。

金、名声、etc.

まあ、そんなものではないことは間違いないだろう。

では、一体なんだろう。

それはカッコつけることではないか。やせ我慢といってもいい。

人生の意味は格好をつけること。いろんな意味で。

身なりもそう。行動もそう。使う道具もそう。

カッコ良くなきゃだめだ。

それではカッコいいってどんなことだろう。

外から見えるカッコとは、心のうちにあるものそのものである。

だから心がカッコ良くなければ、カッコよくはできない。

でもカッコ良く生きるという心持ちは、果たしてカッコいいのだろうか。

多分それは通しであろう。カッコ良さの根源は自己愛である。

自分がカッコ良くなれると思わなければ、ことの成就はおぼつかない。

そして、カッコいい人の周りにはカッコいい人が集まってくる。だって、心のうちと外は同じなのだから。

カッコいい人を集めることが、自分をカッコよくするのではない。自らがカッコよくならなければだめだ。

どこまでもどこまで、カッコ良く。やせ我慢の連続だけど。きっと思いはかなう。きっと。

ハッセルで写真を撮る事だって、天体望遠鏡で天体を見る事だってみんなカッコつけるためにやっているのだ。

ヘッドフォン

2005-03-19 17:03:04 | その他
このブログで紹介していただいたシュアーのE2Cというヘッドフォンを購入した。

身に着けて使う道具だから出来るだけ納得して買いたいと思ったが、結局どれがどれだかよく分からない。口コミというのは、ある意味説得力のある選択肢ということになり、勧めていただいたE2Cを購入した。ネダンも約1万円で、高いといえば高いが、手が出ないというほどでもない。さすがに、イヤフォンに5万円というとちょっと考えてしまう。

さて、使って見た印象だが、最初に使ったときに「おーっ」と思わず声がでた。チャチなCDプレーヤからの音でも、以前と全然違う。特に中音から高音域にかけて繊細な音もきちんと丁寧に鳴っている感じがした。以前はイコライザで無理やり低音域を誇張して聞いていたが、そういうことをするとかえって不自然な印象になってしまい、ノーマルに戻した。そのくらい音が違うのだ。

文句といえば、装着するときにイヤホンの向きやコードの取り回しで戸惑うことが多いこと、耳の穴に突っ込んで使うので長時間使うと少し耳がいたくなること、遮音性が高いのでまわりの声が聞こえないこと、などだろうか。まあ、イヤパッドの大きさや種類も変えられる様になっているので、最適なものを探してみようと思う。

勧めていただいた通り、ポップスのような軽い曲を聴くにはとてもいい商品だと思う。でも、せっかくいい音を手に入れたので、今まで聞いていなかった他のジャンル、クラシックなども挑戦してみようと思う。

いずれにしても良い情報を提供してくださったcbvさんに感謝します。

人事異動

2005-03-18 23:17:07 | その他
会社に入って約20年間、ずっと研究の仕事をしていた。それなりに成果をあげてきたつもりだ。
そして、この4月から初めて営業に近い職場に移ることになった。最近は単に研究論文を書くような仕事から、それを世の中に出すような仕事が多くなってきていたので、それほど違和感があるというわけではない。大体研究でも営業でも、大切なことはよく観察して的確に行動をすることは同じであり、どっちが上でどっちが下という話ではない。

自分のこれまでの専門的な知識を生かして、世の中にモノやサービスを売っていく仕事は楽しくもありやりがいもある仕事だと思っている。

今、考えていることは自分の人生の中で、これから踏み出すステップが何を意味するかということだ。

人は生きているその瞬間には、自分が何をしているのかを知ることはできないと思う。ただ一生懸命きることしかできない。大体、後になっていろんなことが見えてくる。「今思えばあの時が、ターニングポイントだった」みたいな感じだ。

冷静に自分の人生を見つめてみる。欲や恐れ、過度の期待や慢心、いろんな感情の波をおさめてじっと考えるとき、自分の立つ場所の意味が見えてくるに違いない。

しかし、いろんな心の揺らぎがあることこそが生きることの本質でもある。揺らぎが全くなくなって自分の立った今の場所を理解することが出来たとき、その人生は終わる。揺らぎは命そのものなのだから。

今僕はどこにいるのか、これからどこへ向かうのか。まだ、よく見えない。考えることも大切だけど、まわりの人やモノに働きかけることも忘れてはいけない。自分を知るためには回りに働きかけることが絶対必要だから。

ちょっと動揺している。くそッ。

La Tour展

2005-03-15 22:30:11 | その他
上野の展来会に行った。レンブラントを思わせる光と影を効果的に使った絵が多くあった。

絵は勿論カラーであるが、モノクロ写真を彷彿とさせる。ラトゥ-ルの絵の奥の深さは、ハイライトの部分ではない。シャドウのほとんど見えない暗い部分にわずかに残るトーンの変化こそが、この作品群に深い味わいを生み出しているに違いない。

対照的に模倣作品がやや平板に見える理由も、その辺に理由があるような気がする。

作品の中で光源(ろうそく)を手でさえぎって見えなくしている絵がいくつかあった。これは多分、ろうそくの明るさを表現すると絵で表現できるトーンの幅の限界を超えてしまうため、結局シャドウ部分がつぶれてしまうためではないかと思う。いくつかのろうそくが写った絵もあったが、それでは逆にシャドウのトーンは残されたままになっていたので、ろうそくの光のトーンを十分に表現できなくなってしまっていた。その結果ろうそくの炎のインパクトが弱い作品になっていたと思う。

ラトゥ-ルの絵は絶えず表現できるトーンの幅を最大限に描くことを念頭においていたのではないだろうか。モノクロ写真におけるゾーンシステムとも重なるところがあると思う。とすれば彼の絵ではどのトーンを中間(ゾーン5)においたのだろうか。いや、多分彼の絵ではもっとシャドウに近いところをリファレンスにおいて絵に明るさを落としていったのだと思う。彼の絵のポイントはとにかくシャドウなのだから。

ラトゥ-ル最晩年の絵というのがあった。その絵には既に最大限のトーンのダイナミックレンジが生かされてはいなかった。滑らかな諧調ではあるが力強さは既にないその絵は、生涯光と影を追い求めたこの画家の最後にたどり着いたところだったのだろうか。

フィクションとノンフィクション

2005-03-14 22:00:03 | 哲学
フィクションとノンフィクションは違う。(最近、こういう書き出しが多いね)

フィクションはバーチャルで、ノンフィクションはリアルである。

しかし、ものごとはそれほど単純だろうか?今、現在に起こっていることはリアルだというかもしれないが、それが過去になった瞬間からその絶対性は揺らぎ始める。

つまり、人の記憶はあやふやだから、過去の出来事が本当だったかどうかははっきりしなくなるではないか。ものすごく時間が経つと、人はリアルな出来事を演劇というかたちでフィクションに変えてしまう。そうなってしまうと、過去の出来事がリアルだったのかフィクションだったのかはもうどうでもいい。人が見て面白いと思うか、それだけが重要だ。時間というものは、リアルとバーチャルの区別をあいまいにする効果があるのだ。

実は時間だけがリアルとバーチャルの距離を縮めるわけではない。リアルとバーチャルを理解する人の心それ自身さえ、リアルとバーチャルの区別をあいまいにしている。

つまり、あること(リアリティ)をある人が認識したからといって、もう一人の人が隣にいたとしてもそのリアリティに気がついているとは限らない。気がついていない以上、その人にとっては、それはリアリティといえるのだろうか。多分いえないだろう。

別の視点から考えてみよう。フィクションって一体なんだろう。フィクションというのはリアルではないものだから、心の中で生まれたものであるはずである。

ここまでの話をまとめると、リアリティと心の区別はあいまいであるという結論に至る。普通は、リアルな存在と夢のような心の中の出来事は、全く異なるものということになっている。しかし、よくよく考えてみるとこの二つはどうみても同じことでしかない。

この話は、別に僕が初めて言い出したことでは勿論ない。たとえば心理学者のユングなども同じようなことを言っている。そのことを読んだのは大分昔のことなのだが、それが理解できるようになったのはつい最近のことだ。ものごとを理解するということは、本を読むということと等価ではない。少なくとも僕の場合は。

プロとアマチュアについて

2005-03-13 21:50:15 | 哲学
普通プロというのはアマチュアではない。はあ、当たり前だ。

では、なんでプロをしてプロたらしめているのだろうか。

プロは、自分の仕事でお金をとる。できればたくさんとりたい。それはそうだろう。

アマチュアは、お金をとらない。たくさんも少しもない。お金とは無縁だ。

で、お金をたくさんとろうと思ったら、たくさんの人に気に入られるような仕事をしなければならない。その辺の人、3人だけ相手にしていてはプロとしてはやっていけない。

でもアマチュアは違う。お金の多寡は関係ないから自分だけが気に入ることをしてもかまわない。

こんな風に考えると奇妙なことに気がつく。つまり、プロは多くの人に気に入ってもらう仕事をするために「平均値」的な仕事をせざるを得ないのだ。平均値的な仕事というのは、最もよい仕事とは関係がない。受け入れる人にとっては「何とか受け入れられる」程度の仕事でしかないのだ。
特に、顧客の分散が大きいような市場の場合は、プロがどの程度のレベルの仕事をするのかはとても難しいことになる。平均値的な仕事に満足してくれそうな人はほとんどいないのだから。

モノクロの現像というのは、まさにそんな仕事だろう。ヨドバシカメラ(いや、ほかのどこでも)でモノクロの現像をしてもらうよりも、個人で一枚一枚露出を見ながら現像した方がよい結果がでる。それはそうだろう。たった数百円しか取れない現像処理にあまり細かいことを注文する方が間違っている。

プロとアマチュア。当たり前と思っていた概念が、案外分かっていなかったりする。