小学校時代のお昼の時間。アルマイトの弁当箱のふたを立てて、中身が見えないように食べた。終戦から十年。まだまだ田舎は貧しかった。麦ごはんに醤油で和えた削りカツオを絨毯のように表面を覆ったものをよく覚えている。醤油がご飯に染みて結構たらふく食えた。ただ弁当を包んだ新聞に醤油が滲みこんで褐色の跡になったのが、人の目にさらされるのが恥ずかしかった。
当時我が家には鶏が一羽飼われていた。毎朝新鮮な卵を産み落とした。それも一個。白い殻の卵は実に貴重だった。学校に通う兄弟二人の弁当のオカズに回る事は滅多になかった。夕食に焼かれた卵焼きは瞬く間に無くなった。そんな時、必ず、
「お母ちゃんの分も食べんかいな」
末っ子の私に母は自分の分をくれた。母が焼いた卵焼き。醤油味で、砂糖は入っていない。焦げすぎたものも美味しかった。母の子供への思いやりだったのが、子供心に母は卵焼きが嫌いなんだと思ってしまった。卵は何日か分をためて置いて、運動会や、お祭りなどのご馳走作りに使われた。それくらい卵焼きは庶民には高根の花だった。
時代の流れに応じて卵焼きは食卓や弁当のオカズの主役に転じた。ご馳走だった。何はなくとも卵焼きがあれば十分だった。運動会の弁当には、卵焼きがたっぷりと詰められた。美味しそうに頬張る母の姿に、初めて母の好物が卵焼きだったと気付いたのも、そんな時代だった。。
スーパーの目玉として卵一パックが九十八円。チラシで見つけると売り場に家族総出で並んで買った。十パック手に入れても買い過ぎではなかった。すぐ卵料理で使ってしまうのだ。万能の食材ぶりだった。
茶碗蒸し、かに玉、卵どんぶり、卵サラダ、プリン……腕によりをかけた。子供や妻は大喜びで食べた。ぞれなのに、
「わしゃ、卵焼きが食べたい」
母だけは変わらず卵焼きを望んだ。砂糖を入れた厚焼き卵を焼くと、「こんな甘いのんはいらん」と来る。醤油味にして焼いてやると、目を線にして美味しそうに食べた。
母が亡くなって、十数年。我が家の食卓に並ぶ卵焼きは具がいろいろ入った甘めの物が中心になった。しかし、私の席にはシンプルな卵焼きが。母が好んだ醤油味が並ぶ。母譲りの味覚がそうさせるのだ。卵本来の味を生かした醤油味の卵焼きは今も好物である。