電話が掛かった。慌てて受話器を取って耳に当てると、予期せぬ相手だった。
「加西JCの黒川といいます。実は齋藤さんにご相談したいことがありまして、お電話を差し上げてるんですが……」
加西JC、黒川さん、ご相談。どれひとつピンと来るものはなかった。
「姫路で劇団を主宰してはる齋藤さんですね?」
「はあ。そうですが」
「加西で市民による演劇をと、われわれの企画に上がったんですが、なにしろJC会員は門外漢ばかりでして。それで、よろしければ齋藤さんのご指導を賜りたいと……」
えらく丁寧な申し出だった。演劇に関わる事なら別に断る理由はなかった。後日会う約束をして電話を切った。
もう四十年以上アマチュア演劇に携わっている。加古川の劇団を皮切りに、姫路で三劇団を渡り歩いた末、自分が主宰するアマチュア劇団を創立した。舞台に上がった回数は三百をゆうに超えている。主宰する劇団では脚本・演出・舞台美術・キャスト……と便利屋である。おかげで演劇についてはいっぱしの持論を展開できるまでになった。
県内の学校や公共施設への巡回公演や、高校の演劇部を指導しているが、まさか自分が住んでいる地元から指導の要請があるなど考えもしなかった。文化不毛の地という思い込みがあったからだ。
ただし、加西市は播州歌舞伎発祥の地として知られている。演劇の芽は皆無と言う訳ではない。どんな形の依頼であろうと前向きに考えようと思った。
「加西市を象徴する古代の美女、根日女(ねひめ)を主人公にした舞台をやりたいんです。それも市民によるスタッフキャストで。出来れば市民劇団につなげられればと希望しているんですが」
市内の喫茶店で出会った黒川さんは熱く語った。風格を備えた好青年だった。人造石を造る会社の社長さんである。JCのイベント担当の役回りだという。学生の頃鑑賞した演劇の感動を地元の自分たちの手で生み出したいと訴えた。
「齋藤さんの劇団の舞台を観させて貰いました。メンバー五人出向いたんですが、驚きました。素人と見くびっていたのが恥ずかしくなりました。みんな、感動して涙を流しました」
少し前に主宰する劇団の公演をやった。兵庫の歴史の魅力を求めて進める『郷土シリーズ』として、赤穂の有名な忠臣蔵を基にしたした時代劇。四十七士の一人、矢頭右衛門七が女性だったらとの発想で書いた脚本である。浅野内匠頭と吉良上野介の葛藤から始まり、討ち入りを経て、切腹するまでを描いた。ピアノの生演奏をバックにした日本人の魂の表現は、かなり好評だった。その舞台をワザワザ観てくれたようだ。
「加西にこんな素晴らしい舞台を作る人がいると知り誇らしくなりました。それで加西市民による舞台づくりは齋藤さんのご指導が絶対必要だと、みんなの意見が一致したんです」
少しこそばゆい思いをしたが、ここまで褒められては引き受けるしかない。まして生まれ育ったふるさとに錦が飾れるチャンスだと不埒な考えが頭の隅をよぎった。
「微力ですが出来る限り協力させていただきます。一緒にやりましよう」
市民劇団を誕生させ、播磨風土記に記述のある加西市が誇る古代の美女、『根日女』を題材にした芝居作りのイベントがついにスタートした。舞台公演まで1年半のスケジュールが決まった。まず市民劇団の参加者を集められなければ話は始まらない。JCのスタッフが動いた。チラシ配布と新聞記事掲載に、口コミで『根日女の舞台を創りませんか?』と広めた。JCの組織力はさすがだった。
同時に脚本を書き始めた。芝居作りの方は私の手にかかっていた。
「あなたに愛する人はいますか?をテーマにしたいんですが」
JCの若いメンバーが青臭い要求を出した。勿論、私に異存はない。芝居は理屈抜きにクサい方が万人に不思議と受けるものだ。
二週間かけて百五十枚の原稿用紙に根日女伝説のストーリーを埋め込んだ。伝わる歴史上の人物に、私が生み出したオリジナルなキャラクターを縦横無尽に動かした。
のちに大和朝廷の大王(おおきみ)になる二人の皇子(みこ)に愛される賀茂の里の豪族コマの娘、根日女の波乱に満ちたストーリー展開である。播磨風土記の資料や、地元の歴史家が残した『根日女物語』読み漁って、構想を練り上げた。
市民劇団の参加者は三十人近く集まった。主婦に会社員、農業と自営、学生に遊び人(?)……実にバラエティに富んだ顔ぶれだった。
「芝居作りにアマとプロの差はない。あなた方一人一人の情熱と姿勢がそれを左右すると知っておいてください。目標はプロを超える舞台です。ノウハウは私が教えます。全力でぶつかって下さい。そうすれば芝居の醍醐味を皆さんは手に入れる事が出来ます。一年半、とにかく頑張り抜きましよう!」
私の檄にメンバーたちが奮い立った。最初だからこその意気込である。それがゴールの日まで続けば大成功なのだが。さて、どうなるかは神のみぞ知るである。
練習時間は一日三時間、週二回。後半は毎日の強行軍になるだろう。観客の心に届く舞台を創れるのは、観る人の数倍の努力とひらめきだけだ。舞台の上と下が同じ領域にいるようでは感激も感動も決して生まれない。観客が出来ないことをやらなければならない。
肉体鍛錬、滑舌、表情、オーバーアクション、叫び……基礎訓練は欠かさず続けた。観客の数倍動けるようになるためのスタミナと敏捷さ、数倍の大声と滑舌。観客ではなく演技者になるための基本技を身に付けさせるための執拗な繰り返しだった。
キャスティングを決めたのは二か月後。真っさらの状態で参加して来た連中も、何とか、基礎練習についていけるまでになっていた。主役の根日女が決定すれば、あとはバランスを考えて配役すればいい。根日女だけは少々演技が下手でも、はっとするような存在感がある女性でなければ。主役が輝きさえすれば、脇が集団で支えるのは簡単だ。演出の力が問われはするが、そう難しくはない。
公演は二日間。一回二時間弱の舞台である。その数時間のために一年以上も練習で切磋琢磨するのが演劇である。出ずっぱりのメインキャストならまだしも、セリフが群衆で叫ぶ一言だけと言うメンバーもいる。裏側で黙々と働くスタッフには、光が当たる場さえないのだ。当然中途で挫折する者だっている。それを乗り越えて行った先に晴れ舞台が待っている。勿論感動も。
「ようやく辿り着きましたね。本当に夢みたいです。ご苦労様でした」
黒川さんは目を潤ませて私の手を掴んだ。開演直前の緞帳幕の向こうに客席のざわめきを感じながら、出演者と舞台スタッフが集まっている。長期間の練習と裏方の活動を通じて心が一つに成り得た逞しい顔が揃って輝いていた。
円陣を組んだ。開園五分前のブザーが鳴る。
「この日のためにやって来た、耐えてきたみんなが主役になる日です。心置きなく晴れ舞台を楽しんでください。忘れないで、みんなは、いまひとつです。失敗も成功も、みんなのものです。さあ、やりましょう!」
肩を組み合い、手を取り合った五十人を超える勇者たちは、声なき歓声を上げた。
開演のブザーと共に緞帳幕がスルスルと上がる。舞台袖から舞台監督がキューを入れた!照明が入る。兵士の衣装を身に付けた役者たちが上手下手双方から怒号を上げて舞台に躍り出る。大和朝廷の波乱を象徴する戦闘シーンだ。ハプニング的な演出で観客の度肝を抜く。動きの激しい殺陣が繰り広げられる。言葉を失って見入る観客の目。舞台に集中しているのは明白だ。異次元の世界に観客を引っ張り込むのに、まずは成功したようだ。
雷鳴が轟く中で国造(クニノミヤツコ)コマの娘、根日女が賀茂の里の人々の祝福を受けての誕生。美しく気高く育つ根日女。彼女の前に出現する大和の国の先の大王(オオキミ)の忘れ形見の二人の皇子(ミコ)。恋する彼らの姿を、笛とオカリナの音色が祝福する。
大和朝廷の政争の中、二人の皇子は根日女を賀茂の里に残して大和に戻る。そして戦乱。根日女の父コマも兵士を率いて皇子らを援護する。ひたすら天に祈る根日女。
ついに大和が統一され、弟皇子が大王(天皇)の座に。「今こそ、愛する『根日女』を大和の国の母として迎えよう」と、賀茂の里に赴く兄皇子。しかし!
根日女は皇子らの願いに応えられなかった。いくさで多くの里人の命が犠牲になっている。里も荒れた。その地を後にする事なぞ根日女には出来なかった。なぜなら彼女は賀茂の里人らにとって唯一無二の太陽の存在となっていた。傷心の気持ちを抱えて去る皇子を見送った根日女は賀茂の人々を優しく見つめて言葉を発した。
「この賀茂の里を、賀茂の里人を、賀茂の山河を、私は愛します。あなた方とともに、このふるさとを愛しましよう!」
日の光で満たさせる舞台に群衆の歓喜がみなぎる。心がときめき熱くなる音楽の中、緞帳幕がゆっくりと落ちる。拍手が起こる。
拍手の波の中、再び緞帳幕が上がり、舞台に勢ぞろいした面々。嬉しさを隠せずに、そして誇らしげに顔を上げた。両手を観客にささげる。みんなはいま主役だった。