大学受験に失敗したあと、浪人生活に入ったが、途中、お金が心細くなったので、アルバイトをと思い立った。書店へ面接に行くと、社長に勧められて、なんと正従業員になってしまった。元々本を読むのが好きで、志望大学も文学部だった。本屋なら将来の夢からかけ離れていない。それだけの理由だった。
書店の仕事は面白かった。店売スタッフで、新刊書の注文や陳列、在庫のチェック、委託期限の切れた本を返本したりと、目の回るほど忙しかった。大学の事は、いつの間にか、二の次になっていた。
書店に勤務して3年目。父が聞いた。
「将来は、何をするつもりや。これからは外食産業が儲かるらしいぞ。うちの土地が県道沿いにあるから、飲食店をやってみたらどうや?」
いい話だった。仕事は面白いが、将来本屋を経営するとは考えられない。なら……?
一から出直しだった。書店を辞めて、調理師学校に入った。何の経験もなしに飲食店がやれる自信はなかった。とにかく基礎を勉強する必要を感じた。1年で卒業して調理師資格を得た。学校の斡旋で商工会議所の中にあるレストランのコックに。自前の飲食店を経営するという夢をしっかりと抱いての修行だった。
レストランは6年。予想以上の勤務となった。チーフと言う責任があったからだ。オーナーに独立の夢を告げて、何とか退職した。まだやることがあった。経理学校に通うと同時に、喫茶店、卸売市場とアルバイトを重ねた。自分がやりたい飲食店に必要だと感じていたからだった。
独立したのは、父の提案を受けてから10年目だった。ただ、自前の店は、父が言った土地ではなく、姫路市の国道沿いのビルのテナントに出した。客の動向を予測したら、田舎の土地では、かなりの低迷を我慢するしかなかったのだ。
国道沿いの店は、かなり流行った。結婚をして、パパママの喫茶店を続けた。ちょうど10年。3人の子供に恵まれ順風満帆だった。
4人目の子供を授かった時、状況は一変した。酷いアトピーになった子供を守るために、思い切って、当時ではまだ珍しかった『禁煙喫茶店』に踏み切った。しかし、時代はまだそこまで来ていなかった。結局喫茶店は閉めた。家族のために田舎にUターンした。
子供4人を抱えて、遊んではいられない。仕事探しに奔走した。木工工場や2×4施工の建設会社の創設スタッフもやったが、これは水の合わない畑違いだった。長居は無用とさっさと辞めた。結局自分に合う仕事はと思案した結果、出した答えは外食産業だった。
40歳の誕生日を前に、地元では目立った業績の弁当製造会社にハローワークの紹介で入った。給与面を考えて深夜勤務を選んだ。夕方から翌朝までの仕事だった。ベルトコンベアーが主体の製造工場だったが、調理師の免許を持つ私は、工場の厨房部門に。食材の下拵えから、揚げたり焼いたりを担当する。何百人分の刺身を引いた。職場環境はきつかったが、やはり私には水の合った仕事だった。
二十五年続いたのも当然と言えるだろう。
現役を引退した今、やっとゆっくりと昔を振り返られる。不思議と充実した道のりだった。
私が担った仕事は、五回六回と転職となってしまったが、後悔も何もない。父の助言があったとはいえ、自らが将来の夢を抱き、ひたすら実現のために選んだ仕事だった。だから、それぞれの長くても短くても同じぐらい面白く取り組めたと思うからだ。
仕事を選ぶには、まずそこに夢が見られるかどうかが重要である。夢に繋がっていると思えば、どんな仕事も楽しい。楽しければ、その仕事が好きになれる。そうなれば鬼に金棒だ。どんな過酷さも克服できる。夢の実現のために。仕事は自分の気持ち次第なのだ。
書店の仕事は面白かった。店売スタッフで、新刊書の注文や陳列、在庫のチェック、委託期限の切れた本を返本したりと、目の回るほど忙しかった。大学の事は、いつの間にか、二の次になっていた。
書店に勤務して3年目。父が聞いた。
「将来は、何をするつもりや。これからは外食産業が儲かるらしいぞ。うちの土地が県道沿いにあるから、飲食店をやってみたらどうや?」
いい話だった。仕事は面白いが、将来本屋を経営するとは考えられない。なら……?
一から出直しだった。書店を辞めて、調理師学校に入った。何の経験もなしに飲食店がやれる自信はなかった。とにかく基礎を勉強する必要を感じた。1年で卒業して調理師資格を得た。学校の斡旋で商工会議所の中にあるレストランのコックに。自前の飲食店を経営するという夢をしっかりと抱いての修行だった。
レストランは6年。予想以上の勤務となった。チーフと言う責任があったからだ。オーナーに独立の夢を告げて、何とか退職した。まだやることがあった。経理学校に通うと同時に、喫茶店、卸売市場とアルバイトを重ねた。自分がやりたい飲食店に必要だと感じていたからだった。
独立したのは、父の提案を受けてから10年目だった。ただ、自前の店は、父が言った土地ではなく、姫路市の国道沿いのビルのテナントに出した。客の動向を予測したら、田舎の土地では、かなりの低迷を我慢するしかなかったのだ。
国道沿いの店は、かなり流行った。結婚をして、パパママの喫茶店を続けた。ちょうど10年。3人の子供に恵まれ順風満帆だった。
4人目の子供を授かった時、状況は一変した。酷いアトピーになった子供を守るために、思い切って、当時ではまだ珍しかった『禁煙喫茶店』に踏み切った。しかし、時代はまだそこまで来ていなかった。結局喫茶店は閉めた。家族のために田舎にUターンした。
子供4人を抱えて、遊んではいられない。仕事探しに奔走した。木工工場や2×4施工の建設会社の創設スタッフもやったが、これは水の合わない畑違いだった。長居は無用とさっさと辞めた。結局自分に合う仕事はと思案した結果、出した答えは外食産業だった。
40歳の誕生日を前に、地元では目立った業績の弁当製造会社にハローワークの紹介で入った。給与面を考えて深夜勤務を選んだ。夕方から翌朝までの仕事だった。ベルトコンベアーが主体の製造工場だったが、調理師の免許を持つ私は、工場の厨房部門に。食材の下拵えから、揚げたり焼いたりを担当する。何百人分の刺身を引いた。職場環境はきつかったが、やはり私には水の合った仕事だった。
二十五年続いたのも当然と言えるだろう。
現役を引退した今、やっとゆっくりと昔を振り返られる。不思議と充実した道のりだった。
私が担った仕事は、五回六回と転職となってしまったが、後悔も何もない。父の助言があったとはいえ、自らが将来の夢を抱き、ひたすら実現のために選んだ仕事だった。だから、それぞれの長くても短くても同じぐらい面白く取り組めたと思うからだ。
仕事を選ぶには、まずそこに夢が見られるかどうかが重要である。夢に繋がっていると思えば、どんな仕事も楽しい。楽しければ、その仕事が好きになれる。そうなれば鬼に金棒だ。どんな過酷さも克服できる。夢の実現のために。仕事は自分の気持ち次第なのだ。