父を襲ったアクシデントに、母や家族の大半が建築を一旦中止しようと言い出した。父の容体が落ち着くまでの意向だったが、雅之は頑なに首を振った。
「この家は確かに俺の家や。そいでも、この家は親父の夢やないか。兄貴が気に病んでいた、俺の新宅をと、踏み切った親父の夢や、生きがいなんや。いま中止して親父が最悪の状態になってしもうたら、悔やんでも悔やみ切れへんど。絶対、中止せえへん」
雅之の熱い説得に、母は顔をくしゃくしゃにして頷いた。家の建築は続けられた。
年が明けるとリハビリをはじめた父の日課は、母屋から新築現場までの往復になった。誰かの介添えを必要としながらの、遅々とした歩みを毎日続けた。
「マ、マサユキ、モウスグ、デ、デケヨルノ。タ、タノシミヤノウ」
黙々と大工仕事を手伝っている雅之に、父は不明瞭な言葉を必ずかけた。雅之が振り返ると、目やにがこびり付いて潤んだままの父の芽は、急に見開かれるのだった。自由にならない体なのに、父の芽は生気に満ちた輝きを失ってはいなかった。
父が姿を見せるのは、いつも三時過ぎだった。大工仕事の完了を教えてやったら、どんな反応が見られるだろうか。雅之はぼんやりとした頭で玄関を入って三和土を踏んだ。
左に二間の幅でフローリング加工された檜板の縁側。右は十二畳の応接間と、それにつながる十畳の台所。縁側の奥は八畳間と六畳間がふたつづつと床の間、仏壇が納められるスペースと、四間間口の押入れがある。まだ建具と畳がはまっていないせいで、広い。
柱を包む和紙をビリリッと破った。あちこちの店を回り、やっと買い求めたふのりをたいたので、雅之と父が呼吸を合わせて貼ったものだった。破り取った紙の下から、いままさに仕上げの鉋がけをしたtも思える鮮やかな木目肌が現れた。
(二年になるのか)
長くもあり、短くも感じる。終わった後での時間の差異は何の意味も持っていないのを雅之は今更ながら分かった気がした。
台所に入ると、三時の一服に用意しておいた茶菓子と白いコーヒーカップが、既に目的を失って晒し者になっていた。湯沸しポットは保温のランプがついている。二年も湯を沸かし続けて来た働き者である。
雅之はカップに即席のコーヒー豆をティースプーンに掬って入れた。湯を注ぐと出来上がった。ブラックの状態で口に運んで飲む。父はシュガーもフレッシュミルクもたっぷり加えて飲んでいたのを思い出す。遠縁に当たる、寡黙な職人肌の大工は猫舌で、かなり冷ましてから飲んでいた。ひと様々である。
「あら、お父さん、誰もいないみたいですよ」
妻の佳代の声だった。きょうの父のリハビリの介添えは、有給を取った佳代だった。我が妻ながら、よくつとめていてくれると思う。
「ウ、ウッウッ、ウ……」
父が佳代に何かを問い掛けている
雅之は立ち上がった。手早く二人分のコーヒーを淹れると、盆に載せた。
ここに来る度に父は、雅之の淹れたコーヒーを飲むのを愉しみにしていた。父が倒れてからは雅之と父の交流は、このコーヒーを通じてだけとなってしまった。
応接間に出ると、サッシの硝子戸越しに、佳代が手を引いた父の姿が認められた。父は顔を上げて家を見詰めていた。
佳代はすぐに雅之に気付いて、ニッコリと手を上げた。雅之も手を軽く応えながら、「うん」と自問自答の末の結論を出した。
父に大工仕事が済んだことを報告するのは、もっとズーッと後に回そう。大工は大工仲間の建前の助っ人に出ていると言っておけばいい。今までにも大工が建前の助っ人に出て、二週間も三週間も仕事を休んだ例が何度かあったから、おかしくはなかろう。
家の完成は、さっき雅之が受けた、余りにも呆気ない報告より、もっと感激する演出があってしかるべきだった。父には、やはり感激の一瞬を迎えさせてやりたい。雅之は心から、そう思った。何を子供じみたことをと、雅之の内部にもうひとつの声が囁いて来たが、雅之は聞く耳を持たなかった。
この家は、確かに雅之の家になる。それ以上に父の男たる誇りが築き上げた夢の城である。たぶん、父の生涯最後の大仕事になろう。
来月は春爛漫の季節に入る。雅之が喜色満面で父に家の完成を伝える最高の舞台が生まれる。それまで待っても、親不孝にはなるまい。 (終わり)
「この家は確かに俺の家や。そいでも、この家は親父の夢やないか。兄貴が気に病んでいた、俺の新宅をと、踏み切った親父の夢や、生きがいなんや。いま中止して親父が最悪の状態になってしもうたら、悔やんでも悔やみ切れへんど。絶対、中止せえへん」
雅之の熱い説得に、母は顔をくしゃくしゃにして頷いた。家の建築は続けられた。
年が明けるとリハビリをはじめた父の日課は、母屋から新築現場までの往復になった。誰かの介添えを必要としながらの、遅々とした歩みを毎日続けた。
「マ、マサユキ、モウスグ、デ、デケヨルノ。タ、タノシミヤノウ」
黙々と大工仕事を手伝っている雅之に、父は不明瞭な言葉を必ずかけた。雅之が振り返ると、目やにがこびり付いて潤んだままの父の芽は、急に見開かれるのだった。自由にならない体なのに、父の芽は生気に満ちた輝きを失ってはいなかった。
父が姿を見せるのは、いつも三時過ぎだった。大工仕事の完了を教えてやったら、どんな反応が見られるだろうか。雅之はぼんやりとした頭で玄関を入って三和土を踏んだ。
左に二間の幅でフローリング加工された檜板の縁側。右は十二畳の応接間と、それにつながる十畳の台所。縁側の奥は八畳間と六畳間がふたつづつと床の間、仏壇が納められるスペースと、四間間口の押入れがある。まだ建具と畳がはまっていないせいで、広い。
柱を包む和紙をビリリッと破った。あちこちの店を回り、やっと買い求めたふのりをたいたので、雅之と父が呼吸を合わせて貼ったものだった。破り取った紙の下から、いままさに仕上げの鉋がけをしたtも思える鮮やかな木目肌が現れた。
(二年になるのか)
長くもあり、短くも感じる。終わった後での時間の差異は何の意味も持っていないのを雅之は今更ながら分かった気がした。
台所に入ると、三時の一服に用意しておいた茶菓子と白いコーヒーカップが、既に目的を失って晒し者になっていた。湯沸しポットは保温のランプがついている。二年も湯を沸かし続けて来た働き者である。
雅之はカップに即席のコーヒー豆をティースプーンに掬って入れた。湯を注ぐと出来上がった。ブラックの状態で口に運んで飲む。父はシュガーもフレッシュミルクもたっぷり加えて飲んでいたのを思い出す。遠縁に当たる、寡黙な職人肌の大工は猫舌で、かなり冷ましてから飲んでいた。ひと様々である。
「あら、お父さん、誰もいないみたいですよ」
妻の佳代の声だった。きょうの父のリハビリの介添えは、有給を取った佳代だった。我が妻ながら、よくつとめていてくれると思う。
「ウ、ウッウッ、ウ……」
父が佳代に何かを問い掛けている
雅之は立ち上がった。手早く二人分のコーヒーを淹れると、盆に載せた。
ここに来る度に父は、雅之の淹れたコーヒーを飲むのを愉しみにしていた。父が倒れてからは雅之と父の交流は、このコーヒーを通じてだけとなってしまった。
応接間に出ると、サッシの硝子戸越しに、佳代が手を引いた父の姿が認められた。父は顔を上げて家を見詰めていた。
佳代はすぐに雅之に気付いて、ニッコリと手を上げた。雅之も手を軽く応えながら、「うん」と自問自答の末の結論を出した。
父に大工仕事が済んだことを報告するのは、もっとズーッと後に回そう。大工は大工仲間の建前の助っ人に出ていると言っておけばいい。今までにも大工が建前の助っ人に出て、二週間も三週間も仕事を休んだ例が何度かあったから、おかしくはなかろう。
家の完成は、さっき雅之が受けた、余りにも呆気ない報告より、もっと感激する演出があってしかるべきだった。父には、やはり感激の一瞬を迎えさせてやりたい。雅之は心から、そう思った。何を子供じみたことをと、雅之の内部にもうひとつの声が囁いて来たが、雅之は聞く耳を持たなかった。
この家は、確かに雅之の家になる。それ以上に父の男たる誇りが築き上げた夢の城である。たぶん、父の生涯最後の大仕事になろう。
来月は春爛漫の季節に入る。雅之が喜色満面で父に家の完成を伝える最高の舞台が生まれる。それまで待っても、親不孝にはなるまい。 (終わり)