当たり前の優しさ
長年の夢、喫茶店独立を果たして三年目。やっと軌道に乗りはじめ、これからと言うときに、思わぬ障害が次々と見舞った。
最も手痛かった娘の大病。生後三ヶ月で高熱を発した。風邪と診断されほっとしたものの、高熱は収まらない。小児科医院を駆け巡りやっと判明した『川崎病』。長期入院である。
妻と二人三脚で喫茶店を切り盛りしていたのに、その不可欠なパートナーが子どもの入院に付き添わなければならなくなった。慌ててアルバイトを募集したが、すぐ間に合う状態ではない。毎日の仕事をこなすのが優先だった。アルバイトが来てくれるまで、なんとか一人で今日を乗りきなければと気負った。
「マスター、これあそこのお客さんやね。持っていったるわ」
カウンターに座っていた常連の女性客だった。朝のモーニングタイム、目の回る忙しさを必死で答えようとしている私の姿を見ておられなくなったらしい。
「うん。お願いできるやろか?」「まかしといて、人扱うのプロなんだから」
言葉通り彼女の働きは文句のつけようがなかった。いちばん忙しい三十分を乗り切れたのは、彼女のおかげだと言っていい。
「じゃあ、仕事だから、行きます。店も落ち着いたし、いいよね」「もちろん。ありがとう」
彼女は近くのYMCA水泳教室の指導コーチだ。仕事場に入る前に必ず珈琲を飲みに来店する常連のお客さん。スポーツレディらしくガッシリした体格で気さくな女性である。
「今日は忙しかったね、マスター」「うん。おかげで助かったよ」「赤ちゃん、大丈夫?」
仕事帰りに顔を見せた彼女は私が抱える事情を知っていた。カウンターで妻といつも楽しく話しているから、聞かされたのだろう。
「しばらく、あの時間手伝うね。アルバイトじゃないから確約できないけど。毎朝寄るんだから、ついでよ」
彼女は快活に笑った。
「でも悪いよ、お客さんにそんなことさせちゃ」「気にしない。マスターは美味しいコーヒーを作ってくれればいいの」「そうか…」
話は弾んだ。彼女は神戸から通っている。二十年前大震災で被害を受けた長田育ち。実家は焼けてしまったが、家族は無事だった。
「みんな、どんなことでも困っていたら助け合ったんだ。避難所はみんな家族なんだよ」
彼女の笑顔は、そんな環境で育まれたに違いない。悲劇を垣間見た強さが根拠にある。
「マスターだって困っている人がいたらほっとけないでしょう?」
頷いたが胸中複雑だった。手を差し伸べるのは確かだが、それを徹底できる自信はない。
「また明日」清々しい笑顔を絶やさず彼女は去った。その強さと優しさは本物だった。
カウンターで妻と楽しげに談笑を交わす彼女。妻の復帰でゆとりを取り戻した私。彼女らへ美味いコーヒーを淹れる。いい香りが店内を満たす。ささやかな幸せがあった。