こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

仕事を終えて

2014年11月21日 00時24分52秒 | おれ流文芸
 大学受験に失敗したあと、浪人生活に入ったが、途中、お金が心細くなったので、アルバイトをと思い立った。書店へ面接に行くと、社長に勧められて、なんと正従業員になってしまった。元々本を読むのが好きで、志望大学も文学部だった。本屋なら将来の夢からかけ離れていない。それだけの理由だった。
 書店の仕事は面白かった。店売スタッフで、新刊書の注文や陳列、在庫のチェック、委託期限の切れた本を返本したりと、目の回るほど忙しかった。大学の事は、いつの間にか、二の次になっていた。
 書店に勤務して3年目。父が聞いた。
「将来は、何をするつもりや。これからは外食産業が儲かるらしいぞ。うちの土地が県道沿いにあるから、飲食店をやってみたらどうや?」
 いい話だった。仕事は面白いが、将来本屋を経営するとは考えられない。なら……?
 一から出直しだった。書店を辞めて、調理師学校に入った。何の経験もなしに飲食店がやれる自信はなかった。とにかく基礎を勉強する必要を感じた。1年で卒業して調理師資格を得た。学校の斡旋で商工会議所の中にあるレストランのコックに。自前の飲食店を経営するという夢をしっかりと抱いての修行だった。
 レストランは6年。予想以上の勤務となった。チーフと言う責任があったからだ。オーナーに独立の夢を告げて、何とか退職した。まだやることがあった。経理学校に通うと同時に、喫茶店、卸売市場とアルバイトを重ねた。自分がやりたい飲食店に必要だと感じていたからだった。
 独立したのは、父の提案を受けてから10年目だった。ただ、自前の店は、父が言った土地ではなく、姫路市の国道沿いのビルのテナントに出した。客の動向を予測したら、田舎の土地では、かなりの低迷を我慢するしかなかったのだ。
 国道沿いの店は、かなり流行った。結婚をして、パパママの喫茶店を続けた。ちょうど10年。3人の子供に恵まれ順風満帆だった。
 4人目の子供を授かった時、状況は一変した。酷いアトピーになった子供を守るために、思い切って、当時ではまだ珍しかった『禁煙喫茶店』に踏み切った。しかし、時代はまだそこまで来ていなかった。結局喫茶店は閉めた。家族のために田舎にUターンした。
 子供4人を抱えて、遊んではいられない。仕事探しに奔走した。木工工場や2×4施工の建設会社の創設スタッフもやったが、これは水の合わない畑違いだった。長居は無用とさっさと辞めた。結局自分に合う仕事はと思案した結果、出した答えは外食産業だった。
 40歳の誕生日を前に、地元では目立った業績の弁当製造会社にハローワークの紹介で入った。給与面を考えて深夜勤務を選んだ。夕方から翌朝までの仕事だった。ベルトコンベアーが主体の製造工場だったが、調理師の免許を持つ私は、工場の厨房部門に。食材の下拵えから、揚げたり焼いたりを担当する。何百人分の刺身を引いた。職場環境はきつかったが、やはり私には水の合った仕事だった。
二十五年続いたのも当然と言えるだろう。
 現役を引退した今、やっとゆっくりと昔を振り返られる。不思議と充実した道のりだった。
 私が担った仕事は、五回六回と転職となってしまったが、後悔も何もない。父の助言があったとはいえ、自らが将来の夢を抱き、ひたすら実現のために選んだ仕事だった。だから、それぞれの長くても短くても同じぐらい面白く取り組めたと思うからだ。
 仕事を選ぶには、まずそこに夢が見られるかどうかが重要である。夢に繋がっていると思えば、どんな仕事も楽しい。楽しければ、その仕事が好きになれる。そうなれば鬼に金棒だ。どんな過酷さも克服できる。夢の実現のために。仕事は自分の気持ち次第なのだ。
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母が逝きて

2014年11月20日 08時44分35秒 | おれ流文芸
車を飛ばしながら、次々といろんなことが頭をよぎる。別に焦りはない。もう覚悟が出来ているからだろう。なのに、母の顔が浮かんでは消える。笑顔であり、悲しみや怒りの形相すらも、頭の中をぐるぐると回り続ける。運転するのに集中がままならない。


 前方にコンビニが見えた。右折して駐車場に入った。別に何かを買おうと言う訳ではない。頭を落ち着かせないと、事故を起こしかねない。シートを後ろにずらして、背を倒した。ゆっくりと目を閉じた。


「お母さん、もう危ないって。すぐ来れる?」


 病院からの連絡は、ちょうど家に帰り着いた矢先だった。相手の声は別に切迫したものではなかった。危険な状態に陥り、周囲に覚悟を決めさせては持ち直すという繰り返しが二週間近く続いているせいである。


 私も三時間前までは、母の病室にいた。荒い息だけが生きている証しの母を、ベッド越しに見詰めていた。昨夜から仮眠もとらずに付き添っていたのは、何となく予感があったからだ。もう母は戦いをやめようとしていると。母はミイラのように萎んだ体に不釣り合いなギョロ目を息子に向けたままだった。


(母さん。俺が分かるのか?)


 夕方に付き添いを交代した時から、何度問いかけただろうか。もう見えているはずがない。しかし、私が話し掛けたり、手や背中をさすってやると、じーっと見つめ返す。長い時間、母は目をそらさなかった。ゼーゼーと荒い息は途切れささずにいた。


(ありがとう。ありがとう)


 元気だったころの母の声がそこにあった。


 二日前までは、付き添う息子に目を向けても、すぐ逸らした。それまでとなんら変わらない母の反応だった。それが昨夜はまるで違ったのだ。


 ひとりしか残っていない息子への別れだったのかも知れない。付き添いを交代する際に、ベッドの母の顔にくっつくぐらい顔を近づけて、声を掛けた。


「今日は、もう帰るわな。夜に、また来るさかい。がんばれよ、お母ちゃん」


 すると、息がすーっと静まった。ギョロ目が見開いた。きらっと光るものを感じた。なぜかベッドを離れるのに未練を覚えた。


(あれは……母さんが、俺に別れを言ったんだ……そうだよな、お母ちゃん……)


 何とか心を落ち着かせてコンビニを離れた。病院まで十五分もあればつけるだろう。


 病室に入ると、父と兄嫁の姿が目に入った。ベッドの母に目を向けなかった。予感は、もう確信に変わっていた。病院の駐車場に車を滑り込ませた時、何かが体を通り抜けたのだ。


 振り返った父は、力なく、頭を、いやいやをするように振った。母に目を向けた。もう荒い息は途絶えていた。


(お母ちゃん。昨日は俺に別れを言ったんだよな。有難うな。俺って親不孝だったな……)


 涙が自然に湧き上がった。切なかった。

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夏の記憶

2014年11月19日 19時04分37秒 | おれ流文芸
 茂木誠実はとにかく家でじっとしていない。学校から帰ると、カバンを玄関に放り出して即座に飛び出す。外で遊びまわるのだ。もう肌が日焼けを繰り返して浅黒い。
 名は体を表すと言う。誠実の場合は全く逆だ。考えるよりも行動するタイプだった。弟の龍大も名前とはかけ離れている。兄の誠実と対照的に、いつも部屋に閉じ籠って本を読んでいる。荒々しい龍大の名前にそぐわない。
「うちの子ら、静と動っちゅうんかいな。うまい事育ってくれたなあ」
 両親はいつも自画自賛する。
「おい、龍大、カブト捕りにいこか?」
 誠実はよく弟を誘う。中一と六年生。年子である。しかも性格は対極だ。それでも龍大は兄と一緒ならどこへでも出かけた。
 弟が尻にくっつくと、誠実は顔をクシャクシャにして喜ぶ。自分の事はそっちのけで弟を楽しませるためにバタバタと走り回った。
「ほら、この根っこのとこ掘ってみいや。大物がようけおるぞ」
 野山を駆け回っている誠実の知識はもう専門家だ。コナラの大木の根元を掘ると、クワガタやカブトムシがいた。
「すげー!やっぱりスゴイわ、兄ちゃんは」
 弟の褒め言葉が誠実には一番だ。頭をガリガリ掻きながら「へへへ」と照れ笑いをする。
 運動神経はずば抜けている誠実も、勉強は大の苦手。会話も下手だった。本を読まない彼の語彙は、あまりにも少なかった。
 ただ龍大は兄の顔色や語調から、兄が言わんとすることは即座に了解した。
 考えてみればいい兄弟だ。双方がお互いの不足部分をカバーし合っている。
盆を過ぎると、夏休みも終わりが近い。暑ささえ盆を挟んで微妙に和らぐ。子供らも心理的に背後から急かされた気になる。
「龍大、おるんか?」
 障子越しに誠実が声を掛けた。
 マーク・トウェインの『トムソーヤの冒険』に龍大は没頭していた。本を読んでいるのを邪魔されたくない。眉根が寄った。それでも兄を無視しない。龍大は本にしおりを挟んだ。
「兄ちゃん、どっか行くんか?」
 障子をあけると、顔を綻ばす誠実がいた。
「はよ用意せえや。行くで」「どこへ?」「自転車で遠乗りや。夏休み最後の大冒険や」
 誠実は得意げに胸を反らした。
「遠乗り?自転車で?どこまで行くのん?」
 龍大は質問を連発した。
「目的なしや。行けるとこまで行くぞ」「暑いのに、しんどいやんか」「何言うとんや。もう夏休み終わりやで。思いくそ楽しむぞ」
 目が線になった兄の顔を龍大は好きだ。
まだ朝の七時前である。涼しい中を、二人は出発した。誠実は大人用の自転車に跨る。龍大は補助輪をやっと外した子供用だった。
「おい、ついて来れるか?」
心配そうに振り返る誠実に、龍大は口をキッと結んで見せた。
(心配せえでええわ、兄ちゃん)
負けん気だけは兄に負けない。龍大はペダルを思い切り踏みこんだ。
そういえば、あの時もそうだった。去年、龍大は負けん気を実証した。二倍近い体格の中学生に、悲壮な覚悟で立ち向かった。突き放されながら、何度も何度も武者ぶりついた。
「お前、ちっこいくせに生意気やぞ!」
 ガキ大将の猛は虫の居所が悪かったのだろう。いきなり誠実の頭を小突いた。目の前の暴挙に、龍大は逆上したのだ。(俺の兄ちゃんに何すんや!)猛の体に武者ぶりついた。龍大の体はぶるぶると震えている。
「兄ちゃんに何しょんや!アホタレ!」
 龍大は必死だった。死にもの狂いで来られると、相手が小さくてもかなり閉口する。
「アホ!離さんかい!」
 猛は狼狽えた。それでも力の差は歴然だった。龍大を突き飛ばし、振り回した。
「いやや!いやや!」
 龍大は吸い付いて離れぬスッポンだった。
「コラッ!タケっさんに何すんじゃ!」「構わへん。やってもたれ!」
 高みの見物だった猛の取り巻き連中が、意外な展開に血相を変えた。龍大の上着を掴んで引き放そうとする。
「痛っ!」
その一人が悲鳴を上げた。誠実が棒切れで相手の尻を思い切り叩いたのだ。誠実の形相はまるで赤鬼だった。凄い剣幕に他の連中もタジタジとなった。
「弟に手ぇー出すな!」
 勢いに任せた誠実は猛の背中をどやしつけた。龍大に気を取られていた猛はモロに打撃を受けた。声にならぬ悲鳴を上げた。
 連中は転がるように逃げだした。

 ガチャガチャと危なかしい音を立てながらも、二人の自転車は快調に走った。普段来る機会のない隣町との境界にあるM台地を縦断する道へ踏み込んだ。
 M台地には自衛隊の駐屯地がある。周囲は膨大な開墾地と森だ。大根やスイカの生産地である。広大な景色は二人の心をすっかり解放させた。もう不安はかけらもなかった。
 暑さが急に増した。十時を過ぎている。ジリジリと照りつける太陽に汗が所構わず吹き出す。流れ落ちる汗が目に入ると堪らなく痛い。シャツの端でゴシゴシ拭った。それでも、次々と汗は湧き出る。
「キーッ!」
 いきなり誠実がブレーキをかけた。思いもしなかっただけに、龍大は慌てた。必死でブレーキに手をやった。あわやぶつかる寸前に子供用自転車は停まった。
「なんで急に停まるんや。危ないやん!」
 龍大は口を尖らせた。彼なりの抗議である。
「龍大、ラムネ飲むぞ!」
 誠実は額の汗を手で荒っぽく拭うと、左の方を指差した。その先にバラック建ての小さな店がある。かき氷の旗が風に揺れている。それがないとまず店だと気付かない。
 店先に自転車を停めた。誠実はポケットから十円玉を出した。
 店の中は大きめのテーブルが中央にある。カウンターとおぼしき所に、鋳物の氷かき機が鎮座している。人影はまるでない。
 龍大は喉の渇きに襲われて、思わず唾を呑み込んだ。救いを求めて兄を見やった。
「すみません!」
 誠実は大声で店の奥に呼び掛けた。
「はいよ」
 のんびりした返事だった。のろのろと姿を現わしたのは老婆である。
「ラムネください、一本」「はいよ」
 老婆は相変わらずのろのろと冷蔵庫からラムネを取った。ポンとラムネ玉の栓をあけると、プシュッと泡が噴き出す。誠実は慌てて口を瓶の先に運んだ。こぼれる泡を器用に吸い取った。龍大に瓶が渡った。性急に飲む。炭酸が悪さをしてむせた。
「慌てんでええで。ゆっくり飲めや」
 誠実は兄らしい鷹揚さを見せた。
「あんたら、このクソ暑い中、どこまで行くんや?汗まみれやないけ」
 気のいい老婆だった。
「兄ちゃんと自転車旅行や!」「ほうけほうけ。兄弟か、あんたら。そやけど偉いのう」
 老婆に褒められて、龍大は首をすぼめた。
「気ぃ―つけて行きや」
 老婆は名頃惜しげだった。もしかしたら今日の客は誠実らだけだったのかも知れない。
 二人はガチャガチャとペダルを踏んだ。ぐーんとペダルが軽い。ラムネの効果は流石だ。
 勾配がきつい。歩いて自転車を押した。坂道を上りつめると、いきなり広がる広い畑。別世界だった。遠くに地平線を望める開墾地である。枯れかかったツルの絨毯にゴロゴロと転がるスイカ。息を呑む光景が続く。
「M台地のスイカは有名なんやぞ。前は大根ばっかりやったらしいけどな」
誠実は得意げに話した。龍大は「ふんふん」と頷き、兄の偉大さに尊敬の念を募らせる。
「スイカ旨いやろな」「アホ。人のもん黙って食うたら泥棒やぞ」「そんなんアカン」「当たり前や」
二人はケラケラ笑った。
「あっちの畑の端っこまで走ったら、もう帰るぞ」「うん。そしたら競争や。兄ちゃんに負けへん」「よっしゃ、行くぞ。よーいどん!」
 誠実の号令で二人はペダルを力いっぱい踏み込んだ。「ガシャガシャン!」異常な音が響いた。龍大の踏み込んだ足に手応えがない。スコーンとペダルが下がった。
「あっ!」
 龍大はバランスを崩すと、「ガシャーン!」と横倒しになった。チェーンが外れていた。
 誠実は自転車を飛び下りる。激しく倒れるのをよそに、弟に走り寄った。
「自転車動くけ?」「あかん。チェーン外れてるわ。それにペダルがひん曲がってるぞ。道具あらへんし、修理できひんな……!」
 誠実はため息をついた。それでも情けなさそうに眉根を寄せる龍大をおもんばかって、ニーッと笑って見せた。しかし、誠実の方が不安に押し潰されそうだった。
「ドッドッドッドッ」とエンジン音がした。三輪のトラックだった。荷台にはスイカが山積みだ。二人に近づくと停まった。
「どないしたんや?お前ら」
 怒鳴り声と思えるほど大声だった。日焼けして若いのか年寄りか判別がつかない顔だ。目だけがぎょろぎょろと動いた。
「なんや自転車がどないかなったんやな」
 男は運転席から身軽に飛び下りた。
「こないなとこでこないなったらお手上げやわな」
 男は饒舌だった。快活に笑い修理を進めた。
「お前らどっから来たんや?」「富田村です」
「へえ、富田け。あっこにわしの友達がおるわ。梶谷言うんや。知っとるか?」「梶谷って三軒あるさかい。それに別の地区にもおってやし……」「そらそうや。知ってるはずないのう。ガハハハハッ!」
 男の開けっぴろげな態度は、兄弟の不安を吹き飛ばした。修理を終えた男は、荷台からスイカを取った。ぐいと力を入れるとスイカはバカッと割れた。
「ほれ。喉が渇いたやろ。俺の作ったスイカは旨いぞー!遠慮せんと食え」
 日焼けして真っ黒な顔の口元に白い歯が現れた。笑っている。
 確かに旨かった。冷えていないのに、こんな旨いスイカは初めてだった。スイカの汁でシャツを赤く染めて、むさぼり食った。
「ええ食いっぷりや。お前ら兄弟け?よう似とる。ええ兄ちゃんやのう、お前」
 誠実を褒めた男はタバコをふかしながら、またげらげらと笑った。

 通夜の席だった。親戚連中が酒を飲んでげらげらと笑っている。
 龍大は祭壇に掲げられた写真に目を移した。笑顔の兄がいる。日焼けして真っ黒になった顔に白い歯が印象的だった。働き者の兄の死。まだ信じられない。仕事で屋根に上り足を滑らせたのだ。炎天下で兄は死んだ。
 兄と遊んだ日々、あの夏の大冒険!子供の頃ばかりがさっきから走馬灯のように頭をよぎる。あの時、我を忘れてかぶり付いたスイカの味。あれは、兄が傍にいたから。頼れる兄の存在に安心できたから。最高に旨かったのだ。
 また写真を見た。(俺……一人っ子になっちまったで。馬鹿野郎、兄ちゃんの馬鹿野郎!頼りない弟を置き去りにしやがってからに……馬鹿野郎!)
 情けない。涙がまた流れる。(見えない、見えないんだ、兄ちゃんの写真が……!クソッ)嗚咽をグッと噛み締めた。
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冬野菜じたく

2014年11月17日 15時39分42秒 | おれ流文芸

 毎年十二月後半、冬を迎えるためにバタバタと畑を駆け回る。冬野菜を厳しい寒さから守り収穫するために、昔から行われて来た作業を施している。それも霜が降りるまでに済まさないと意味がない。時間との競争である。
 白菜は一番外側の葉っぱでくるむと稲わらをしごいたもので頭の部分を縛る。防寒結束である。こうすると雪が降ろうと収穫が出来る。キャベツやダイコンなどが植わる畝は稲わらを工夫した屋根とか不織布や寒冷紗でトンネルを作り冬の低温から守る。
かなりの種類と数ある野菜への対策をひとつひとつ手仕事でこなすからもう大変だ。凍える手をこすって温めながら進める作業は、まるでわが子を慈しむに等しい。
降り積もった雪を被り野菜たちがポッコリと頭をもたげている。雪をはらい掘り起こすと、野菜は健在だ。厳しい寒さに立ち向かい糖分を蓄えて、より美味しくなっている。冬場に味わう野菜は冬支度しだいである。
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エッセ・みんなが主役

2014年11月15日 01時15分40秒 | おれ流文芸
 
 電話が掛かった。慌てて受話器を取って耳に当てると、予期せぬ相手だった。
「加西JCの黒川といいます。実は齋藤さんにご相談したいことがありまして、お電話を差し上げてるんですが……」
 加西JC、黒川さん、ご相談。どれひとつピンと来るものはなかった。
「姫路で劇団を主宰してはる齋藤さんですね?」
「はあ。そうですが」
「加西で市民による演劇をと、われわれの企画に上がったんですが、なにしろJC会員は門外漢ばかりでして。それで、よろしければ齋藤さんのご指導を賜りたいと……」
 えらく丁寧な申し出だった。演劇に関わる事なら別に断る理由はなかった。後日会う約束をして電話を切った。
 もう四十年以上アマチュア演劇に携わっている。加古川の劇団を皮切りに、姫路で三劇団を渡り歩いた末、自分が主宰するアマチュア劇団を創立した。舞台に上がった回数は三百をゆうに超えている。主宰する劇団では脚本・演出・舞台美術・キャスト……と便利屋である。おかげで演劇についてはいっぱしの持論を展開できるまでになった。
 県内の学校や公共施設への巡回公演や、高校の演劇部を指導しているが、まさか自分が住んでいる地元から指導の要請があるなど考えもしなかった。文化不毛の地という思い込みがあったからだ。
 ただし、加西市は播州歌舞伎発祥の地として知られている。演劇の芽は皆無と言う訳ではない。どんな形の依頼であろうと前向きに考えようと思った。
「加西市を象徴する古代の美女、根日女(ねひめ)を主人公にした舞台をやりたいんです。それも市民によるスタッフキャストで。出来れば市民劇団につなげられればと希望しているんですが」
 市内の喫茶店で出会った黒川さんは熱く語った。風格を備えた好青年だった。人造石を造る会社の社長さんである。JCのイベント担当の役回りだという。学生の頃鑑賞した演劇の感動を地元の自分たちの手で生み出したいと訴えた。
「齋藤さんの劇団の舞台を観させて貰いました。メンバー五人出向いたんですが、驚きました。素人と見くびっていたのが恥ずかしくなりました。みんな、感動して涙を流しました」
 少し前に主宰する劇団の公演をやった。兵庫の歴史の魅力を求めて進める『郷土シリーズ』として、赤穂の有名な忠臣蔵を基にしたした時代劇。四十七士の一人、矢頭右衛門七が女性だったらとの発想で書いた脚本である。浅野内匠頭と吉良上野介の葛藤から始まり、討ち入りを経て、切腹するまでを描いた。ピアノの生演奏をバックにした日本人の魂の表現は、かなり好評だった。その舞台をワザワザ観てくれたようだ。
「加西にこんな素晴らしい舞台を作る人がいると知り誇らしくなりました。それで加西市民による舞台づくりは齋藤さんのご指導が絶対必要だと、みんなの意見が一致したんです」
 少しこそばゆい思いをしたが、ここまで褒められては引き受けるしかない。まして生まれ育ったふるさとに錦が飾れるチャンスだと不埒な考えが頭の隅をよぎった。
「微力ですが出来る限り協力させていただきます。一緒にやりましよう」
 市民劇団を誕生させ、播磨風土記に記述のある加西市が誇る古代の美女、『根日女』を題材にした芝居作りのイベントがついにスタートした。舞台公演まで1年半のスケジュールが決まった。まず市民劇団の参加者を集められなければ話は始まらない。JCのスタッフが動いた。チラシ配布と新聞記事掲載に、口コミで『根日女の舞台を創りませんか?』と広めた。JCの組織力はさすがだった。
 同時に脚本を書き始めた。芝居作りの方は私の手にかかっていた。
「あなたに愛する人はいますか?をテーマにしたいんですが」
 JCの若いメンバーが青臭い要求を出した。勿論、私に異存はない。芝居は理屈抜きにクサい方が万人に不思議と受けるものだ。
 二週間かけて百五十枚の原稿用紙に根日女伝説のストーリーを埋め込んだ。伝わる歴史上の人物に、私が生み出したオリジナルなキャラクターを縦横無尽に動かした。
 のちに大和朝廷の大王(おおきみ)になる二人の皇子(みこ)に愛される賀茂の里の豪族コマの娘、根日女の波乱に満ちたストーリー展開である。播磨風土記の資料や、地元の歴史家が残した『根日女物語』読み漁って、構想を練り上げた。
 市民劇団の参加者は三十人近く集まった。主婦に会社員、農業と自営、学生に遊び人(?)……実にバラエティに富んだ顔ぶれだった。
「芝居作りにアマとプロの差はない。あなた方一人一人の情熱と姿勢がそれを左右すると知っておいてください。目標はプロを超える舞台です。ノウハウは私が教えます。全力でぶつかって下さい。そうすれば芝居の醍醐味を皆さんは手に入れる事が出来ます。一年半、とにかく頑張り抜きましよう!」
 私の檄にメンバーたちが奮い立った。最初だからこその意気込である。それがゴールの日まで続けば大成功なのだが。さて、どうなるかは神のみぞ知るである。
 練習時間は一日三時間、週二回。後半は毎日の強行軍になるだろう。観客の心に届く舞台を創れるのは、観る人の数倍の努力とひらめきだけだ。舞台の上と下が同じ領域にいるようでは感激も感動も決して生まれない。観客が出来ないことをやらなければならない。
 肉体鍛錬、滑舌、表情、オーバーアクション、叫び……基礎訓練は欠かさず続けた。観客の数倍動けるようになるためのスタミナと敏捷さ、数倍の大声と滑舌。観客ではなく演技者になるための基本技を身に付けさせるための執拗な繰り返しだった。
 キャスティングを決めたのは二か月後。真っさらの状態で参加して来た連中も、何とか、基礎練習についていけるまでになっていた。主役の根日女が決定すれば、あとはバランスを考えて配役すればいい。根日女だけは少々演技が下手でも、はっとするような存在感がある女性でなければ。主役が輝きさえすれば、脇が集団で支えるのは簡単だ。演出の力が問われはするが、そう難しくはない。
 公演は二日間。一回二時間弱の舞台である。その数時間のために一年以上も練習で切磋琢磨するのが演劇である。出ずっぱりのメインキャストならまだしも、セリフが群衆で叫ぶ一言だけと言うメンバーもいる。裏側で黙々と働くスタッフには、光が当たる場さえないのだ。当然中途で挫折する者だっている。それを乗り越えて行った先に晴れ舞台が待っている。勿論感動も。
「ようやく辿り着きましたね。本当に夢みたいです。ご苦労様でした」
 黒川さんは目を潤ませて私の手を掴んだ。開演直前の緞帳幕の向こうに客席のざわめきを感じながら、出演者と舞台スタッフが集まっている。長期間の練習と裏方の活動を通じて心が一つに成り得た逞しい顔が揃って輝いていた。
 円陣を組んだ。開園五分前のブザーが鳴る。
「この日のためにやって来た、耐えてきたみんなが主役になる日です。心置きなく晴れ舞台を楽しんでください。忘れないで、みんなは、いまひとつです。失敗も成功も、みんなのものです。さあ、やりましょう!」
 肩を組み合い、手を取り合った五十人を超える勇者たちは、声なき歓声を上げた。
 開演のブザーと共に緞帳幕がスルスルと上がる。舞台袖から舞台監督がキューを入れた!照明が入る。兵士の衣装を身に付けた役者たちが上手下手双方から怒号を上げて舞台に躍り出る。大和朝廷の波乱を象徴する戦闘シーンだ。ハプニング的な演出で観客の度肝を抜く。動きの激しい殺陣が繰り広げられる。言葉を失って見入る観客の目。舞台に集中しているのは明白だ。異次元の世界に観客を引っ張り込むのに、まずは成功したようだ。
 雷鳴が轟く中で国造(クニノミヤツコ)コマの娘、根日女が賀茂の里の人々の祝福を受けての誕生。美しく気高く育つ根日女。彼女の前に出現する大和の国の先の大王(オオキミ)の忘れ形見の二人の皇子(ミコ)。恋する彼らの姿を、笛とオカリナの音色が祝福する。
 大和朝廷の政争の中、二人の皇子は根日女を賀茂の里に残して大和に戻る。そして戦乱。根日女の父コマも兵士を率いて皇子らを援護する。ひたすら天に祈る根日女。
 ついに大和が統一され、弟皇子が大王(天皇)の座に。「今こそ、愛する『根日女』を大和の国の母として迎えよう」と、賀茂の里に赴く兄皇子。しかし!
 根日女は皇子らの願いに応えられなかった。いくさで多くの里人の命が犠牲になっている。里も荒れた。その地を後にする事なぞ根日女には出来なかった。なぜなら彼女は賀茂の里人らにとって唯一無二の太陽の存在となっていた。傷心の気持ちを抱えて去る皇子を見送った根日女は賀茂の人々を優しく見つめて言葉を発した。
「この賀茂の里を、賀茂の里人を、賀茂の山河を、私は愛します。あなた方とともに、このふるさとを愛しましよう!」
 日の光で満たさせる舞台に群衆の歓喜がみなぎる。心がときめき熱くなる音楽の中、緞帳幕がゆっくりと落ちる。拍手が起こる。
 拍手の波の中、再び緞帳幕が上がり、舞台に勢ぞろいした面々。嬉しさを隠せずに、そして誇らしげに顔を上げた。両手を観客にささげる。みんなはいま主役だった。
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絵の心得不心得

2014年11月11日 22時58分01秒 | おれ流文芸
 
小学生の頃、絵が得意で写生コンクールの
入賞の常連だった。朝礼時、全校児童の前で
校長先生に名前を呼ばれ賞状と副賞のクレ
ヨンや絵の具を受け取った時の晴れがまし
さと言ったらえも言われぬものだった。
 実は当時の私はひどい内弁慶で、友達や先
生、大人を相手に殆ど喋れなかった。だから
勉強も遊びも運動も全く目立たない存在で、
両親も諦めさせた根暗な生活を送っていた。
 そんな私が道を外れず成長できたのは、絵
のおかげだった。写生会の度に入賞するのだ
から、友達も先生も一目置いてくれたのだ。
(僕の得意は絵だ!)と自信もついた。
 ところが中学になると、絵は脚光を浴びな
くなった。理由は自分でもよく分かっていた。
漫画やアニメの虜になったのは小学5年生
くらいから。その影響が中学生になって表れ
た。風景の写生画にディズニー風の木や川の
流れを描いてしまう。認められるはずがない。
絵はなるべくして不得手になってしまった。
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ミニエッセ・卵焼き

2014年11月10日 13時19分09秒 | おれ流文芸

 小学校時代のお昼の時間。アルマイトの弁当箱のふたを立てて、中身が見えないように食べた。終戦から十年。まだまだ田舎は貧しかった。麦ごはんに醤油で和えた削りカツオを絨毯のように表面を覆ったものをよく覚えている。醤油がご飯に染みて結構たらふく食えた。ただ弁当を包んだ新聞に醤油が滲みこんで褐色の跡になったのが、人の目にさらされるのが恥ずかしかった。
 当時我が家には鶏が一羽飼われていた。毎朝新鮮な卵を産み落とした。それも一個。白い殻の卵は実に貴重だった。学校に通う兄弟二人の弁当のオカズに回る事は滅多になかった。夕食に焼かれた卵焼きは瞬く間に無くなった。そんな時、必ず、
「お母ちゃんの分も食べんかいな」
 末っ子の私に母は自分の分をくれた。母が焼いた卵焼き。醤油味で、砂糖は入っていない。焦げすぎたものも美味しかった。母の子供への思いやりだったのが、子供心に母は卵焼きが嫌いなんだと思ってしまった。卵は何日か分をためて置いて、運動会や、お祭りなどのご馳走作りに使われた。それくらい卵焼きは庶民には高根の花だった。
 時代の流れに応じて卵焼きは食卓や弁当のオカズの主役に転じた。ご馳走だった。何はなくとも卵焼きがあれば十分だった。運動会の弁当には、卵焼きがたっぷりと詰められた。美味しそうに頬張る母の姿に、初めて母の好物が卵焼きだったと気付いたのも、そんな時代だった。。
 スーパーの目玉として卵一パックが九十八円。チラシで見つけると売り場に家族総出で並んで買った。十パック手に入れても買い過ぎではなかった。すぐ卵料理で使ってしまうのだ。万能の食材ぶりだった。
 茶碗蒸し、かに玉、卵どんぶり、卵サラダ、プリン……腕によりをかけた。子供や妻は大喜びで食べた。ぞれなのに、
「わしゃ、卵焼きが食べたい」
 母だけは変わらず卵焼きを望んだ。砂糖を入れた厚焼き卵を焼くと、「こんな甘いのんはいらん」と来る。醤油味にして焼いてやると、目を線にして美味しそうに食べた。
 母が亡くなって、十数年。我が家の食卓に並ぶ卵焼きは具がいろいろ入った甘めの物が中心になった。しかし、私の席にはシンプルな卵焼きが。母が好んだ醤油味が並ぶ。母譲りの味覚がそうさせるのだ。卵本来の味を生かした醤油味の卵焼きは今も好物である。
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コラム・お酒に感謝

2014年11月06日 12時46分24秒 | おれ流文芸


いきなり記憶が」ぶっとんだ。目が覚めたら、真っ昼間にセンベイ布団にくるまっている自分を発見した。  出勤すると上司に「もう、大変やったで。酔っ払いをアパートに担ぎ込んで寝かせるのは」と言われた。「ああ、情けない!」と暗くなっていると、「酒は先に酔うた者の勝ち、酔っ払いは天下御免や」 「そやけど、お前大胆やで、アルバイトの女の子の手を握って口説きよってからに。あれは、酒の席で済ませてしもうたらもったいないで」……絶句。  そう、妻と私の縁結びの神は、お酒だった。
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ミニエッセ・親子であることの証明

2014年11月04日 22時58分02秒 | おれ流文芸

 前触れもなく父はいきなり勝手口から入って来た。ノソッという感じだった。
「おるか?」と、いつものぶっきらぼうな口調で居間に上り込んで来て、私が寛いでいる炬燵の向かい側に足を入れた。
 珍しいことだった。別に険悪な中だというわけではないが、父と私はどうも気楽に話せない間柄だった。私も父も実によく似た話下手の不器用な性格だった。
 その父が今日はなんと自分から私と向かい合う位置に座ったのだから、内心驚きだった。しかし、私は父の用向きが即座に分かった。
 とりとめのない話を自分から始めた父の顔は七十四歳の老人の顔そのものだった。
「ほんまに釘ばっかり打つ仕事やわ」
 私は父が聞きたいと思っているに違いないであろう、今の仕事の話の口火を思い切って切った。
「そやろ」
 父はわが意を得たりとばかり相槌を打った。
 私は二週間前に転職を図り、新しい会社の研修で新潟県長岡市に滞在して帰ったばかりだった。新工法で近ごろ脚光を浴びている輸入住宅のパネル製作工場が新しい職場だった。
 私の転職の理由は、妻の妊娠だった。当時、私は父のブリキ屋の仕事を手伝っていたのだが、妻の保母としての収入を合わせて何とか生計は成り立っていた。
 それを妻が出産で仕事を辞めれば、収入源は私一人の肩にかかって来る。その分を今の父とともに営む仕事から得ようと望むのは無理というものだった。結局、月々しっかりと固定した収入がある仕事を探すしかなかった。
「お父さんも年やなかったら、仕事もっと出来るんやけどのう。済まんなあ」
 父の立場をよく心得ている母は申し訳なさそうに言った。母はいつも口下手な父の代弁者だった。
 父はブリキ屋の後継者たる兄を事故で亡くして以来、寄る年波にも拘らず、たった一人でブリキ職人の現役を張って来た。私が父の仕事を手伝うようになったのは、父が膝の痛みに耐えながら屋根に上がって仕事をしていると母から聞かされたからだった。少しでも父の手助けが出来るならと思ったのである。リストラで職を失い、ハローワークに通っていたから可能だったのだが。
 しかし、結局我が家の経済環境がそれを許さなくなったのだ。
「どないやった、新しい仕事?」
「何とか出来そうや」
「ほうか。そらよかったのう」
 ぶつ切れの父と息子の会話だった。
「これのう」
 父が逡巡しながら十三万円を突き出した。
「これまでの分野。少のうて済まんけど」
「そんなん、ええのに」
 と言う私に受け取らせて、父は気弱に目を伏せた。私は自然に頭を下げていた。
「身体だけは気ぃつけて、精出せや」
 帰る父の背中の隠せない老いを見詰めながら、私は自分の不甲斐なさに打ちのめされた。
 どう考えても老人の父と想念の息子の立場は逆である。父が思う存分好きなことをしながら余生を送れるように、物心両面で支えになっていて当然の私が、いまだに父に心配して貰う子供でしかないのである。何とも情けない限りだが、この現実はいまさらどうこうしようがない。
 
 新しい職場にも少し慣れて来たある休日、久しぶりに父の助っ人を務めた。錆びたトタン屋根を剥がし、成形したカラートタンの屋根に葺き直す厄介な仕事だった。
「グラインダーは、この角度で支えたら、無理せんとトタンを切れるんやど」「この取り合いをええ加減に仕上げたら、雨が漏るさかいにな」
 父はえらく饒舌だった。作業ごとのコツをいちいち私に念を押しながらも、父の手際は流石だった。速度こそゆっくりしていたが、丁寧な父の職人ワザは健在だった。
 前に父の仕事を手伝っていた頃は、いちいち指示する父にカチン!と来ていた私だった。それがまるで嘘みたいに、今は素直に聞けた。
「息子さんと一緒に仕事が出来るんが一番ですな。そらあんた、幸せでっせ」
 父はその家の奥さんに声を掛けられた。
「ああ、ほんまに。今日は仕事が休みやいうて手伝うてくれよるんですわ」
 父の言葉に弾むものがあった。そして、私自身もくすぐったいような喜びを感じた。
「おい、道具片づけてくれや」
「ああ」
 私はすぐ片付けにかかった。父は最後の仕上げに余念がなく、狭い取り合い部分に半身をこじ入れていた。
 軍隊時代に「チビ、チビ」と虐められたらしい、本当に小さい身体の父である。その父の小さい身体に今は仕事にかける職人そのものの逞しさが漲っていた。
 やっぱり私のオヤジだと誇りを感じた。その父の子に生まれ育った私は、その逞しさを受け継いでいるはずだった。曲がりなりにも自分の家庭を持って人並みの生活をしている。それは、このオヤジのセガレだったからだ。
 仕事に没頭する父の様子を見つめながら、私は思わず笑った。いきなり父が顔を隙間から顔を覗かせた。
「なんや?」
「いや……」
 このぶっきらぼうさは、私とオヤジが親子である証明なんだ。そうだろ、オヤジ?                      (1997年記述)
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ミニエッセ・先生の年賀状

2014年11月03日 22時51分39秒 | おれ流文芸
 一年ぶりに平穏に迎えられた正月の朝だった。
 心身ともにゼロからのの出発を誓わなければならない年始めのはずが、昨年起こしてしまった不祥事で高校を中途退学を余儀なくされたりと、絶望のどん底にあった私はまだ立ち直っていなかった。
 我が家の年賀の朝に顔を出すのも気が重くて、私は自室でゴロンと寝転がっていた。
「おい、お前の分や」
 兄が年賀状をワザワザ部屋へ運んでくれた。
 弟の不祥事沙汰で肩身の狭い思いをしただろうに、いつも私を気遣ってくれる優しい一歳違いの兄だった。そんな兄の気遣いにも素直になれなくて、私は寝たふりを決め込んだ。
「ここに置いとくで。腹が減ったら下へおりて来いや。雑煮が炊けてるさかい」
 兄の口調は、やはり弟を思ったものだった。
 兄が階下におりたのを見計らって、私は勉強机の上に兄が老いてくれた年賀状を手に取った。
 僅か五、六枚に過ぎない年賀状なのに、不思議に胸がときめいた。あの不祥事以来、自分の殻に閉じ籠って来た。その孤独感は言葉に言い表せないほどだった。その孤独感を年賀状は癒してくれるようだった。
 年賀状は眼鏡屋のものと制服屋のものを除くと、たった四枚しか残らなかった。それもあの兄が弟を思いやって書いてくれたものと、遠い所に引っ越して年賀状だけを出し合う小学校時代の友達と、親戚の甥からのものは、例年通りだった。
 友達を作れない内向的な性格の私にとっては、毎正月の定期便ばかりだった。それでも、前年以上の喜びを、礼儀的な年賀状を見ながら感じた。有難くて涙がこぼれそうになった。
 最後の一枚に目を移した。荒っぽい筆勢で書かれた年賀状だった。裏返すと差出人は『井上昭夫』とあった。ピンとすぐに思い当たる名前ではなかった。
『謹賀新年 今年は君の再出発の大事な年。頑張れ!でも慌てないでゆっくり行こう』
 いったい誰なんだろう?同級生でないことは確かだった。高校の担任の先生でもなく、小学校や中学校の担任の先生でもなかった。
 昼前になるとお腹が空いたので階下におりていくと、居間の掘り炬燵で兄がひとり年賀状を見ていた。兄は私の気配に気づいて、こちらに笑顔を向けた。
「年賀状読んだか?井上先生から来てたやないか。オレの受け持ちやった先生や」
「え?井上先生……?あの理科の……」
 やっと思い当たった。中学校で理科を教えて貰った先生である。無精ヒゲだらけの顔が、よほど印象が強かったのか、記憶に残っている。兄のクラスを受け持った先生だった。だから顔と名前が即座につながらなかったのも仕方はない。
 しかし、さっきはすぐに思い出せなかったほど、私には希薄な存在の先生だった。その先生が、なぜ年賀状を……?
 だんだん記憶がよみがえって来た。そうだ、よく怒る怖い先生だったっけ。一度だけ理科の宿題を忘れたことがあった。
「当然のことが出来なんだんやから、しゃあないわな、齋藤。ええか、もう忘れるな」
 そういうのと同時に、先生は額をピンと指で弾いた。かなり痛くて涙が出た。みんなの前で恥ずかしくてたまらなかった。以来、宿題は忘れなかった。でも、それ以外、目だない生徒だった私と井上先生との接点は何もなかった。
「井上先生はええ先生なんやど。いっつも口癖みたいに言うとったわ。オレの生徒は、クラスのお前らだけやない。この学校で育ったヤツらみんなや。だから、卒業したもんらがうまいこといっとるか、気になってしょうがあらへんわ。おかげで頭が薄うなってもた。そんな冗談も言うて、よう笑かしてもうたもんや」
 兄は懐かしい記憶を辿りながら喋った。
 
 その井上先生がくれた年賀状は本当に嬉しかったくせに、その返事を私は出せなかった。
(所詮、先生にとったら、ボクはくだらんことを仕出かしてしもうた落ちこぼれの生徒で、憐れみを掛けて貰うただけやないか、ふん!)
 妙に依怙地な気持ちに捉われてしまったのだ。
 ところが翌年も井上先生の年賀状が元旦の朝に届いた。
『謹賀新年 去年は新しい学校にも受かってええ一年になったなあ。今年もその勢いで、もうひと踏ん張りしようで』
 先生は私の一年をよく承知している風だった。あの無精ひげの奴凧そっくりの丸顔をはっきりと思い出した。今度は素直に返事を書いた。
『謹賀新年 先生、今年もよろしくお願いします。年賀状有難うございました』
 通り一遍のそっけない内容になってしまったが、苦手な毛筆で丁寧に仕上げた。ほかのだれもが見向きもしてくれない落ちこぼれの私を気にかけてくれる、たった一人、井上昭夫先生に感謝の念を正直に籠めた年賀状だった。
 井上先生の年賀状は一昨年の暮れに届いた喪中葉書まで二十九年間途切れることなく届いた。いつもひとことが添えられた年賀状は、失敗を繰り返す生き方をしていた不器用な私をしょっちゅう励まし続けてくれた。
『生前のご厚誼有難うございました。』
 井上先生の死を知らせる喪中葉書の文面は、むしろ私が先生に述べるべき言葉だった。
 先生の教え子の一人は、立派に家庭も仕事も得て、もう何の心配も要りません。ここまでボクを支え続けてくれた先生の年賀状……。
 もうその年賀状は二度と届かない。それは私の遅い独り立ちを意味しているのだ。                                 (1997年記)
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