こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

お片付け

2015年10月17日 00時07分58秒 | Weblog
 昨今、ゴミ屋敷の話題が多い。現代人は片づけがどうも苦手なようだ。
 かくいう私も日々の片付けは苦手である。ところが、わが家はゴミ屋敷になることがない。なぜなら模様替えが大好きなのだ。ひと月に二回くらい自室の雰囲気を変えては、ほくそ笑んでいる。
 部屋でぼんやりしていると、急に思い立つ。あの書棚は壁際に、机は右隅に…うん、これならすっきりと使い勝手いい部屋になるじゃないか!妄想の中自画自賛のレイアウトが出来上がる。
 後は、無我夢中である。乱雑に部屋や机上をおおう煩雑としたものを部屋の中央に積み上げて、家具を据えると決めた場所をまず徹底して掃除する。そして家具を移動。
 家具さえ配置できれば、後の片づけはあっという間。これが面白いように進む。
 部屋だけでなく、我が身心も模様替えできる。だから片付けは、いつも後回しなのだ。
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老いらくの夢

2015年10月16日 00時48分22秒 | Weblog
六十六歳。現役を退いて五年目。
「もうおじいちゃんなんだから、ゆっくりしてなさいよ」
 家族のこころ配りは嬉しい反面、余計なお世話である。まだ老け込む年じゃない。私には大きな夢がある。それも引退してすぐ見始めた夢である。
 友人の死が影響している。彼は実に精力的な生き方を誇っていた。金があり会社の経営者であった。殺しても死ぬタイプではない彼が亡くなる半年前にボロッと弱音を吐いた。
「オレなあ、考えてみりゃ自分の人生を生きたことがないんや。会社は親の後を継いだし、親の財産でぬくぬく生きている。ふと立ち止まった時、思うんや。オレってこのままなんの夢も見んと死ぬんやって。ものすごく空しくなる。人間て夢に向かってまっしぐらに生きてこそ人間やろ。もう手遅れかな…?」
 その言葉が胸にグサッと突き刺さった。(オレにも夢に生きた瞬間てあったっけ?)ジワーッと悪寒に襲われた。そして友人の死に遭遇。彼の無念さを自分の事のように感じた。
(夢に挑戦や。いつ命尽きるか分からへん。いますぐ夢を実現するんや!)
 友人の死に鼓舞される形で、私の挑戦は始まった。若い頃、やりたーい!と切実に願った夢の再挑戦だった。
 人生でたった一冊、自分の本を出版する!もう迷いはなかった。限られた余生を存分にかけてみよう。悔いのないようにやるだけだ。
 これまでに書き溜めた原稿を読み直し清書するところから始めている。これが大変。目の衰えが著しい。モニター画面の文字を追いかけるのも一苦労である。しかし、夢はあきらめないの信念で連日作業を進めている。
 出版相談会にも参加した。これまでは躊躇して結局は止めていた相談会に足を運んだ。
 一歩一歩前進している。費用の捻出も頭を抱えて頑張っている。老いらくの夢だって、やればやれるところを絶対見せてやるのだ。
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好きになれ

2015年10月15日 01時11分10秒 | Weblog
 二度目の高校生活。最初の普通高校は事件を起こして中途退学。新たに受験して合格したのは工業高校電気科。といっても電気など専門教科に興味などない。受かるために中学の担任の助言に従っただけ。
 意に反した学校の授業はまるで面白くない。身が入らないせいで成績は落第スレスレ。卒業さえ出来ればと打算的な思いだけ。二度と退学したくなかった。泣かせた父や母のの涙を二度と見たくなかった。
「キミ、国語が好きなんだね?」
 国語の授業が終わった時声をかけたのはT先生。頷くと、先生は笑顔で言葉を続けた。
「だから国語の成績はいいんだ。なら他の科目も好きになれ。そしたら勉強する気になるぞ。好きこそ物の上手なれってだろ。嫌ったって卒業まで付き合うんだ。勉強も友達も学校も、好きになったら楽しくなるだろ毎日が」
 思わず頷いてしまった。T先生の言葉に説教じゃなく思いやりを感じた。これまで間違いを明確に指摘し、思いやりを持った助言をくれた初めての人はT先生だった。
 一進一退ながら先生の助言の実行に励んだ。まずT先生を好きになった。面白いほど国語が好きになった。いつかクラスでトップの成績に。つられて英語も数学も…専門科目もそこそこの成績に。支配されていた嫌悪感はいつしか嘘みたいに消えていた。
『好きになればいい』そんな簡単な思考の切り替えだけで、友達も数人、親友も出来た。二度目の高校生活は暗から明に一変した。
 二年生で生徒会長に。母校愛は誰にも負けないものに育った。進路も自分で決めた。T先生は転勤されたが、先生のさりげない教えは一人の落ちこぼれ生徒の心に深く刻まれ残った。T先生との出会いは幸運だった。
 社会人になってもT先生の言葉を守った。書店員、調理師学校、レストラン、喫茶店を経て自分の店を持てたのも、『好きになればいい』と努力を重ねたからである。   
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また明日

2015年10月14日 00時17分15秒 | Weblog

当たり前の優しさ

長年の夢、喫茶店独立を果たして三年目。やっと軌道に乗りはじめ、これからと言うときに、思わぬ障害が次々と見舞った。
 最も手痛かった娘の大病。生後三ヶ月で高熱を発した。風邪と診断されほっとしたものの、高熱は収まらない。小児科医院を駆け巡りやっと判明した『川崎病』。長期入院である。
 妻と二人三脚で喫茶店を切り盛りしていたのに、その不可欠なパートナーが子どもの入院に付き添わなければならなくなった。慌ててアルバイトを募集したが、すぐ間に合う状態ではない。毎日の仕事をこなすのが優先だった。アルバイトが来てくれるまで、なんとか一人で今日を乗りきなければと気負った。
「マスター、これあそこのお客さんやね。持っていったるわ」
 カウンターに座っていた常連の女性客だった。朝のモーニングタイム、目の回る忙しさを必死で答えようとしている私の姿を見ておられなくなったらしい。
「うん。お願いできるやろか?」「まかしといて、人扱うのプロなんだから」
 言葉通り彼女の働きは文句のつけようがなかった。いちばん忙しい三十分を乗り切れたのは、彼女のおかげだと言っていい。
「じゃあ、仕事だから、行きます。店も落ち着いたし、いいよね」「もちろん。ありがとう」
 彼女は近くのYMCA水泳教室の指導コーチだ。仕事場に入る前に必ず珈琲を飲みに来店する常連のお客さん。スポーツレディらしくガッシリした体格で気さくな女性である。
「今日は忙しかったね、マスター」「うん。おかげで助かったよ」「赤ちゃん、大丈夫?」
 仕事帰りに顔を見せた彼女は私が抱える事情を知っていた。カウンターで妻といつも楽しく話しているから、聞かされたのだろう。
「しばらく、あの時間手伝うね。アルバイトじゃないから確約できないけど。毎朝寄るんだから、ついでよ」
 彼女は快活に笑った。
「でも悪いよ、お客さんにそんなことさせちゃ」「気にしない。マスターは美味しいコーヒーを作ってくれればいいの」「そうか…」
 話は弾んだ。彼女は神戸から通っている。二十年前大震災で被害を受けた長田育ち。実家は焼けてしまったが、家族は無事だった。
「みんな、どんなことでも困っていたら助け合ったんだ。避難所はみんな家族なんだよ」
 彼女の笑顔は、そんな環境で育まれたに違いない。悲劇を垣間見た強さが根拠にある。
「マスターだって困っている人がいたらほっとけないでしょう?」
 頷いたが胸中複雑だった。手を差し伸べるのは確かだが、それを徹底できる自信はない。
「また明日」清々しい笑顔を絶やさず彼女は去った。その強さと優しさは本物だった。
 カウンターで妻と楽しげに談笑を交わす彼女。妻の復帰でゆとりを取り戻した私。彼女らへ美味いコーヒーを淹れる。いい香りが店内を満たす。ささやかな幸せがあった。

 
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深夜、母とともに

2015年10月12日 02時28分59秒 | Weblog
題名 深夜、母とともに
夜十二時前、病院に着く。母危篤の連絡に慌てて車を飛ばしたが、結局一時間三十分近くかかった。閑散とした病院の駐車場に乗り入れる。携帯電話で守衛室に連絡を取った。
「表に回って下さい。ドア開けますわ」
 何とものんびりした対応。苛立ちが募る。
 ひっそりした病室。ベッドに母は眠っていた。昨日までの荒い息遣いはもうない。
「ご臨終は十一時四十二分。先生は応急の処置をされましたが、延命は無理でした」
「いえ、ありがとうございました」
 母の遺体を前に、看護師との受け答えは淡々と進む。不思議に悲しみは湧かない。この日が近いと心の準備をしていた。それに前日、母の状態に覚悟を決めている。
 母と二人きりの時間。入院してチューブで生き長らえる状態になってからは、1日おきでベッドのそばに付き添った。カクシャクとしていたころは、滅多に二人で向き合う機会はなかった。母の傍に居たのは兄と父で、私は自由気ままに外で独身生活を謳歌した。いま後悔が募る。元気な母に話を聞き、話を聞いて貰えばよかった。今更ながら切実に思う。
 極端な『お母ちゃん子』だった。末っ子だから、母に甘やかされた。兄が四十半ばで事故にあい亡くなると、母の愛情は俄然残った私一人に向く。何かにつけ息子の世話を焼いた。それを煩わしく思い、家に戻ることを極力避けた、まさに親の心子知らずだ。いくら後悔しても、もう母は決して戻らない。
 何も語らぬ母と水入らず。静まり返った深夜の時間。無性に悲しみが襲う。気張っていた大人の虚勢が時間と共に緩んだのだ。母が惜しげもなく愛を注いだ子供に戻る。(お母ちゃん…!)目を閉じると、若く美しい母の姿が想い浮かぶ。私の人生の岐路に、必ずいてくれた気丈な母。その頃の姿ばかり。
「ええか、よう覚えときや。お母ちゃんに似て内弁慶のお前が社会に出たら、しんどい目に合うのは分かりきっとる。そやけど固い殻ん中に閉じこもるんやないで。喋れんで構わん。その分、仕事を、人を好きになったらええ。言葉なんかのうても、相手を好きになったら向こうかて好きになってくれる」
 母にこんこんと諭されたのは、不祥事を起こし高校を退学せざるを得なくなった日。仕事に忙しい父は子供の問題は母に任せっきりである。母が口にした通り、私の性格は母と瓜ふたつ。人との付き合いが不得手だから、いつも一人で何かをコツコツやっていた母を見て育った。似たのは自然の摂理だろう。
「そら一人で楽しめるんが一番やけど、お前は男やろ。社会に出なあかん。女のお母ちゃんと違う。そやから、仕事も周りの人も、何でもええとこ見つけて好きになるんや。好きなもんは誰でも頑張れる。努力したら成果が出よる。それで周りは認めてくれる。好きこそモノの上手なれ、昔の人はええこと言うわ」
 箱入り娘に育ち、父を養子に迎えた母。たぶん我がまま放題に生きて来たのは確か。その母が、挫折から立ち直れずにいる息子を放っておけなくて口にした、女に学問は必要ないとされた時代を生きぬいた母が発した言葉である。無視できるわけがない。一念発起違う高校に進んだ。
「どない?学校は」
 母はわざわざ部屋を覗く。息子の鬱屈した気分を敏感に気付いたのだ。
「まあまあ、やってる」「なんか好きなもん見つけたか?」「え?」
 いきなりの問いかけに驚き、母の顔を見直した。素朴な笑顔が、そこにあった。
「好きな教科は?」「うーん…国語…かな」
 小さい頃から本の虫。自分の世界に閉じこもれたからだ。だから国語は苦手じゃない。
「へー、すごいすごい。好きなんあるやんか。よし、国語を頑張って勉強しい。好きなんやから、ええ点取れるよう頑張り。あとのんは、程ほどでええやんか。好きこそ物の上手なれ…忘れてないやろ」「…ああ」
 母の言葉に従い、テスト勉強は国語を中心に進めた。すると妙に勉強が楽しい。国語の勉強はどんどん捗った。母が言った通り好きになった効用は具体的にあらわれた。。
 学期末試験で国語の成績はクラスのトップ。味わったことのない嬉しさがあった。その影響で次々と好きな教科ができる。英語、数学…。好きな先生、同級生仲間も派生した。
「よかったな。お母ちゃんの言うた通りになったやんか。好きこそモノの上手なれや!」
 喜び過ぎてクシャクシャになった母の顔。自分の口癖を現実に変えた息子の成果が嬉しいのだ。母の笑顔は輝いていた。あの日…。
 ベッドの上から覗き込んだ。魂を失って横たわる母の顔は真っ白。大柄だった体がすっかり縮んでいる。母の顔に触れんばかりに屈み、シワシワの手を握った。さする、何度も何度も。不肖の息子に惜しみなく愛をくれた母を想い、子どもに戻り優しくさすり続けた。
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おむすびころりん?

2015年10月11日 10時36分58秒 | Weblog
朝いちばんに空を仰ぎ見る。灰色に染まっているが、まだ雨の気配はない。(これなら大丈夫だな)。さっそくリュックに備品を詰めた。
 ウォーキングは十二キロコースで途中山を越す。かなり本格的。百人あまりの参加者はさざめきながら歩く。既に何かをパクついているメンバーがいる。大半が団塊の世代以上。健康という実益と趣味の満喫が目的なのだ。
 山道の中ほどに差しかかった時、雨がポツリと落ちた。中休みを取り子腹封じのおにぎりを手にしたところだった。慌てて口に押し込んだ。ポツリポツリと雨は断続的に続く。
「本格的に振りそうなので、急いで下山します」主催者スタッフが大声で告げた。雨がポツリからサーに変化した。次はザーだ。。
 せっかくのおにぎりだが味は分からない。呑みこんで急ぎ列の流れに飛び込んだ。
下山した辺りで雷鳴が響いた。山麓のお堂に飛び込む。濡れたが残暑の季節で助かった。
お堂に落ち着くと急に空腹を覚えた。リュックを探ると、おにぎりの残りがある。早朝に炊き上げたご飯を塩で握って来た。確か焼タラコと昆布の佃煮にオカカを入れた。さっき呑みこむように食ったおにぎりの中味はよく覚えていない。勿体ない事をしてしまった。
石段に座りこむとおもむろにおにぎりを取り出した。焼き海苔で包み込んだおにぎりは絶品だ。市販モノではない。自家製、それも自分で汗水たらして生産した銘柄米キヌヒカリの新米を炊いためしだ。まずいはずがない。顔見知りのウォーキング仲間に一個お裾分けしてかぶり付いた。焼きたらこだった。
すきっ腹もあって格別に旨い。米の甘さがこたえられない。塩と焼きたらこがアクセントになってコメの味を何層倍もひきたてる。
「うまいなあ、このおにぎり!」
 ウォーキング仲間が感嘆の声を上げた。
(そうだろうよ)と気分がいい。晴れた心で食うおにぎりは、さらにうまみを増した。
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電話の向こう

2015年10月10日 00時38分46秒 | Weblog
昭和30年代半ば。我が家に電話がついた。ダイヤル式で時計の文字盤そっくりの回転盤に電話番号の数字をひとつひとつ選んで指を入れる。「ジー」と回した。ひと文字ひと文字の回転盤が戻るまで結構時間を要した。それに3戸共用の共有電話。しょっちゅう電話を通してどこかの会話が聞こえた。個人情報も何もあったものじゃない。筒抜けである。
 とはいえ、それまでは、地域に電話がある家は1軒か2軒。「○○さん、電話だっせ!」
と、その家の人が駆けて来て告げる。急いでその家に走って電話に出るというのが普通だった。それが自分の家で悠然と電話が出来るのだから、便利になったのは言うまでもない。
 自分でかけた初電話は、高校生になってから。相手は、いまだから言えるが、クラスで惹かれた女の子の家。「はい」と相手先が出たら慌てて受話器を置いた。冷や汗ものだった。
 
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青春とは、なんだ!

2015年10月09日 02時19分52秒 | Weblog
高校で入部した柔道部。いがぐり君やモーレツ先生のスポーツ漫画に描かれた柔道着姿の主人公への憧れがあったからだ。
 しかし、柔道着姿への憧れは、瞬く間にしぼんでしまった。
 男の匂いと汗臭さがこもった道場での稽古は想像を絶した。声が小さいと怒鳴られる。準備運動に始まり柔軟、受け身、ワザの繰り返し、そして打ち込み、乱取り…その夜は、全身が痛み眠れなかった。
 すぐ朝稽古が追加。授業の1時間前に道場へ集合。柔道着を着込む。道場から裏山へランニング!しかもハダシ。剥き出しの石や木の根を踏むと悲惨だ。初日は血だらけ!
 3ヶ月、なんとか耐えたが、限界はすぐ来た。退部を申し出ると悲劇が待っていた。部員全員と組みあい一方的に投げ飛ばされる。それが退部するものの非常な運命だった。
 最近よく思う。現在に至る健康と負けん気の原点は、あの柔道部の過酷な日々だったと
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ホープくん?

2015年10月08日 01時35分28秒 | 文芸
「これからもよろしゅうに。なんも出来ひん子ですねん。先生だけが頼りです」
 M君のお母さんは何度も頭を下げて帰った。しかし、この頼みには弱った。だいたい私は先生と呼ばれるような人格者ではない。仕事はただのコック。趣味で三十年近くアマチュア劇団の活動に取り組んでいるだけ。
 M君は私が主宰のアマチュア劇団に参加して来た高校生。もう半年になるが、ひどく不器用で台詞覚えも悪い。それでも言われたことは素直に従う今どきの若者だった。その彼を辛抱強く指導した。せっかく演劇に興味を持ってくれたのだから。
 たぶんM君は他に何も楽しめるものがないのだ。私の褒める手法の練習を結構楽しんでいる。結局彼は下手なりにメインキャストをやりきった。打ち上げの時、M君を誉めそやした。本当に嬉しかった。演劇に関してゼロ以下の可能性と思えたM君は、私の指導で殻をひとつ破ったのだ。M君のお母さんは、公演で駄目な(?)息子の晴れ姿に大感激し、私を先生と崇めたてたのだ。
 しかしM君は二度目の公演に穴をあけたうえ劇団を連絡なしに辞めた。落胆したが、若い人と付き合いが長いと、珍しい事ではない。(よくある事、自分の力が足りなかったんだ)と諦めるだけだった。
 二年後、またM君に会う。彼は劇団の稽古場に顔を見せた。高校卒業間近のはず。オドオドした様子は相変わらずである。別に腹は立たなかった。
「お願いがあって…」「なんだい?」
 聞くとM君の学校の進路指導の先生が私を知っている言う。母校で英語を教えてくれたY先生だった。懐かしい名前である。
「先生が齋藤さんに就職のこと頼んで見たらって。生徒会長もやったしっかりした面倒見のいい人だからきっと頼りになるからって」
 驚いた。Y先生が私を覚えていてくれた。「お願いします」M君は頭を下げるだけ。高校で紹介された就職先に受からなかったのだろう。Y先生も困って、昔の教え子にM君を託したのだ。
 とにかく友達を頼って、車の整備工場を斡旋した。頼まれたら断れない。Mくんも恩師も失望させたくなかった。結果、彼の就職はなんとか決まった。
「ほんまにありがとうございました。先生には散々お世話になりながら、この子はえらい迷惑かけてからに。それをまた助けて貰うてなんと感謝していいか…」
 ペコペコするお母さんに恐縮した。
 公演の日。楽屋になんとM君が顔を見せた。
「なんか手伝える事あったら……?」」
 社会人になってもたどたどしい物言い。
「それぐらいしか、俺…出来へん…」
「ええねん。顔見せてくれただけで充分や」
 久しぶりに気分がよかった。こうでなくっちゃ、お互いさまや。手を差し伸べあえる人間関係が続いていけば、最高。
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これが現実

2015年10月05日 21時50分11秒 | Weblog
「今年は松茸山の入札を中止とさせて頂きます。近年、山の荒廃はご承知の通りです。松はマツクイムシで全滅の惨状です。とても松茸の生育は望めません。長年の恒例を中止するのはいたしかたがありません。ぜひご理解を賜りますようお願いいたします。役員一同」
 回覧に目を通してショックを受けたのは初めて。松茸の不作は数年前から噂に聞いていたが、その現実を突き付けられた格好である。
 昔からこの近辺は良質の松茸が獲れた。秋になると買取業者が村に何人も姿を見せた。かなりの収入になった。稲の刈取りの合間に家族こぞって山に入った。それぞれがカゴいっぱいの収穫を手にして帰った。
 あの回覧を見て以来、山のことが気になった。娘を連れて山に入った。
 ショックだった。想定外の荒れ方だった。昔松茸の宝庫だった持ち山はもう昔の面影は微塵もなかった。倒木があちらこちらと多すぎる。山は崩れ、枯れて倒れ朽ちかけた松が山肌を覆っていた。
「なんか怖い感じだね」
 娘は正直だ。荒れた山は怖さを増幅している。記憶に刻まれた山は、もうそこにはなかった。
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