老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

76;心の色鉛筆(2) 「溶連菌」

2017-05-06 22:00:33 | 老いびとの聲
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妻が溶連菌でダウン
体温計が壊れるのではないかと思うほど 41.4℃ の高熱に吃驚
扁桃腺持ちなので扁桃腺による高熱かと推測するも
耳鼻科クリニックの診断結果 溶連菌と告げられた
完治まで10日は要するとのこと

夫が高熱で倒れても食事は問題ないが
妻が病床に臥すと 食事作りを始め家事がピンチ 
先月は尿路感染症で妻にはお世話を受けたので 
鶴ならぬ「夫の恩返し」をせねば
どの家族でも妻や母親が太陽の存在 
雲の隙間から早く陽が射すことを待ち望む
今日の心の色鉛筆は赤を選びたい  



75;ばあちゃんちの匂いがする~

2017-05-06 17:24:14 | 春夏秋冬
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あるブログの家族風景から
同じ屋根の下に暮らしていなくても
じいちゃん ばあちゃん と 
お孫さんたちとのなかで強くそして深い絆を感じました
「あー、ばあちゃんちの匂いがする~、なつかしい~♪」
と お孫さんが叫んだこの言葉は
とてもとても素敵な言葉ですね
子どもは時には偉大な詩人家に変身する

筆者も北海道ニセコ生まれなので
ジンギスカンが懐かしく
ドラえもんのどこでもドアがあれば
食べにお伺いしたいで~す

74;老母の介護に疲れた その後

2017-05-06 04:43:57 | 老いの光影
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平成29年4月27日のブログ 「老母の介護に疲れた」その後
老母松さん(89歳)の夜間徘徊と3~5分間隔の「トイレに行きたい」
という行動は いまも延々と続いているのか
それとも消失したのか
気になるところです。

松さんはⅡ型糖尿病の持病があり
別の内科クリニックを受診中にあった。
インスリン、服薬による薬物療法と
長女真恵さん(62歳)の献身的な食事療法により
血糖値は安定していた。
安定していないのは 不穏な行動「徘徊」と「トイレ頻回の訴え」

私は 長女の同意をとり
隣市にある認知症専門医 鎌田和志医師に電話を入れ
初診の予約をとった(初診日は4月27日 15時30分)

精神科医、心療内科医 どちらでもかまわないのですが
認知症高齢者にかかわらず、精神障害者も含めて
患者やその家族の悩み、不安などを
よく聴いてくれる医師かどうかが大切
大変な介護者だけの話を聴いて
老親に強い眠剤を処方され
徘徊やトイレ頻回の行動は収束されたけれど
朝まで眠剤の作用が残り
ぼぉ~とした表情になり
生気が失せてしまい、うつらうつらしてしまう。

真恵さんは、今日の先生はよく話を聴いてくれた
老母のことも気にかけてくれていたし
安心して昨日は眠ることができた、と
翌日電話をかけたときに 話してくれた。

認知症の進行を遅らせる薬と
就寝前に気持ちを安定させる薬が処方された。

薬を服用してもすぐに効果は出るものではなく
長女の介護苦労は依然続いていた

私は 桜デイサービスセンターのスタッフに
「松さんの利用を受け入れをお願いした」
さらに ショートステイ静狩苑の併用利用
ショートは長女の気分転換、息抜きを兼ねた利用

桜デイサービスの利用は、憲法記念日5月3日から始まった。
明子センター長が初日の担当となり
彼女と1対1の関係で付きあった
トイレに行きたい、と訴え椅子から立ち上がった行動は100回を超えた
実際にトイレに行ったのは20数回
20分に1回はトイレまで着いて行き、見守りを行った。






73;紅葉と老人

2017-05-06 01:09:12 | 文学からみた介護
桜デイサービスセンターの庭に咲いた花
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新緑の季節なのに
今日のブログは紅葉の話も登場します

『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア作 あらい なな訳)は、
子どもから大人まで読める絵本で、
紅葉の季節になるとこの絵本が頭に浮かんできます。
葉っぱのフレディにダニエルは話す。
「生まれたときは同じ色でも、
いる場所がちがえば太陽に向かう角度がちがう。
風の通り具合もちがう。
月の光、星明かり、
一日の気温、
なにひとつ同じ条件はないんだ。
だから黄色や赤になど、
みんなちがう色に変わってしまうのさ」。

紅葉はみんな色がちがう。
老人の顔も歩き方もちがうように、
樹の葉っぱも老人も同じだ。
人それぞれ、
葉っぱもそれぞれであり、
個性がある。
『葉っぱのフレディ』の副題に
「いのちの旅」がつけられています。
いのちは循環します。
“わたしたちはどこから来て、どこへ行くのだろう。
生きるとはどういうことだろう。
死とは何だろう。
人は生きているかぎりこうした問いを問いつづけます”
(童話屋 編集長 田中和雄)。


在宅や介護施設で生活されている老人のなかに、
生きる望みを捨てて死を待つ老人もいます。
一方では、病み老いても限りあるいのちを自覚しながら
生きている老人もいます。
背後から死が忍び寄り 
いつ死が訪れるのか 
その不安を抱きながら生きている老人もいます。
老人の死をを見送る家人の不安や葛藤もあります。

紅葉は最期に枯葉となって
「孤独の寂しさのなかへ落ちていく・・・
けれどもただひとり
この落下を限りなくやさしく
両手で受け止めて下さる方がいる」(リルケ『形象集』より“Herbst”山形孝夫訳)。

人は、老い、病み、
そして誰もがまだ経験しない死後の世界に不安と恐れを持つ。
死への不安を「やさしく両手で受け止める」役を背負うのは、
在宅介護者であったり、
介護従事者であったり
微力ながら私であったりします。