老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

82;心の色鉛筆(4) 「自由気儘がいい」

2017-05-08 21:56:24 | 老いびとの聲
自宅の庭で見つけた 小さな黄色いたんぽぽと綿毛たんぽぽ

ご訪問頂きありがとうございます

90歳過ぎの爺さん
つい最近までは糖尿病から来た痛風なのか
痛風のため両足首から指先にかけ痛みが走っていた
痛いときは デイサービスに行くと話していたが
痛みがやわらぐと「家の炬燵で自由気儘に寝ているのがいい」
結局1回きりのデイサービス利用で「卒業」してしまった
脚の衰えと物忘れの進行が心配
豆に訪問するしかない
同じく90歳を超えた婆さん(妻)のほうが逞しい
腰は曲がりながらも
外に出て畑や庭の草取り(仕事)をしている
「爺さんはダメだ! 根性なしだ!」
「体を動かさないとダメだ」と大きな声で話す
婆さんの言葉に 余の心は救われた
今日の心の色鉛筆は 桃色かな
頑張る婆さんにピンクのリボンを髪につけてあげたい

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81;生きていることを感ずる

2017-05-08 15:24:06 | 老いびとの聲
今回も妄想の話
ご訪問いただき、ありがとうございます

一人息子beagle元気と散歩しているとき
ふと思うことがある
いま自分はこうして生きている
でもいつかは「死ぬ」(この世からいなくなる)
いまは こうして
目に映る風景を見たり
世の中の音や鳥の囀りも聞こえる
風の匂いもする
いま自分は こうして自然を感じているのは
脳細胞の働きによるもの

路端に育つ花木草
雲の流れや夕焼け朝焼けの空までが
気になり
自然の美しい情景に魅惑され
生きていることを感ずる

中学や高校のときの
教科書に掲載されていた
小説や詩を読んでも
感ずるものが希薄であった。
(勉強怠けていたな~)
人生の晩年に入り
改めて当時「習った」小説や詩を手にすると
感慨深いものがある
生きることや生命の大切さを
いまになって行間から感じ取れる

beagle元気と一緒の散歩を楽しむ
散歩は何物にも束縛されない
思索の時間
花木草とbeagle元気を慈しみ
いまここに生きる


 

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80;食べることの意味(1)

2017-05-08 01:27:36 | 老いの光影
ご訪問いただき、ありがとうございます 

いまも病床で闘っている和賀健治(2017/04/27 ブログ)さんから
口から食べることの意味を
突きつけられている。
90歳を超えた彼
口から食べれなくなり
鼻や胃に管を通されるようなことは拒否したい と話されていた。

脳幹梗塞に遭遇しながらも
健治さんは嚥下訓練や「口から食べる」訓練を選択した。
言葉は聞こえ理解することはできる
話すことはできず 目も見えていない
医師や言語療法士からは 
口から食べることは
ハイリスクがあり
その訓練は極めて難しいが
本人の希望に沿い 行うことになった。

同居している三女は悩む
厳しくハイリスクがあっても
父親が望むことを認めていくのか

私がいまの健治さんの立場だとしたとき
口から食べることが望めないのであれば
「自然死」を選択したい・・・・
自然界の生き物と同じように
昔は経管栄養による延命はなく
口から食べれなくなれば
そのまま老衰による自然死であった。


私は いま64歳(初公開)
いま口から食べることが機能的にも困難であると
医師から宣告され
鼻腔栄養、胃瘻による流動食摂取でないと
生命は維持できない。
口からもう食べることができない となったとき
これほど悲しく切なく 遣る瀬無い 
味うことのできない人生なんて考えられない。
それほど人間にとって 他の動物にとっても
口から食べることの持つ意味は大きい。
口から食べれなくなる
それは 味わい楽しむことができないし、
生に対する意欲さえも失っていく
と 書いてしまうと
実際に鼻腔や胃瘻で生きている人に対する侮辱である
と非難を浴びてしまう。

老人介護の実際の場面から
「口から食べる」ことの意味を
見つめ直していければと「思う」。





コメント (1)
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