美しく老いたいと思う!
老いへの道を手探り、訪ねるが、きっと見本は見つからないだろう!
人の人生がそれぞれ同じでないように、この道も一つとして同じものは
ないだろう!
(陽だまりの公園)
毎日欠かさぬ散歩があるが、飽きないように五通りほど
コースを作ってある。一番好きなコースは、荒川土手を行くコース。
二番目に好きなコースは、
真ん中に池があり、周りに湧き水が流れる崖が在り、滑り台やブランコで子供が遊べる遊戯具おかれている公園までの2キロを経由し、日曜寺という奇妙な名前の真言宗のお寺の前を抜け、旧中仙道の宿駅から、新撰組の近藤勇の墓のある駅までの3キロを経由して、石神井川を下って帰る4キロ、合計約9キロのコース。
月曜日以外は池で釣りが出来るこの公園では、子供たちが寒さもいとわず、水と泥に手を入れて泥団子を作っていたり、魚などいそうも無いせせらぎに玉網を入れて砂利や草を掬い上げたり、結構楽しそうに遊んでいる。
子供だけでなく、池の周りにはヘラ鮒目当ての本格的な釣り人が
竿を垂れ、遊び半分の爺ちゃんが、小さな竿を下ろして、小魚釣りに興じている。そこへ暇な爺ちゃんが集まってきて釣れ具合を一緒になって眺めている。
池の中央に小島があって、毎年のことであるがカルガモがここで卵を温める。もう大人になった、およそ50羽はいると思われるカルガモが、池の周りの散歩を楽しむ人を追いかけて、餌にありつけるのではないかと、池の中を急いで泳ぐ。
池のほとりには、縁台のようなベンチがしつらえてあり、陽だまりに将棋をさすお年寄り、そこにも岡目八目の高齢者が群がっている。
違うベンチには、一人では歩くこともままならない年寄りが、介添人二人を従え、日向ぼっこを楽しんでいる。
風が無く青空が見える日には、冬の陽だまりを、どうしてこんなに沢山年寄りが集まっているのだろうと、公園の辺りを見渡したら、公園の南側にシニア・ケア・センターがあることが判った。
昨年暮れに、一人で老人ホームにいる叔母を見舞った。四年ほど前の夜に、廊下で滑って転んで、大腿骨を骨折し、添え木をし、それをボルト・ナットで固定して、リハビリの末やっと歩けるようになったが、一人で生活するのはもはや危険と医師に宣言されて、やっと老人ホームに入った叔母は、今年96歳になる。
世間話のついでに、「僕も年寄りになったせいか、夜中によく目が覚める」と話したら、「それで年寄りのつもりでいるの?」と冷やかされた。確かに96歳の叔母から見れば、三十年ほど開きがあるから、ボクは鼻垂れ小僧なのであろうが、世間では十分年寄りと認めている。
最近こうした年寄りを見ると、いずれ我が身と思い、なにかが見本になるだろうと、注意して眺めるようになった。
寄る年並みになったのであろうか?
老いへの道を手探り、訪ねるが、きっと見本は見つからないだろう!
人の人生がそれぞれ同じでないように、この道も一つとして同じものは
ないだろう!
(陽だまりの公園)
毎日欠かさぬ散歩があるが、飽きないように五通りほど
コースを作ってある。一番好きなコースは、荒川土手を行くコース。
二番目に好きなコースは、
真ん中に池があり、周りに湧き水が流れる崖が在り、滑り台やブランコで子供が遊べる遊戯具おかれている公園までの2キロを経由し、日曜寺という奇妙な名前の真言宗のお寺の前を抜け、旧中仙道の宿駅から、新撰組の近藤勇の墓のある駅までの3キロを経由して、石神井川を下って帰る4キロ、合計約9キロのコース。
月曜日以外は池で釣りが出来るこの公園では、子供たちが寒さもいとわず、水と泥に手を入れて泥団子を作っていたり、魚などいそうも無いせせらぎに玉網を入れて砂利や草を掬い上げたり、結構楽しそうに遊んでいる。
子供だけでなく、池の周りにはヘラ鮒目当ての本格的な釣り人が
竿を垂れ、遊び半分の爺ちゃんが、小さな竿を下ろして、小魚釣りに興じている。そこへ暇な爺ちゃんが集まってきて釣れ具合を一緒になって眺めている。
池の中央に小島があって、毎年のことであるがカルガモがここで卵を温める。もう大人になった、およそ50羽はいると思われるカルガモが、池の周りの散歩を楽しむ人を追いかけて、餌にありつけるのではないかと、池の中を急いで泳ぐ。
池のほとりには、縁台のようなベンチがしつらえてあり、陽だまりに将棋をさすお年寄り、そこにも岡目八目の高齢者が群がっている。
違うベンチには、一人では歩くこともままならない年寄りが、介添人二人を従え、日向ぼっこを楽しんでいる。
風が無く青空が見える日には、冬の陽だまりを、どうしてこんなに沢山年寄りが集まっているのだろうと、公園の辺りを見渡したら、公園の南側にシニア・ケア・センターがあることが判った。
昨年暮れに、一人で老人ホームにいる叔母を見舞った。四年ほど前の夜に、廊下で滑って転んで、大腿骨を骨折し、添え木をし、それをボルト・ナットで固定して、リハビリの末やっと歩けるようになったが、一人で生活するのはもはや危険と医師に宣言されて、やっと老人ホームに入った叔母は、今年96歳になる。
世間話のついでに、「僕も年寄りになったせいか、夜中によく目が覚める」と話したら、「それで年寄りのつもりでいるの?」と冷やかされた。確かに96歳の叔母から見れば、三十年ほど開きがあるから、ボクは鼻垂れ小僧なのであろうが、世間では十分年寄りと認めている。
最近こうした年寄りを見ると、いずれ我が身と思い、なにかが見本になるだろうと、注意して眺めるようになった。
寄る年並みになったのであろうか?