楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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おえんまさま(都電で散歩 2)

2016年11月22日 05時55分47秒 | ひとり歩き旅
四谷怪談で有名なお岩さんのお寺の左隣に「善養寺」がある。

(天台宗善養寺)


(上野寛永寺の末寺で正式には、薬王山延寿院善養寺という。
本尊は薬師如来像である。

もともと上野公園内にあったものが、鉄道用地拡張にかかると言うことで、
現在地 豊島区西巣鴨に移転してきた。

本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、
広く信仰を集めていることから、「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、
新宿区新宿二丁目の太宗寺(たいそうじ)、杉並区松ノ木三丁目の華徳院とともに、
江戸の三大閻魔の一つとして、親しまれてきた。
境内には延宝八年(1680)の駒形庚申塔、
江戸時代中期に活躍した陶工・絵師 尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)、
フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の
指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓が残されている)(豊島区教育委員会)

(善養寺本堂)

(本堂の「薬王山」の扁額)

(伽藍の中で目を剝く三大閻魔王坐像)

(本堂前の駒形の庚申塔)

(鎌形の庚申塔というから、馬の形をした庚申塔かと思ったら、
何のことは無い将棋の駒の形であった)

本堂の左手から墓地に入ると、
六道へ地蔵様が出迎え、すぐ左に尾形乾山の墓はある。
また六地蔵の脇に、この寺が以前下谷にあったことを証明する、
「元下谷坂本善養寺道」の石柱があった。

(六道の地蔵さま)

(「元下谷坂本善養寺道」の石柱)


尾形乾山については、以前焼き物に凝っていた頃に知った。
ずいぶん沢山の贋作があることで有名だった。
有名な陶工であることを知っており、
尾形乾山の作風は、几帳面というか、正確と言うか、
例えば書で言うならば、崩れた文字の行書と言うよりは、
形が整った楷書の様な作風で、造られた焼き物も、
丸いものは丸く、四角なものは四角に、
正確にかたどられていたので、解りやすかった。
焼き物に描かれた絵も端正で美しかった。

それが贋作は、その正確さが無く、
少し崩れたという品物であるため直ぐ解った。
贋作が多いと言うことは、作品を欲しがる人が、
多かったと言う証拠にはなる。

(尾形乾山の墓)


尾形乾山については、
(尾形乾山は画法を兄尾形光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、
京都の鳴滝、次に二条丁子屋町で作陶に励み、
後に江戸下谷の入谷村に移り住み窯を開きました。
享保三年(1743)に亡くなり、
下谷坂本の善養寺に葬られました。
その後墓の存在は忘れられていたが、
江戸琳派の酒井抱一(日本画家)らによって発見され、
顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられました。 後略)
(東京都教育委員会)
 
(酒井抱一が建てた乾山深省蹟の石柱)


尾形光琳(後に琳派と呼ばれる画工)の絵は、
記念切手にもなった「カキツバタ図」「白梅図」が有名である。

また陶工 野々村仁清は色絵陶器で大変有名で、
その下絵は一冊の本になって、デザイン集として美大の学生に重宝され、
現在でもデザインのお手本になるほどである。

東京都教育委員会の説明の中にある日本画家の
酒井抱一の描いた、「夏秋草図屏風」は上野の国立博物館所蔵で、
ボクの大好きな絵でもある。
国立博物館の地下にあるミュージアムグッヅ売り場で、
この絵を風呂敷にしたものを購入し、
我が家に壁に飾っているほど大好きな絵である。

(酒井抱一の夏秋草図屏風webより)


尾形乾山の事はこれくらいにして、
乾山のお墓の左横に、
フランスでジュリオ・キュリー教授の指導を受けた
日本人の原子物理学者湯浅年子の墓がある。

(湯浅 年子(ゆあさ としこ)(1909 - 1980)は日本の物理学者で、
パリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、
CNRS(フランス国立中央化学 研究所)で研究した。
日本国外で活動した初の日本人女性物理学者 /後略)(WIKIPEDIAより)

(湯浅年子の墓)

(墓前の年子の歌碑)


この時代に女性で原子物理学を
フランスで学んだ科学者がいらっしゃったことに感動した。


コメント (10)
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