石橋宿の開雲寺を出て、街道を歩くとすぐ右手に古い石造物群がある。
文字も消え、彫像も欠けて、青面金剛らしきものが削られているようですが、
石の下方にかすかに三猿の彫刻があるところを見ると、庚申塔のようで、
日光街道が造成されたときに、近隣の石造物が寄せ集められた物のように見受けられる。
少し進むと、旧家の門が建っている。
名主か本陣か脇本陣の門に見間違いそうな、
大谷石に囲まれた塀に続く立派な門である。
かなりな旧家であろうと想像される。
(判別し難い寄せ集めの石造物)
(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門A)
(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門B)
街道は県道71号線と交差する(下古山)の信号を過ぎると、
「前田製菓宇都宮工場」の看板が草が生え放題の、広大な敷地の中に建っていた。
どうしてこんな看板がボクの話題になるかと言うと、
日本でTV受像機が普及し始めた昭和35年(1960)頃、
喜劇俳優 白木みのるさんと藤田まことさんが
テレビ画面の中で、大見得を切って、
「当たり前だのクラッカー」
と宣伝していた会社だからである。
その先に栃木県下野警察署があり、
約500m先に右手に(鞘堂地蔵尊)がある。
(鞘堂地蔵尊は、天授6年(1382年)小山・宇都宮合戦の折、
戦死したものの鞘を集めて埋めた。
そこにお堂を建て、地蔵安置した。)(関東地方整備局宇都宮事務所資料による)
(下古山の信号)
(前田製菓の看板が草の陰に)
(下野警察署)
(鞘堂地蔵堂の看板)
(鞘堂地蔵堂A)
(鞘堂地蔵堂B)
(鞘堂地蔵堂の中)
(鞘堂地蔵堂脇の六地蔵)
さらに200m先の左手に「星宮神社」がある。
(星宮神社は鞘堂新田村の鎮守として信仰を集めている。
神社参道右手には石の祠が、本殿裏手にも祠が点在して、
創建の古さを感じられるが、時代は定かではない。)(資料による)
このような物々しい説明から、相当立派な神社と想像していたが、
実際見た感じでは、想像を裏切られた。
鳥居のわびしい佇まい、境内裏の鬱蒼とした林。
境内の石の祠などがその侘しさを引き立てる。
(星宮神社の鳥居)
(社殿)
(神社参道の石の祠)
(星宮神社裏側の祠)
(鬱蒼とした星宮神社)
街道歩きもだんだん侘しくなってくる。
路傍のコスモスに囲まれた石柱「日光街道」が歩く人をいささか元気づけてくれる。
(コスモスに囲まれた日光街道の石柱)
やがて日光街道も東京から96km地点に差し掛かる。
前方の立体交差は北関東自動車道である。
立体交差を過ぎて約1km歩くと右手に
「茂原正観音道」の石柱がある。
これはこの道をおよそ2km先にある「茂原観音堂」の入り口である。
この木造聖観世音菩薩立像は秘仏で拝観はできない。
この石柱の数歩先に木造聖観世音菩薩立像の案内看板がある。
(茂原正観音道の石柱)
(木造聖観世音菩薩立像の案内看板)
(茂原観音堂に安置されている木造聖観世音菩薩立像は、
安産・子育ての信仰が厚く、茂原観音とも呼ばれて親しまれている。
60年に一度開帳(公開)される秘仏であり、金箔がよく残っている。
縁起では、
「1174(承安4)年、
この地に住んでいた宇都宮氏の家臣 裳原遠江守家次(もばらとうとみのかみいえつぐ)が、
枕辺に立った聖観音の像を彫刻して安置した」と伝えられているが、
室町時代に造られた仏像である。
昭和33・9・8市指定 文化財)(宇都宮教育委員会)
(木造聖観世音菩薩立像(ネットより)
茂原と言うと、ボクのカミさんの出身地で、
千葉県茂原市がすぐ頭に浮かぶ。
しかもその千葉県の茂原にも有名な笠森観音があるので、
茂原観音入り口と言うと、ここから千葉県の先までの道のりを、
ボクは考えてしまうが、ここで言う「茂原」は本来、
製作者名「裳原(もばら)遠江守家次」の「裳原」が転じて
「茂原」になったに違いない、と思い、納得できた。
しばらくすると、左手に陸上自衛隊 宇都宮駐屯地入り口が見えてくる。
(自衛隊 宇都宮駐屯地の入り口)
この辺りから雀宮(すずめのみや)宿であろう。
日本昔話の「舌切り雀」の話が出てきそうな宿場の名前である。
文字も消え、彫像も欠けて、青面金剛らしきものが削られているようですが、
石の下方にかすかに三猿の彫刻があるところを見ると、庚申塔のようで、
日光街道が造成されたときに、近隣の石造物が寄せ集められた物のように見受けられる。
少し進むと、旧家の門が建っている。
名主か本陣か脇本陣の門に見間違いそうな、
大谷石に囲まれた塀に続く立派な門である。
かなりな旧家であろうと想像される。
(判別し難い寄せ集めの石造物)
(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門A)
(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門B)
街道は県道71号線と交差する(下古山)の信号を過ぎると、
「前田製菓宇都宮工場」の看板が草が生え放題の、広大な敷地の中に建っていた。
どうしてこんな看板がボクの話題になるかと言うと、
日本でTV受像機が普及し始めた昭和35年(1960)頃、
喜劇俳優 白木みのるさんと藤田まことさんが
テレビ画面の中で、大見得を切って、
「当たり前だのクラッカー」
と宣伝していた会社だからである。
その先に栃木県下野警察署があり、
約500m先に右手に(鞘堂地蔵尊)がある。
(鞘堂地蔵尊は、天授6年(1382年)小山・宇都宮合戦の折、
戦死したものの鞘を集めて埋めた。
そこにお堂を建て、地蔵安置した。)(関東地方整備局宇都宮事務所資料による)
(下古山の信号)
(前田製菓の看板が草の陰に)
(下野警察署)
(鞘堂地蔵堂の看板)
(鞘堂地蔵堂A)
(鞘堂地蔵堂B)
(鞘堂地蔵堂の中)
(鞘堂地蔵堂脇の六地蔵)
さらに200m先の左手に「星宮神社」がある。
(星宮神社は鞘堂新田村の鎮守として信仰を集めている。
神社参道右手には石の祠が、本殿裏手にも祠が点在して、
創建の古さを感じられるが、時代は定かではない。)(資料による)
このような物々しい説明から、相当立派な神社と想像していたが、
実際見た感じでは、想像を裏切られた。
鳥居のわびしい佇まい、境内裏の鬱蒼とした林。
境内の石の祠などがその侘しさを引き立てる。
(星宮神社の鳥居)
(社殿)
(神社参道の石の祠)
(星宮神社裏側の祠)
(鬱蒼とした星宮神社)
街道歩きもだんだん侘しくなってくる。
路傍のコスモスに囲まれた石柱「日光街道」が歩く人をいささか元気づけてくれる。
(コスモスに囲まれた日光街道の石柱)
やがて日光街道も東京から96km地点に差し掛かる。
前方の立体交差は北関東自動車道である。
立体交差を過ぎて約1km歩くと右手に
「茂原正観音道」の石柱がある。
これはこの道をおよそ2km先にある「茂原観音堂」の入り口である。
この木造聖観世音菩薩立像は秘仏で拝観はできない。
この石柱の数歩先に木造聖観世音菩薩立像の案内看板がある。
(茂原正観音道の石柱)
(木造聖観世音菩薩立像の案内看板)
(茂原観音堂に安置されている木造聖観世音菩薩立像は、
安産・子育ての信仰が厚く、茂原観音とも呼ばれて親しまれている。
60年に一度開帳(公開)される秘仏であり、金箔がよく残っている。
縁起では、
「1174(承安4)年、
この地に住んでいた宇都宮氏の家臣 裳原遠江守家次(もばらとうとみのかみいえつぐ)が、
枕辺に立った聖観音の像を彫刻して安置した」と伝えられているが、
室町時代に造られた仏像である。
昭和33・9・8市指定 文化財)(宇都宮教育委員会)
(木造聖観世音菩薩立像(ネットより)
茂原と言うと、ボクのカミさんの出身地で、
千葉県茂原市がすぐ頭に浮かぶ。
しかもその千葉県の茂原にも有名な笠森観音があるので、
茂原観音入り口と言うと、ここから千葉県の先までの道のりを、
ボクは考えてしまうが、ここで言う「茂原」は本来、
製作者名「裳原(もばら)遠江守家次」の「裳原」が転じて
「茂原」になったに違いない、と思い、納得できた。
しばらくすると、左手に陸上自衛隊 宇都宮駐屯地入り口が見えてくる。
(自衛隊 宇都宮駐屯地の入り口)
この辺りから雀宮(すずめのみや)宿であろう。
日本昔話の「舌切り雀」の話が出てきそうな宿場の名前である。