(乙姫像と日本橋魚市場発祥の地の碑)
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(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)
(昔の魚市場の写真)
日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。
高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)
(いろはカルタ2)
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以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。
品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。
そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。
だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。
だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)
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(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)
(昔の魚市場の写真)
日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。
高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)
(いろはカルタ2)
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以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。
品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。
そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。
だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。
だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)
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白内障も検査で分かるのと自分の見えづらい部分が一番ではないでしょうか?
こればかりは自分でしか分からないから。
確かにオペしても上手い具合に遭わないともいるようです。
糖尿病があるんですか?
今糖尿病から透析に来る患者さんが多いですが、
気をつけて下さいね。
時間の束縛がこんなにと想う事が有りますよ。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
皆近くから~親が決めるのが多かったでしょうね。家族は殆ど近くに。
何しろ歩きですから~遠くに出かけるときは、お宮参りや湯治くらい
宿場町お泊りも商人や侍、
江戸の賑わい~戦いなきよい時代、人心も浮かれることができるように。
五街道の整備~娯楽始まりの時代と言えるのかな…。
書物には魚市場が在ったとは読んだことも有りますが
日本橋のたもとだったんですね。
大阪市内にも「日本橋」が道頓堀川に架かってますが
こちらは「にっぽんばし」と読みますね。
充分気をつけます。
なら良いのですが、260年続いた徳川政権の終焉が、
街道と共に、全国に広がって行き、
明治維新を迎えます。
ただ「にっぽん」としたのはノーベル平和賞を戴いた、
佐藤栄作首相だそうです。
オリンピックでは「NIPPON」になっていますね。
バレーでも「ニッポン、チャチャチャ」ですね。
だから東京大阪の関係無く、「にっぽんばし」とも云うそうです。
首都高の高架下。
たしかに、高度成長期とはいえ、もう少し配慮が必要だったのでは?
作り直したほうが安上がりか、
景観も考えているらしいですよ。
品川の講演会に行ったついでに、東海道五十三次の最初の宿場「品川宿」を散策しました。
品川駅の港南口に会場があったため、八ツ山橋は通らずにいきなり北品川に着きました。
何の予備知識もなく歩きましたから、果たしてうまくとらえているかどうか、ご意見を伺いたいです。
なお、きょう26日と明日は「宿場まつり」だそうですょ。