姉が亡くなった。
終戦時、18才であった。
当時 同じ年ごろの男性は、ほとんど太平洋戦争に駆り出され、
戦死して居なくなったので、
恋する相手も居なかった彼女は、
仕事に打ちこみ、趣味を広げた。
洋裁を習い教師になれる、
あるいはプロの洋裁師になれるほどであった。
その事をどこで聞いたのか、
若いお嬢さんが生地を片手に、もう一方にはスタイルブックを持って、
訪ねてきて、こう言った。
「このスタイルブックに載って居るモデルさんと同じ洋服を作って欲しい、」
姉は嫌がる様子もなく、
「普段は仕事に出ているので、
出来上がりに時間がかかりますよ」
そう言ってお嬢さんの体の寸法を取って居た。
どのくらい経ったか知らないが、多分一月以上経って、
また、そのお嬢さんが訪ねて来て、
仮縫いをして、準備の出来た洋服を着せて見せて、
胸の当たり、ウエストの当たり、スカートの膝タケの様子、
注文した人の希望を聞きながら、
仮縫いの洋服を延ばしたり縮めたりしていた。
もちろん、鏡台の前で・・・
その一か月ほど後に、洋服は出来上がり、渡した。
「お代は?」とお嬢さん。
「私はプロではありませんから、貴女の気持ちだけで結構です」と姉。
困ったお嬢さんは取りあえず帰って行く。
その後、かなり経ってから、
日曜日にそのお嬢さんが二人連れで訪ねて来て、
洋服の仕立て代として、本人の気持ちですと、
封筒を渡した。
もう一人はやはりスタイルブックと洋服生地を持って居て、
「これをお願いしたいのですが・・・」
姉はまた背丈から、胸囲やウエストなどの寸法を取った。
後で聞いた話であるが、封筒の中身は(3千円)で有ったという。
ボクの学生時代のお掃除アルバイト一日500円から考えれば、
暇を見ての作成代金としては、満足で有ったろう。
ボクの母の話では、
銀行員の姉の初任給が父親と同じ位だったと言うから、
かなりな給料であったと思う。
あるいは公務員の父親の給料が安かったのか・・・
姉はその後洋裁店でプロになった。
さらに趣味でスキーを覚えて、
冬季国民体育大会で女子スキー大回転、
滑降の部で一位となり、
昭和26、27年の体育年鑑に載って居た。
ある時、アマチュアのスキーヤーがゲレンデに入って来ており、
それを避けるために、自らはゲレンデの外に放り出され、
立ち木に衝突して止まった。
その折、スキー板が雑木に絡まり、右足を膝から下の部分を複雑骨折、
七個に折れた足、治すために入院していた時に、
お見舞いに来た男性と結ばれ結婚した。
一男一女を設け幸せに暮らしていたが、
70歳の折、夫に先立たれた。
その時、「私が死んだらお骨は野沢のスキー場に、
散骨して欲しい」と語って居た。
他にも、琴を習い師範に、お茶や生け花でも師匠の資格を、
さらに、社交ダンスを習い、これもプロ級で、
これは生涯続いたようで、
ダンスの先生に頼まれて、デモンストレーションを、
先生と共にして何十年、
90歳になってダンスはお断りしたと言う。
(元気なころの姉、ダンスの写真)
本人は写真を見て、
「ゲッー!? ひどい化粧の女!?
付けまつ毛までつけて・・・ 」と言っていたが・・・
「所で、ダンス用この衣装はどうしたの?」と聞いたら、
サイズは小さく無ければ、古着で安く買って、
昔取った杵柄でさっさとリフレッシュしたと言う。
何着も買っては売ってを繰り返したらしい。
その姉が96才で亡くなった。
クリスチャン・ネームはマリア・テレジアと言ったが、
息子も孫娘もその名前を知らなかった。
天の父よ、どうぞ極楽へ、
いやこの場合は、
天国へお導きくださいますように・・・
エイ メ―ン!
花は咲く
花は咲くHanahasaku/歌いだし♪まっしろ ゆきみちに/見やすい歌詞付き【合唱曲Chorus】
器用でスポーツウーマンだったのですね。
人生を全うされたのではないでしょうか?
知りもしない私が言うもの失礼な話かもしれませんが。
終戦時に18才ということは、大変な戦争と、そしてこれも大変な食糧難の混乱の青春時代だったんですね。
琴の師範、お茶・生け花の師匠、国体スキー大回転で1位、ダンス、洋服の仕立て等々、ホントに多才な方だったんですね。
戦後、5~8年はまだアメリカでさえ、
男尊女卑の時代ですから、まして日本は・・・知るべしで、
ましてスポーツを女性が行う人も少なかったですね。
有る意味そうでしょうね。
しかし先だってボクが居住する自治体の講習会で、
「人生120年時代」と聞いて驚きましたが、
これから考えれば、まだ早かったと言えますね。
中学、高校と一番で卒業して、奢らず結婚してから、
大学を卒業して、亭主を驚かせたようです。
その後70才になって、英語の勉強を始め、
亭主が亡くなった時にはアメリカ人のお友達が弔問に来ていて、ボクを弟だと紹介されたときは面食らいました。