不動堂前を左折して、旧街道らしい道を進むと、
前方に東武線のガードが見えてくる。
ガード先の右側に宇都宮市の指定史跡「蒲生君平勅旌碑」が建っている。
(蒲生君平勅旌碑)
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碑には「有形文化財蒲生君平勅旌碑」と書かれている。
この石柱だけでは解り難いので、宇都宮市の説明を以下に、
(明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の表した書物や行いが、
明治維新に大きな功績があったとして、
「君平の人となりは誠に立派であるから、これを広く天下に表して庶民に知らせるように」
との勅命を下しました。
そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、
宇都宮の入り口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれ、
明和5年(1768)宇都宮新石町で生まれ、
祖先は元宇都宮城主 蒲生英行(18万石)の弟 正行(3千石)で、
本姓は福田でしたが、途中で遠祖の蒲生姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、
それらを調査して「山稜志」を著し修復の必要性を説きました。ー後略)(宇都宮市)とある。
「蒲生君平勅旌碑」の「勅旌/ちょくせい」の意味が解らなかったが、
ここまでの説明でやっと解った。
つまり明治天皇に言われて建てた碑であると言うことのようだ。
天皇の事となると、途端に難しい言葉が入ってきてしまう、余計に解り難くなる。
だから有難味が増えるのかもしれないが、
教育勅語とか、8月15日の敗戦勅語の様に、
天皇のお言葉だと勅語になるようなものである。
後ろの屋根の下には、
『勅旌忠節 蒲生君平里』と刻まれた碑があり、
右側面に宇都宮藩知事 戸田志友、
左側に明治二年己巳冬十二月藩文学教授戸田誠謹書と読める。
(「君平の里」碑の屋根)
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(中にある蒲生君平の里碑)
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その先左手に「西原山 台陽寺」の案内看板がある。
入るとすぐ右側に「子安地蔵」がある。
(西原山 台陽寺の案内)
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(子安地蔵尊)
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(地蔵様)
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(この付近には台陽寺ほか慈眼寺、地蔵寺、長福寺等の寺々が多くあり、
宇都宮藩南の入り口を固める防御線の役割を果たしていた。
子安地蔵は一時町内の家屋内に安置されていたが、
その後台陽寺境内に移された)と言う。(資料より)
(西原山 台陽寺山門)
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(台陽寺本堂と六地蔵)
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(観音様と子地蔵たち)
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(無邪気な笑顔の子地蔵様)
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さて、台陽寺を出て旧街道を歩くと、
「一向寺旧地蔵寺参道」の石碑が建っている。
この石碑の後ろに道路(参道?)があり、
道路の向こうに墓地が見える。
旧地蔵寺参道と言うのだから、
昔は地蔵寺だったが今は一向寺なんだと思って、
お寺の建物を探したが地蔵寺はもちろんのこと、
一向寺も探したが見当たらず、
お墓ばかりであった。
(一向寺旧地蔵寺参道の石碑)
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なお、街道を進むと木の鳥居がある。
鳥居には不動尊と書いてあり、奥を見ると不動尊らしい建物がある。
近づくと「熱木不動尊/ねぎふどうそん」である。
(熱木不動尊の鳥居)
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(熱木不動堂)
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資料によると
(康平2年(1059)宇都宮宗円が多気山頂上に陣を張ったとき、
戦勝を祈願して彫った三体の不動の一つだという。)とある。
その先に先程の一向寺がある。
墓域と本堂の場所はかなり離れており、
先程の石柱は、元地蔵寺のお墓であるが、
今は一向寺のお墓だと解釈できる。
一向寺が地蔵寺を吸収したのかしら?
それにしても寺域はかなり広かったに違いない。
(一向寺参道と山門)
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前方に東武線のガードが見えてくる。
ガード先の右側に宇都宮市の指定史跡「蒲生君平勅旌碑」が建っている。
(蒲生君平勅旌碑)
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碑には「有形文化財蒲生君平勅旌碑」と書かれている。
この石柱だけでは解り難いので、宇都宮市の説明を以下に、
(明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の表した書物や行いが、
明治維新に大きな功績があったとして、
「君平の人となりは誠に立派であるから、これを広く天下に表して庶民に知らせるように」
との勅命を下しました。
そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、
宇都宮の入り口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれ、
明和5年(1768)宇都宮新石町で生まれ、
祖先は元宇都宮城主 蒲生英行(18万石)の弟 正行(3千石)で、
本姓は福田でしたが、途中で遠祖の蒲生姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、
それらを調査して「山稜志」を著し修復の必要性を説きました。ー後略)(宇都宮市)とある。
「蒲生君平勅旌碑」の「勅旌/ちょくせい」の意味が解らなかったが、
ここまでの説明でやっと解った。
つまり明治天皇に言われて建てた碑であると言うことのようだ。
天皇の事となると、途端に難しい言葉が入ってきてしまう、余計に解り難くなる。
だから有難味が増えるのかもしれないが、
教育勅語とか、8月15日の敗戦勅語の様に、
天皇のお言葉だと勅語になるようなものである。
後ろの屋根の下には、
『勅旌忠節 蒲生君平里』と刻まれた碑があり、
右側面に宇都宮藩知事 戸田志友、
左側に明治二年己巳冬十二月藩文学教授戸田誠謹書と読める。
(「君平の里」碑の屋根)
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(中にある蒲生君平の里碑)
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その先左手に「西原山 台陽寺」の案内看板がある。
入るとすぐ右側に「子安地蔵」がある。
(西原山 台陽寺の案内)
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(子安地蔵尊)
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(地蔵様)
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(この付近には台陽寺ほか慈眼寺、地蔵寺、長福寺等の寺々が多くあり、
宇都宮藩南の入り口を固める防御線の役割を果たしていた。
子安地蔵は一時町内の家屋内に安置されていたが、
その後台陽寺境内に移された)と言う。(資料より)
(西原山 台陽寺山門)
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(台陽寺本堂と六地蔵)
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(観音様と子地蔵たち)
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(無邪気な笑顔の子地蔵様)
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さて、台陽寺を出て旧街道を歩くと、
「一向寺旧地蔵寺参道」の石碑が建っている。
この石碑の後ろに道路(参道?)があり、
道路の向こうに墓地が見える。
旧地蔵寺参道と言うのだから、
昔は地蔵寺だったが今は一向寺なんだと思って、
お寺の建物を探したが地蔵寺はもちろんのこと、
一向寺も探したが見当たらず、
お墓ばかりであった。
(一向寺旧地蔵寺参道の石碑)
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なお、街道を進むと木の鳥居がある。
鳥居には不動尊と書いてあり、奥を見ると不動尊らしい建物がある。
近づくと「熱木不動尊/ねぎふどうそん」である。
(熱木不動尊の鳥居)
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(熱木不動堂)
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資料によると
(康平2年(1059)宇都宮宗円が多気山頂上に陣を張ったとき、
戦勝を祈願して彫った三体の不動の一つだという。)とある。
その先に先程の一向寺がある。
墓域と本堂の場所はかなり離れており、
先程の石柱は、元地蔵寺のお墓であるが、
今は一向寺のお墓だと解釈できる。
一向寺が地蔵寺を吸収したのかしら?
それにしても寺域はかなり広かったに違いない。
(一向寺参道と山門)
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