楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

蒲生君平(がもうくんぺい)(旧日光街道を歩く 60)

2016年11月12日 06時01分01秒 | ひとり歩き旅
不動堂前を左折して、旧街道らしい道を進むと、
前方に東武線のガードが見えてくる。

ガード先の右側に宇都宮市の指定史跡「蒲生君平勅旌碑」が建っている。

(蒲生君平勅旌碑)


碑には「有形文化財蒲生君平勅旌碑」と書かれている。
この石柱だけでは解り難いので、宇都宮市の説明を以下に、

(明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の表した書物や行いが、
明治維新に大きな功績があったとして、
「君平の人となりは誠に立派であるから、これを広く天下に表して庶民に知らせるように」
との勅命を下しました。
そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、
宇都宮の入り口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。

蒲生君平は高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれ、
明和5年(1768)宇都宮新石町で生まれ、
祖先は元宇都宮城主 蒲生英行(18万石)の弟 正行(3千石)で、
本姓は福田でしたが、途中で遠祖の蒲生姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、
それらを調査して「山稜志」を著し修復の必要性を説きました。ー後略)(宇都宮市)とある。

「蒲生君平勅旌碑」の「勅旌/ちょくせい」の意味が解らなかったが、
ここまでの説明でやっと解った。
つまり明治天皇に言われて建てた碑であると言うことのようだ。
天皇の事となると、途端に難しい言葉が入ってきてしまう、余計に解り難くなる。
だから有難味が増えるのかもしれないが、
教育勅語とか、8月15日の敗戦勅語の様に、
天皇のお言葉だと勅語になるようなものである。

後ろの屋根の下には、
『勅旌忠節 蒲生君平里』と刻まれた碑があり、
右側面に宇都宮藩知事 戸田志友、
左側に明治二年己巳冬十二月藩文学教授戸田誠謹書と読める。  

(「君平の里」碑の屋根)

(中にある蒲生君平の里碑)


その先左手に「西原山 台陽寺」の案内看板がある。
入るとすぐ右側に「子安地蔵」がある。

(西原山 台陽寺の案内)

(子安地蔵尊)

(地蔵様)


(この付近には台陽寺ほか慈眼寺、地蔵寺、長福寺等の寺々が多くあり、
宇都宮藩南の入り口を固める防御線の役割を果たしていた。
子安地蔵は一時町内の家屋内に安置されていたが、
その後台陽寺境内に移された)と言う。(資料より)

(西原山 台陽寺山門)

(台陽寺本堂と六地蔵)

(観音様と子地蔵たち)

(無邪気な笑顔の子地蔵様)


さて、台陽寺を出て旧街道を歩くと、
「一向寺旧地蔵寺参道」の石碑が建っている。
この石碑の後ろに道路(参道?)があり、
道路の向こうに墓地が見える。

旧地蔵寺参道と言うのだから、
昔は地蔵寺だったが今は一向寺なんだと思って、
お寺の建物を探したが地蔵寺はもちろんのこと、
一向寺も探したが見当たらず、
お墓ばかりであった。

(一向寺旧地蔵寺参道の石碑)


なお、街道を進むと木の鳥居がある。
鳥居には不動尊と書いてあり、奥を見ると不動尊らしい建物がある。
近づくと「熱木不動尊/ねぎふどうそん」である。

(熱木不動尊の鳥居)

(熱木不動堂)


資料によると
(康平2年(1059)宇都宮宗円が多気山頂上に陣を張ったとき、
戦勝を祈願して彫った三体の不動の一つだという。)とある。

その先に先程の一向寺がある。
墓域と本堂の場所はかなり離れており、
先程の石柱は、元地蔵寺のお墓であるが、
今は一向寺のお墓だと解釈できる。
一向寺が地蔵寺を吸収したのかしら?
それにしても寺域はかなり広かったに違いない。

(一向寺参道と山門)






寿鶴(すず)薬師堂ー菅原神社(旧日光街道を歩く 59)

2016年11月09日 05時41分39秒 | ひとり歩き旅
(道路わきのコスモスがきれい)


雀宮神社を過ぎて、およそ2.5kmまでお知らせするようなものは何もない、
道路わきのコスモスがきれいであった。
関東バスのバス停(寿鶴薬師堂)がある。
見回しても薬師堂らしき建物は見当たらない。

道路反体側の宇都宮方面行のバス停が見え、
その隣に大きな板の看板らしきものにローマ字で、
(SUZUYAKUSIDOU)と書かれているのが目に付いた。
近づくと道路より奥まった所に薬師堂はあった。

(寿鶴薬師堂のバス停)

(SUZUYAKUSIDOUの文字と薬師堂)


どんな病いに霊験新たかなのかも説明板もなく解らない。

その先右手に菅原神社がある。
これは説明するまでもなく、手習いの神様、学問の神様である。

そして有名なのは、

・東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 
            主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
の歌であろう。

また、
(菅原道真は貞観9年~十二年(867~870)に、
下野国(栃木県)の国司権少将(裁判官)務めていたこともあった。(栃木県)

(菅原神社鳥居)

(菅原神社石柱)

(菅原神社社殿)


菅原神社から約2kmに(江曽島の一里塚)があったとされるが。
今は跡形もなく、ただ地名に「一里」の信号が残っている程度で、
隣を走るJR宇都宮線と国道4号線が最接近する場所でもある。

(「一里」の信号)


ここから1km先の(西原)の信号で、国道4号線は右へと分かれて行き、
旧日光街道は直進する。
その先の(不動前)の信号では直進しないで、旧日光街道は左方へ折れて行く。
その不動前の信号の横断歩道を渡り切った所に不動堂がある。

(国道4号線と別れる)

(国道4号線と分かれる「西原の信号」)

(「不動前」信号)

(「不動前」信号歩道正面の不動堂)


この不動堂には、高さ50cmの不動明王が収められて、
この付近の地名の由来となった、と言う。

不動堂の横に宇都宮市の説明案内板が建っている。

(安置された不動明王)

(宇都宮市の案内説明板)


この不動堂の前を左へ進む。

ここで余計なことを考えていると、つい直進してしまう。
ボクは間違って直進してしまったが、

決して直進してはならない。






雀宮神社(旧日光街道を歩く 58)

2016年11月05日 05時12分45秒 | ひとり歩き旅
(雀宮宿の仮本陣家 修復中の表門)


雀宮宿について、
(雀宮は宇都宮市の入り口に当たる町で最初は横田村でしたが、
土地が高地であったことから台横田村とも言い、
のちに雀宮神社の名を取って雀宮村となった。
雀宮宿は、元和年間(1615~424)に日光街道が開かれたとき、
新しく作られた宿場だと言われている。
慶安元年(1648)には、本陣と脇本陣あ各一軒、
旅籠が38軒ありました。
本陣職を務めていた小倉家は、もともと宇都宮氏の家臣として、
2万石を領していたと言われる旧家で
慶長2年(1597)宇都宮市が没落してからは同地に土着し、
代々なぬしをつとめと言います)(資料より)

陸上自衛隊 宇都宮駐屯地入り口を過ぎて、
約2km先左手に「雀宮本陣跡」があるが、
注意しないと見落としてしまいそうである。

(雀宮本陣跡の碑)

(雀宮本陣跡の碑のある場所)


その先に(雀宮駅前)の信号があり、右折するとJR雀宮駅。
交差点手前右手には仮本陣の戸谷家があり、
その門構えと黒い板塀が往時を彷彿とさせる面影が残っていたそうですが、
ボクが通った時は修復中でした。

(雀宮駅前の信号)

(修復中の仮本陣家の表門)

(修復中の裏門?)

(修復中の高札?)

(修復中のお稲荷さん?)


(雀宮駅)の信号を越えてすぐ右手に雀宮神社がある。

(雀宮神社の鳥居)

(神社社殿)

(何が書いてあるか読めない神社の扁額)


雀宮神社伝説によると、
(宿場の名となった雀宮神社ですが、
その由来には多くの伝説が残っている。
社伝では長徳元年(995)、
陸奥守に任ぜられた藤原実方が赴任途中、
ここで休息し陸奥に向かいました。
妻の綾女も、その実方を慕いますが、
この地に来たところで病死してしまいます。
その遺言で、綾女が持っていた宝珠を埋め、
産土神として祀ったのが神社の始まりです。
その後実方も赴任地の陸奥で非業の死(*)を遂げます。
その霊魂が雀となりこの地に飛来したので、
綾女と実方の2人を合祀し雀宮神社と称したと言う。)(資料による)

(*)実方の非業の死については下記をクリックして参照してください。
「道祖神社と籐の中将 実方(さねかた)の塚(芭蕉の道を歩く 46)」

雀宮神社を後にして、約2.5kmほどは、見るべきものは何も無くて、
ただただ、国道4号線をひたすら歩く。

この辺りから宇都宮宿に入って行く。


雀宮宿(すずめのみやじゅく)へ(旧日光街道を歩く 57)

2016年11月02日 05時35分22秒 | ひとり歩き旅
石橋宿の開雲寺を出て、街道を歩くとすぐ右手に古い石造物群がある。
文字も消え、彫像も欠けて、青面金剛らしきものが削られているようですが、
石の下方にかすかに三猿の彫刻があるところを見ると、庚申塔のようで、
日光街道が造成されたときに、近隣の石造物が寄せ集められた物のように見受けられる。

少し進むと、旧家の門が建っている。
名主か本陣か脇本陣の門に見間違いそうな、
大谷石に囲まれた塀に続く立派な門である。
かなりな旧家であろうと想像される。

(判別し難い寄せ集めの石造物)

(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門A)

(大谷石の塀に繋がる旧家の古い門B)


街道は県道71号線と交差する(下古山)の信号を過ぎると、
「前田製菓宇都宮工場」の看板が草が生え放題の、広大な敷地の中に建っていた。

どうしてこんな看板がボクの話題になるかと言うと、
日本でTV受像機が普及し始めた昭和35年(1960)頃、
喜劇俳優 白木みのるさんと藤田まことさんが
テレビ画面の中で、大見得を切って、

「当たり前だのクラッカー」

と宣伝していた会社だからである。

その先に栃木県下野警察署があり、
約500m先に右手に(鞘堂地蔵尊)がある。

(鞘堂地蔵尊は、天授6年(1382年)小山・宇都宮合戦の折、
戦死したものの鞘を集めて埋めた。
そこにお堂を建て、地蔵安置した。)(関東地方整備局宇都宮事務所資料による)

(下古山の信号)

(前田製菓の看板が草の陰に)

(下野警察署)

(鞘堂地蔵堂の看板)

(鞘堂地蔵堂A)

(鞘堂地蔵堂B)

(鞘堂地蔵堂の中)

(鞘堂地蔵堂脇の六地蔵)


さらに200m先の左手に「星宮神社」がある。

(星宮神社は鞘堂新田村の鎮守として信仰を集めている。
神社参道右手には石の祠が、本殿裏手にも祠が点在して、
創建の古さを感じられるが、時代は定かではない。)(資料による)

このような物々しい説明から、相当立派な神社と想像していたが、
実際見た感じでは、想像を裏切られた。
鳥居のわびしい佇まい、境内裏の鬱蒼とした林。
境内の石の祠などがその侘しさを引き立てる。

(星宮神社の鳥居)

(社殿)

(神社参道の石の祠)

(星宮神社裏側の祠)

(鬱蒼とした星宮神社)


街道歩きもだんだん侘しくなってくる。
路傍のコスモスに囲まれた石柱「日光街道」が歩く人をいささか元気づけてくれる。

(コスモスに囲まれた日光街道の石柱)


やがて日光街道も東京から96km地点に差し掛かる。
前方の立体交差は北関東自動車道である。
立体交差を過ぎて約1km歩くと右手に
「茂原正観音道」の石柱がある。
これはこの道をおよそ2km先にある「茂原観音堂」の入り口である。
この木造聖観世音菩薩立像は秘仏で拝観はできない。
この石柱の数歩先に木造聖観世音菩薩立像の案内看板がある。

(茂原正観音道の石柱)

(木造聖観世音菩薩立像の案内看板)


(茂原観音堂に安置されている木造聖観世音菩薩立像は、
安産・子育ての信仰が厚く、茂原観音とも呼ばれて親しまれている。
60年に一度開帳(公開)される秘仏であり、金箔がよく残っている。
縁起では、
「1174(承安4)年、
この地に住んでいた宇都宮氏の家臣 裳原遠江守家次(もばらとうとみのかみいえつぐ)が、
枕辺に立った聖観音の像を彫刻して安置した」と伝えられているが、
室町時代に造られた仏像である。
昭和33・9・8市指定 文化財)(宇都宮教育委員会)

(木造聖観世音菩薩立像(ネットより)


茂原と言うと、ボクのカミさんの出身地で、
千葉県茂原市がすぐ頭に浮かぶ。
しかもその千葉県の茂原にも有名な笠森観音があるので、
茂原観音入り口と言うと、ここから千葉県の先までの道のりを、
ボクは考えてしまうが、ここで言う「茂原」は本来、
製作者名「裳原(もばら)遠江守家次」の「裳原」が転じて
「茂原」になったに違いない、と思い、納得できた。


しばらくすると、左手に陸上自衛隊 宇都宮駐屯地入り口が見えてくる。

(自衛隊 宇都宮駐屯地の入り口)


この辺りから雀宮(すずめのみや)宿であろう。

日本昔話の「舌切り雀」の話が出てきそうな宿場の名前である。






Potora!  NTTグループ運営!