楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

地球一周を歩く―七年ぶりの快挙!

2016年12月15日 21時49分48秒 | つれづれなるままに考えること
この11月20日累計歩行数が4万kmとなり、

地球一周を完了し、今二周目に挑戦している。


思えば、血液のがんの治療をして、

抗がん剤の副作用を抑える薬の副作用で、

もともと予備軍であった糖尿病が顕在化して、

インスリンを注射するようになってから、

毎日欠かさず朝食後と昼食後に約8000歩、

一日で1万6千歩を歩いた記録の累計距離である。



2009年9月より、毎日の歩行数をPCに記録して置いた。

一歩を60cmで換算し歩行距離が累計4万kmになった。

ボクの歩きの一歩は、70cmあるが、

疲れた時、階段を昇り降りするときも入れると、

平均しておよそ60cmと換算しての距離だ。

実に7年と2か月かかっている。



お陰で大した病気もせずに過ごすことが出来た。

この後も歩くことを励行し、健康を保ち、

世の中の移り変わりの状況を眺めて行きたいものである。


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強風-快晴-富士山

2016年12月13日 06時33分02秒 | 日記
2016.12.11.

本日は強風注意報が発令された。

空は風に吹き飛ばされた塵もなく、遠くまで見通しが良く、

我が家のベランダから西方を見ると富士山がくっきり見えた。

(富士山)


夕焼け富士の写真を撮ろうとベランダに出たら、

たなびく雲に隠れて富士山は見えなかった残念!

やむを得ず、2015.12.26.の夕焼けで我慢してください。

(2015.12.26.の夕焼け富士)


なお、12月13日(火)より15日(木)まで留守にします。

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晩秋の小石川後楽園2―都立庭園へ行こう(その8)

2016年12月10日 06時05分45秒 | 東京の庭園
2016.11.18.小春日和。

桜の咲く春はとっくに過ぎて、秋も深まった日に、

「もみじが綺麗かもよ」とカミさんが後楽園へボクを誘った。

晩秋の日差しも気温も18℃と良好で、出かけることにした。

小石川後楽園に到着すると、入口に救急車が停まっている。
どなたか具合の悪い人でも出たのかと思いながらも、
入場券を購入する、65歳以上150円であった。

後楽園の門前に「深山紅葉を楽しむ」の看板が。
そして入場券売り場までの道路には落ち葉がたまっている。

(小石川後楽園の門)

(落ち葉がたまった入り口までの道路)


パンフレットに「東京に残る深山幽谷」とある。
そうかと思いながら、園内に入って、秋の深まりに眼を見張った。

小石川後楽園はご存知の水戸の黄門様が完成した回遊式庭園です。
黄門様の徳川光圀は、
造成に当たり明の朱瞬水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れ、
円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れたと言う。
園内は全部でおよそ二万坪の広さ。

(小石川後楽園全図) 

(最初に目に入る小廬山と紅葉)

(大泉水と上の方に見えるのは東京ドーム、以前の後楽園球場)

(有料のお茶が頂ける涵徳亭の紅葉)


涵徳亭(かんとくてい)東側の紅葉がきれいであった。
後は説明が要らない、紅葉をご覧ください。

(涵徳亭東側の紅葉1)

(涵徳亭東側の紅葉2)

(涵徳亭東側の紅葉3)

(屏風岩)

(沢渡り1)

(来た道を振り返った所)

(沢渡り2山の上から)

(通天橋)

(通天橋から沢渡を俯瞰)


冒頭に後楽園入り口に救急車が停まっていると書いたが、
この通天橋のふくらみで足を滑らしたご婦人が転んで、
頭を岩にぶつけて意識不明になった。
救急隊員とストレッチャーに乗ったご婦人に、
ご主人らしい人が、しきりに呼びかけていた。
痛ましい光景であった。
大事に至らぬようお祈りするより仕方がない。

後楽園内をぐるりと回って、
4年前の春には東北大震災の影響で破損していた円月橋の前に来た。
すっかり修復されて、橋の半月が水面に映って円が描かれた形になる。

(小廬山の上から)

(円月橋)

(水面に写る円)


後楽園の西北にきた。春には梅が咲き誇る場所である。
流れるのは神田川、この上流の高田馬場付近のアパートをモデルに作詞され、
大ヒットとなったあの「神田川」である。

この一角に水戸藩の藤田東湖護母の碑がある。
水戸藩の側用人として活躍した藤田東湖は、
安政の大地震で、地震発生時に東湖は一度は脱出するも、
火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、
落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、
何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
母を護った場所としてその碑は建てられた。

(神田川のある場所右手が梅林)

(藤田東湖の碑)

(藤田東湖 先生護母致命之處碑)


さらに進み大泉水の奥から池と紅葉を眺める。
水面に映る紅葉もまた美しい。

(大泉水と紅葉1)

(大泉水と紅葉2)

(大泉水と水面に映る紅葉)


東北の震災地を優先したため後楽園の護岸工事は今たけなわである。
目の覚めるような、華やかな紅葉を眺めて後楽園の見学は終わりにしたい。

(震災後の護岸工事中の回遊路)

(目の覚めるような紅葉)



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人を恋うる歌―昔を思い出して

2016年12月07日 06時05分51秒 | つれづれなるままに考えること

その昔(1958)、大学を卒業するに当たって、
みんなで教授を囲んで謝恩会を開こうと言うことになった。
宴たけなわとなり、友人が歌を披露することになった。
それが、「人を恋うる歌」。

その歌詞は、

人を恋うる歌 ボニージャックス




「妻を娶らば 才たけて
 みめうるわしく なさけある
 友を選ばば 書を読みて
 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱」

であった。

ここで「六分の侠気(リクブノキョウキ)」と歌ったら、
教授から待ったがかかった。
「(六分)を(リクブ)とは読まない。」と言う。
厳格で間違ったことは教えない事で有名な教授であったので、
その通りにした記憶がある。
「六」は「りく」とは読めないのである。
理屈を言えば、そんなわけで「六義園/りくぎえん」とは読めないのである。
その昔は、六義園は(むくさのその)と言っていたことは前回書いた。
どこからどうなっか知らないが、いつの間にか「りくぎえん」と呼ばれるようになり、
六義園は(りくぎえんは)と呼ぶようになり、正式名称となった。

上記のYouTubeのボニージャックスも「六分の侠気を(りくぶのきょうき)」と唄っている。
しかし森繁久彌は、「六分」を(ろくぶ)と歌っている。
これが正しいようだ。


話を本題に戻そう。

その恩師は、T大を在学中か、卒業してからか、イギリスに留学生となり、
再びT大に戻り、学部の長であり、教授であった。
当時は55歳定年で、退官後ボクが卒業した大学で教鞭をとられた。

ボクが大学1年生(昭和29年)の頃、まだ紙が貴重品だったので、
新聞は、適当に切って再利用して鼻紙などに使用していた。
鼻をかむと、新聞のインクで鼻の頭が黒くなったりした。

そんな時代に、教授は
「ロンドンでは分厚い新聞を電車の中で読んで、
電車を降りる段になると網棚に捨てて行く」と、
当時の30年も前の事を話された。
このことがボクには強烈な印象として残っている。
日本では再利用するために、読んだ新聞をきちんと折りたたんで持ち帰る。

日本とイギリスでは、経済力の面で30年以上も劣勢であることを痛感した。
日本人は、その劣勢を撥ね退けるように、
そして国力の増強を図るように、国民は懸命な努力をした。

学校を卒業して、就職後しばらくして、
JR山手線の網棚に新聞を捨てて行くのが目立つようになったことを思い出す。
そして間もなく、宣伝のためとはいえ、
ティッシュ・ペーパーが無料で配られる時代がきて、
日本もイギリス並みになったかと思った。

そして夢中で働いている内に自分自身の定年が来て、
自らの夢である外国旅行をしてみると、
何のことは無い、いつの間にか日本の経済力は、
世界第2位になっているのをまざまざと感じた。

イギリスにもフランスにもドイツにも優る経済力であった。
その頃、農協さんがお金の力を世界に見せつけて、
爆買いをして、先進国の笑いものになったことを覚えている。

ついこの間の中国の観光客みたいなものだ。

日本人もやって居た。

中国人を笑えない。



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春先の小石川後楽園―都立庭園へ行こう(その8)

2016年12月03日 06時06分14秒 | 東京の庭園
2012年の春先、小石川後楽園を訪ねた。(2012.3.16.)

(小石川後楽園入り口)


(入園料:一般300円、小学生以下と都内在住・在学の之中学生は無料)

(庭園入り口)


進むと左右に開ける。

(庭園1)

(庭園2)

(庭園3)


後楽園の名前は「先憂後楽」から採った。
水戸光圀が「民に先立って国を心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむ」
つまり、「苦労は先に片付ければ、後に安楽が待っている。」ということを表わした名前。
原文は「岳陽楼記(がくようろうき)」にある
「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみにに後れて楽しむ」から命名したとある。

3月16日近所の梅が良く咲いたので、
小石川後楽園もきっときれいに違いないと、
期待して出かけた。
庭園に入ると、沢山あるサクラの木が寒そうに池の畔に立つ。
「春、サクラの季節になったらまた来ようね。」とカミさんに話しながら、
池の周りを散歩する。
池の端の石が、先の東北大震災の影響で崩れかかっているので、
「入らないでください」と竹で囲いがしてある。
もだ、後楽園までは、手が回らないようだ。
職人さんはまだ東北の方に行っているに違いない。
こんな所にも震災の影響はあったと驚きながら、梅林があるほうへ向う。

(丸屋)

(大泉水1)

(大泉水2)

(護岸の石は崩れ易い)

(白糸の滝)

(梅林1)


梅林は花が咲き揃って、とても美しい。
沢山見学者が写真を撮っていた。勿論ボクもそのうちの一人。
梅は一輪一輪も良いが、沢山あるのを遠景で観るほうがボクは好きだ
プーンと香る かすかな匂いも素晴らしい。

(見学者が多い)

(左手の流れが神田川)


梅林の横に神田川が流れている。
川に沿って歩くとその先に、円月橋がある。
ここも震災で石の足場が修復中で進むことが出来ない。
さらに光圀が朱瞬水の意見を取り入れて造った中国の西湖の堤も、
改修中であったので、
早々と引き揚げることにした。

(円月橋)


後楽園の周りを囲む外壁は白い土塀になっていて、
下段に積み上げた石垣は、
千代田城の外堀の石垣に使用されたものと同じ、
と説明にある。

(円月橋の足元の修復地)

(崩れた堤を修復している西湖の堤)

(後楽園を囲う土塀の石垣)


途中、お腹が空いたので食事をと思ったが、
大きなビルはあるものの、食事が出来るような場所が無さそう。
サラリーマン風の人たちがまとまって進む方向を見ると、
どうも弁当屋が出張販売に来ているので、それが目当てらしい。

食事場所はどこにでもあると、高をくくったのが間違いの元。
飯屋を探し歩くと、路地の奥で、サラリーマン風のネクタイ姿の人が、
しもた屋の前で立って下を見ている。
遠くからサラリーマンが見ている下を覘くと、
メニュウらしき看板を見ているようだ。
思い切って近づいて行くと、やっぱりメニュウで、
お蕎麦とうどん、それにサラリーマン用にセットメニュウがある。

ボクはマーボライスにおそば、カミサンが炊き込みご飯にうどんが好いという。
中を覘くと、人が列をなしている。
すごい満員だよとカミサンに言うと、丁度出てきた人が、
「回転は速いし、お値段もリーズナブルだし、少し待っていれば入れますよ」と
元気付けられたので、中に入ってチケットを買うのに先ず並ぶ。

チケット売り場で、ボクが年寄りと思ったのか、
普通盛りでなくスモールサイズがあるというので、
お願いしたら150円も安くなった。二人分〆て710円也。
殆んど待つことも無く出来上がり、
丁度適量の蕎麦とマーボライスを頂き、店を出た。

(子供の遠足か、楽しそう)

(紅梅)

(白梅)



秋になって紅葉の後楽園を観ようと出かけた。

つづきは次回へ。
コメント (14)
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