平安時代初期に空海が開いた「高野山」。
1200年の間には、
各時代の権力者から名もない民まで、多くの人が詣でたり寄進したりしています。
高野山に関わった歴史上の人物の中でも
西行と平清盛に私が注目したのは、旅行前に読んだ小説の影響です。
この二人は今で言うところの「皇宮警察」仲間でした。
出家した西行は、優秀な「勧進僧」(寄付を集める僧)として高野山に貢献しました。
高野山・壇上伽藍内には、西行が暮らしていた「三昧堂(ざんまいどう)」と西行桜が残っています。
西行といえば
「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」
桜のイメージです。
西行の友人の権力者・平清盛(1118年生まれ)といえば、厳島神社が思い浮かびます。
清盛が高野山・奥の院を訪れた際、白髪の老人が現れて
「厳島神社を修理してみなさい。完了したのちは、官位が天下に並ぶ者がなくなるに違いない 」
と言ったそうです。
この老人がどうやら弘法大師・空海(744年生まれ)だったようだ。との逸話が残っています。
このことがきっかけとなり、清盛が奉納したのが「血曼荼羅」です。
金堂の中、右に胎蔵界曼荼羅、左に金剛界曼荼羅が掛けられていました。
想像していたより大きくて驚きました(4.3m x 4m)。
撮影は禁止されていますので、血曼荼羅の御朱印帳をご覧ください。
左側の胎蔵界曼荼羅の中央をご覧ください。
大日如来の宝冠は平清盛が自身の頭から流した血で描かれているそうです。
これにより「血曼荼羅」と呼ばれます。
歴史の場面が繋がり、面白いです。
さて
撮影可能だった場所を駆け足で紹介させて頂きます。
「六角経蔵(ろっかくきょうぞう)」です。
把手を持って一周りすれば一切経を一通り読経した功徳が得られます。
撮影用にポーズを取りながら、周りました。
高野山の写真でよく見られる「根本大塔(こんぽんだいとう)」です。
中の立体曼荼羅をお見逃しなく。
本来ならば、紅葉がキレイと評判の蛇腹道(じゃばらみち)。
今秋は紅葉が遅れていました。
では、金剛峰寺です。
金剛峰寺とえば、「蟠龍庭 (ばんりゅうてい)」です。
白砂で雲海を。花崗岩で龍を表現しています。
雌雄一対の龍が奥殿を守っています。
白砂につけられた筋は、どんな風にお手入れされているんでしょうね。
他にもたくさん写真がありますが、この辺りで終わりとさせて頂きます。
皆様の高野山参拝のお役に立てれば、うれしいです。
思い出し、楽しみながら読みました
もっとたくさん行きたい場所がありますね
高野山、また、訪れてみたい場所です
と、思っていたけれど。
一か所に見どころがたくさんあって、
行ってみたかった場所が
たくさん残ってしまったね~