文化の日、これまで何度となく訪れた般若寺であるが、初めて秋桜が満開の時期に遭遇することができた。
境内一面に所せましと咲き誇る、ピンクや紫、白などの色とりどりのコスモスの花。これほど見事なものとは思いもよらなかった。コスモスは、明治時代に海外から入ってきた。もともとはメキシコ原産の花が、スペインに持ち帰られて広まったようだ。昔からあるような日本の風景とコスモスの花は相性がいいのか、お寺の境内などや古道の脇に植えられていても調和した姿を見せてくれる。
さて、般若寺であるが、舒明天皇の頃の創建と伝えるが、確証はなく、ただ、境内からは奈良時代のものと考えられる古瓦が出土しており、文献にも天平勝宝8(756)年の「東大寺古図」にもその姿が確認されているため、その頃には成立していたことは確かなようである。
般若寺がよく知られるのは、源平の戦いのさなか、平重衡による南都焼き討ちにより、興福寺や東大寺とともに焼失したことであろう。
境内には、その縁からか平重衡の供養塔がある。
その後、鎌倉時代に再興されるも、戦国時代で火災や戦火でかなりの伽藍を失う。しかし、国宝の楼門や重要文化財の経蔵、十三重石塔などは、今に残っている。
楼門の前の道は、京街道と呼ばれ、京と奈良を結ぶ街道であった。今は、国道が、般若寺を挟んで反対側に通っているため、車通りの少ない静かな通りとなっているが、所々に往時の姿を思いおこさせる趣のある民家が立ち並んでいる。
重要文化財の十三重石塔。コスモスの花に囲まれた姿が、これがまたよろしい。
境内を歩いてみると、藤原頼長や大塔宮護良親王の供養塔や正岡子規や森鴎外などの句碑などがコスモスの花の中に埋もれるように立っている。
これは正岡子規の句碑「般若寺の 釣鐘ほそし 秋の風」と記されている。ちなみに正岡子規は、明治28年、奈良を訪れた際に東大寺の他般若寺にも立ち寄っている。この時の旅行で有名な「柿食えば、鐘がなるなり 法隆寺」の句を詠んでいる。
この奈良旅行は、子規の最後の旅行であり、この直後、脊髄カリエスを発症し、寝たきりの生活を送ることになる。
般若寺は、境内に所狭しといろいろなものがある、本堂や経蔵などの建築物、何体もある石仏や歌碑や句碑などコスモスに埋もれるようにあり、ときどき顔を覗かせてくれる。そういうのを発見する楽しみもありそう。
般若寺は、明治に入って、廃仏毀釈により甚大な被害を受け、一時は無住となり、西大寺の管理下に入っていた時期もあったらしい。おそらく、子規が訪れた時もかなり荒れた時だったのではなかろうか。
そして、戦後、諸堂が整備され、再興されるに至っている。今では、コスモス寺として、花の時期には大勢の参拝客が訪れるようになっている。
この日も、比較的多くの参拝客が訪れており、思い思いにカメラやスマホを向けて写真を撮っていた。(コロナ禍でもあり、例年よりは少ないような感じだった。)
この光景を目にすると、少しずつでも、以前の日常が戻ってくればと願わずにはいられない気がした。
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