
最近、「奈良」に関係する本をなぜか連続して読んでいて、特に堀辰雄の「大和路・信濃路」という本を読んでいるうちに、実際にその紀行文にひかれて、その後をたどってみようというわけで、たまたま振替休日が取れたので、一路文庫本を片手に奈良へ向かうことにした。
近鉄西大寺駅を降り、まず秋篠寺に向かう。秋篠寺までは、北に向かって歩きはじめる。途中から、少し田舎びた田園風景を眺めながら歩いていった。なかなか気持ちのいい風景である。
大和路では、秋篠寺について、こんな風に書かれている「ここの少し荒れた御堂にある技芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像は何だか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。(中略)こんな何気ない御堂の中に、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。」秋篠寺の伎芸天像は、この記述から東洋のミューズ像と呼ばれて名高い。
ただ、東大寺や興福寺といった観光地から少し外れているので、比較的観光客が少ない。僕が訪れたときは、10人も満たない人数だった。
本当にひっそりとしたお寺に、美しい御堂が一棟建っている。清らかな佇まいであった。秋篠寺の本堂は、国宝に指定されている鎌倉時代の建造物であり、何となく奈良時代を思い起こさせる。この寺自体、奈良時代の創建になるといっても、光仁朝のことだから末期ではある。境内には、塔や金堂の礎石が残っている。

雑木林の中に、苔むした礎石が並んでいる。
そして、本堂には、本尊である薬師三尊像の他に伎芸天像などが並んでいて、壮観である。


東洋のミューズと呼ばれた伎芸天像には、拝観に来ていた学生と思しきグループもしばらく魅入っていた。僕もゆっくり本堂の中のベンチに座りながら眺めていた。時間の立つのも忘れるような豊かな時間だった。
ちなみにミューズとは、詩歌、音楽、哲学、天文、数学、舞踊など、人間のあらゆる知的活動を司る神さんである。そして伎芸天と呼ばれる仏像は、ここにある一体だけだそうだ。
こんなにゆっくりと仏像や御堂を見れるのは、ありがたいと感じた次第。
境内には、いくつかの歌人の歌碑が建っている。
写真は、会津八一の歌碑。碑には、「あきしの の みてら を いでて かへりみる いこま が たけ に ひ は おちむ と す」という歌が刻まれている。

秋篠寺を出て、歴史の道をだどりながら、神功皇后陵へ向かった。

神功皇后陵については、五社神古墳というそうだ。4世紀後半から5世紀の前半に築かれた前方後円墳であり、佐紀盾列古墳群の中でも古い部類に入る古墳である。丘陵の一部を切り取って作られており、そのため、周濠も何段かに分けられてつくられている。一部周濠は、後世灌漑用に拡張されているようだ。

全長は、275mと佐紀盾列古墳群では最大級である。
実際、古墳を前にするとそのスケールの大きさには圧倒される。
この古墳については、平安時代には近くにある成務天皇陵と混同されていて、それが原因で転変奇異が起こったという記述が「続日本後記」ある。平安時代の初めにはすでに誰が葬られているのかわからなくなってしまっていたのだろう。
被葬者として伝えられている神功皇后については、仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母とされる。しかしどちらかというと比較的古い形の古墳であり、年代が合わない気がする。日本書紀の系図が正しいとしての話ではあるけれど。応神天皇に関しては、この時期に王朝が交替したという学説もあり、ちょっと複雑。佐紀盾列古墳群自体は、誉田山古墳(応神天皇陵)などがある古市古墳群よりは古い古墳群ではある。

この後、近鉄京都線を渡って、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛皇后陵)へ向かうことにした。
というわけでパート2に続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます