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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「大和路」をたどる旅② 法華寺・海龍王寺編

2013-05-06 21:43:04 | 文学をたどる
五社神古墳から、佐紀陵山古墳と佐紀石塚山古墳へ向かう。この二つの古墳は、全長が200mを超える巨大古墳であることもさることながら、非常に接近して築造されており、二つの間には写真のように軽自動車が一台通行できるぐらいの道があるだけである。

 
 (左が、佐紀陵山古墳、右が佐紀石塚山古墳である。)

 佐紀陵山古墳が先に築造され、そのあと佐紀石塚山古墳が築造されたと考えられている。ただこれだけ位置も年代もかなり接近して築造されていることから、それぞれの古墳の被葬者間はかなり近しいものであることが想定される。

 現在は、佐紀陵山古墳については、垂仁天皇皇后日葉酢媛陵に、佐紀石塚山古墳が成務天皇陵に治定されている。しかしながら、記紀の伝承を信じるなら、成務天皇は垂仁天皇の孫世代であることから、それぞれの古墳の被葬者を宮内庁の治定通りとはいかない気がする。
 日葉酢媛については、この皇后がなくなったとき、殉死の風習を改めて、埴輪を置くようになったという伝承がある。しかしながら、この古墳からは人物埴輪、動物埴輪などは見つかっていないようだ。(円筒埴輪はある。)
 非常に狭い地域に作られたため、周濠も前方部は、広く水も豊かに溜まっているが、前方部は、かなり狭い。

 

 非常に綺麗に整備された古墳であり、眺めていても楽しい。

  

 また、佐紀石塚山古墳の南側に、佐紀高塚古墳が東西に横たわっている。古墳にはいくらか周濠が巡らされている様子だが、柵と樹木で隠れており現認はできなかった。ただ地図を見ると一部周濠が描かれているので、おそらくあったのだろう。かなり後世の改変を受けているような感じである。
 少しデータを載せると、全長127mであり、佐紀陵山古墳や佐紀石塚山古墳と同年代あるいは少しさかのぼるのではないかとのこと。
 現在は、称徳天皇(孝謙天皇)陵とされており、詳細はわからない。
 称徳天皇といえば、弓削道鏡との関係で著名な奈良時代の女帝であり、この古墳と被葬者としてはかなり無理があるのだが、奈良時代、かなり薄葬化していることを考えると、もしかして火葬墓として追葬されたのかなんて思ったりもする。ちなみに他の奈良時代の天皇、元明天皇、元正天皇なども火葬されて近隣の山も埋葬されている。

 

 佐紀石塚山古墳と接近しすぎているのであんまり遠望が利かない。ちょっと先の二つの古墳に比べると何だか影が薄いような気がした。

 「大和路」をたどる旅と言いながら、古墳の話ばかりに言及している。そろそろと思いつつ、もう一つ古墳を紹介したい。
 これらの古墳から、平城宮跡の向かうと復元された大極殿の南側にこんもりとした森が見える。これが市庭古墳である。一見すると巨大な円墳に見えるのだが、平城宮が造営されるにあたり、前方部が削平されたのだそうだ。平城宮跡のところに削平された前方部がわかるように石を連ねている。
 平城宮の造営に際しては、他にもいくつかの古墳が破壊されているそうだ。
 この古墳を復元すると、全長200mを越す巨大古墳となる。円筒埴輪や動物埴輪が発見されていることを考えると古墳時代の中期ぐらいの築造になるのか?先の五社神古墳や佐紀陵山古墳などと比較すると新しいものになる。
 ただ、この古墳も、残っている後円部だけだが、平安時代の平城天皇陵に治定されている。被葬者については他の古墳と一緒でかなり怪しいと言えそうである。

 

 佐紀盾列古墳群については、東支群と西支群と分けられるようで、今回は西支群のみ。歴史的な位置づけとしては、柳本、大和古墳群と古市・百舌鳥古墳群の間にある古墳であり、当時の大王級の人物が埋葬されているのは間違いと思われる。
 山背地域や近江地域とつながりのある勢力であったのだろうか?

 市庭古墳から平城宮跡を横切って、法華寺へ向かう。法華寺と言えば、総国分尼寺、法華滅罪之寺ということで、大きな寺院を想像するが、こじんまりとしたお寺であった。かつてあった堂舎も戦乱等で失われ、南大門、本堂や鐘楼などが残る程度である。(いずれも重要文化財になっている。)

  

 あまり訪れる人もいないようなひっそりとした感じで、高名なお寺のわりには閑静な佇まいであった。この法華寺に関しては、堀辰雄氏の「大和路」では、このあたりの町名「法連」や歌姫という地名にはふれてはいるものの直接法華寺についての言及はない。しかし、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」や和辻哲郎の「古寺巡礼」などでは、法華寺の十一面観音像についてその女性的な美を称えている。
 
 境内には、会津八一の「ふぢはら の おほき きさき を うつしみに あひみる ごとく あかき くちびる」という歌碑があった。十一面観音像が、光明皇后の姿をうつしたという言い伝えの基づいているのだろう。ただし、この像は貞観時代の作であるらしい。

 ただ、この日は、十一面観音像は開扉されていず後世の模造品が公開されていた。この像を見るために入ったのに残念至極。入る前に行ってほしかったなあ。わざわざ拝観料を支払って本堂に入ったのに・・・。

 最後に入ったのが、海龍王寺。法華寺の横にあるのだが、これが「また訪れる人もなくひっそりとしていた。
 
 

 いかにも奈良の古寺らしい崩れかけたような土塀の四脚門を入ると、もう一つの門まで参拝経路の両側をなんという草なんだろう?これが大和路に書いてある八重葎というものなんだろうか?写真のように門まで生えている。

 

 「大和路」にも海龍王寺のことは出ていて、かなり荒れた廃寺として記述してある。堀辰雄がここを訪れた時は、周辺は田園だったようだが、家が立ち並んでいて、「いかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。」と書かれた風景は見る影もない。しかしながら、お寺の境内は、整備されているものの本書の記述された景色を彷彿とさせる。この時も僕以外の人はいなかったので、本堂の縁側に腰掛けながら、「大和路・信濃路」の文庫本を読んでいた。

 

 そして、天平時代の建築である西金堂を眺め、そしてその建物の中にある国宝の五重小塔を見にも行った。
 
  

 西金堂については、国の重要文化財に指定されており、こういう小規模な御堂が残っている例が少ないのだそうだ。こういうこじんまりとした建物がまた、このお寺によく似合う。小一時間ほど、本堂の見学や境内を散策して(それほど大きくないが、)過ごした。
 
 本堂には、十一面観音像がある。法華寺の十一面観音像を元に鎌倉時代になって作られたものだそうだ。非常に綺麗な姿で、法華寺では見れなかったが、ここで見ることができて溜飲が下がった思いであった。

 海龍王寺って名称が大層だが、こじんまりとした奈良の古寺というイメージのお寺でよかった。ただあんまり観光客が来るとこの雰囲気が壊れてしまうので、ほどほどにというところかな。
 ここお寺で本を読んで過ごした時間が一番豊かだった。


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