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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

多武峰紀行⑫ ~冬野・良助親王墓など~

2022-04-03 23:49:23 | 史跡を歩く

 やっとこさ、この多武峰紀行も最終章となった。

 談山神社の西大門跡を出て、そのまま明日香にくだるつもりだったのだが、冬野、良助親王墓を経て、明日香という案内板を見つけ、以前、談山神社から良助親王墓を通って、明日香に下る道が印象深いという話を聞いたことがあり、さすればその道を行ってみようということで、跨道橋を渡って、くだんの道を歩いてみることにした。

 橋を渡って歩き始めると、早くも舗装されていない山道。しかも、モトクロスバイクかなんかの車輪で道の中央部がえぐられており、歩きにくいことこの上ない。

 

 倒木等もあり、苔むした道をどんどん奥に入っていく。某テレビ局の番組もかくやというような景色である。人家はもとより、人ひとり通っていない。

 

 とにかく、杉林のなかひたすら登る。想像以上に本気の登山のような感じである。どんどん深い山に入っていく。頭の中には、山の頂のところに石塔が立っているイメージだったのだが、そんな様子もなくつづら折りの道を登っていくだけである。

 感覚的には、かなりの時間歩いているようなのだが、15分ほど歩いていくと突然、道が曲がった先に人家が見える。この辺りから、道がモルタルで舗装されるようになっていた。

 しかし、驚いたことに、この道は、住宅の敷地の中を通って分断しているような感じになっていた。

 ちょっと後ろめたい気持ちの中、前へ進んでいくと、さらにその先に二手に分かれていた。右手が波多神社とあり、左手を選択する。するとアスファルトに舗装された道路に合流した。

 そして、冬野と書かれた標識を見つけ、かなり目的地である良助親王墓がかなり近づいているのが想像できた。

 

 そこには、ポケットパークのような空間があった。この舗装された道は飛鳥と吉野を結んだ古い街道であったようである。また、冬野城という中世の山城もこの辺りにあったようである。

 そして、この道を下っていくと、急に視界が開け、右手に階段らしきものが目に入る。もしや・・・。

 

 近づいていくと、人の手が入った、整備された空間が見える。

 やっと着いた・・・。

 

 喜んで、階段を登っていく。まさか、こんな舗装された道路の脇にあるとは、全然イメージできてなかった。先に書いたように、山の上にあるイメージだったのが、まさかこんな舗装された道路のそばにあるとは、しかも、土盛りの墳墓とは。

 ほんと、予想の上を行く陵墓でした。

 

 ちなみに、良助親王は、鎌倉時代の天皇、亀山天皇の第4皇子、出家して法親王となり、天台座主や青蓮院門跡などを歴任したようで、晩年多武峰に居住したことから、ここに墓地があるようだ。

 この墓域の裏に五輪塔があるそうなのだが、ちょっと確認できなかった。しばし、拝所の前でへたり込んだ後、明日香をめざして再開。

 

 さて、ここから、ひたすらこの道を下り、明日香をめざすことになるのだが、これがまた結構大変だった。

 

 途中、大和牛の牧場や明日香村の環境事業所などを通る。

 

 牧場では、牛の姿を見た。都会に住んでるとなかなか牛を見ることがないよね。

 

 この辺りは、最近、某テレビの秘境を探す番組で紹介されていた。

 とにかく、山を下る。ちなみにこの辺りでは、GoogleマップのGPS機能も怪しくなっていたと思う。

 そして、1時間も歩いただろうか、ようやく人里に出た。

 

 よかった~。

 生きて帰れる。

 

 あとは、上居の立石や細川の棚田などを眺めながら、石舞台古墳に到着。

 

 最後は、石舞台古墳前からバスに乗って帰路についた。橿原神宮前駅に着いた時には、もう辺りは暗くなっていた。

 お疲れさまでした。(完)


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