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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

四条遺跡・第36次藤原京右京四条六坊発掘調査説明会

2018-04-08 23:21:20 | 現地説明会
 平成29年11月23日(祝)
 以前、車で、国道165号線を自動車で通行していた時、奈良県立医科大学の近くの陸橋を越えた時に、グラウンドの中で発掘調査らしきものをしているなあと思ってみていたのだが、その発掘調査らしきものが、今回の「四条遺跡・第36次藤原京右京四条六坊」の発掘調査であった。
 この遺跡は、四条1号墳と名付けられた古墳を削平した後、藤原京の四条大路が通っている遺跡で、古墳時代の遺構と飛鳥時代の遺構が重なり合っているものである。

 今回の現地説明会では、発掘調査のときに出た土を利用して、展望用の高台が作られていたので、その高台に登って、四条1号墳の卓球のラケットのような姿の全体が目に入った時は、ちょっと感動ものだった。

 

 ちょうどどうしても行かないといけない仕事があったのだが、空いた時間を見つけて、近鉄電車に飛び乗って、はるばる来たかいがあったというものである。
 少し発掘の成果等に触れてみよう。

 四条1号墳については、昭和62年にも発掘調査が行われており、今回はほとんどの部分が再発掘になっている。最初にも述べたように、四条1号墳は、藤原京を造営する際に削平を受けており、もともとは、西側に造り出しをもつ方墳だと考えられている。ぱっと見たところ、前方後方墳にも見えるのだが、当日の説明の中では、造り出しの部分が、前方後方墳の方形の部分と考えるには未発達であるとか考えられることから方墳と考えているという事であったと記憶している。規模としては、南北が約32m、東西が造り出しを含めると40mになるとのことである。

 

 四条1号墳については、内濠と外濠の二重の周濠を持っていることが今回の調査で明らかになっている。内濠は、幅約6mと考えられているが、西側は造り出しがある関係で、約14mと広くなっている。

 

 外濠は、北側では幅6mの幅を持っているが、深さは内濠と比較すると非常に浅いため、内濠と外濠の間に土を盛り上げた周堤があり、その周堤を目立たせるために造られたものであろうと考えられている。そのため二重の周濠を持つ古墳であるとは言い難い部分もあるとのことであった。

 

 今回の調査で古墳の周濠内から、土器等が見つかっており、これらの遺物から五世紀の末頃に築造されたと考えられている。

 

 また、古墳からは円筒埴輪も見つかっている。

 次に、古墳の上を藤原京の四条大路と西六坊坊間路が通っていることが確認されている。

 

 四条大路は南北に溝が検出されており、道の幅は14.5m~14.8mで、坊間道路は、幅5.5mであった。見事に、古墳の上を道路が交差しているのがわかる。

 

 この四条1号墳の他にも、この辺りは四条古墳群として12基の古墳が確認されており、現在、綏靖天皇陵として治定されている塚山古墳を除いては、藤原京の造営される際に削平を受けている。
 このことは、日本書紀の壬申の乱の時の記述と考え合わせると非常に興味深いのだが、そのことについては、以前このブログの「畝傍山周辺の御陵②~綏靖天皇桃花鳥田丘上陵~」に述べているのでそちらをご参照ください。

 また、調査区の北側には、飛鳥時代の建物と考えられる掘立柱建物が検出されている。

 

 掘立柱建物3棟と井戸3基、また道路と宅地の戸間を区画する目的で設置されたと考えられる塀の跡も検出されている。

 この調査は、医大、周辺まちづくりプロジェクト事業に伴う部分として発掘調査が行われたもので、今後も継続して行われるのかはわからない。ただ、これだけの遺跡なのだから保存をしてほしいと思う。そういう運動も起きていると聞いている。

 調査地から近鉄八木駅に帰る途中で、国道165号線の陸橋のあたりで、四条9号墳の案内板を見つけた。

 

 この四条1号墳についても、案内板だけが残っている遺跡となるのか、何らかの形で残されるのか、今後の動向は注視していきたいと思う。

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