ウワナベ古墳のすぐそばにコナベ古墳があり、二つの古墳の間は狭いところでは、50mもないほどである。しかも現在は、この狭い場所の北側には航空自衛隊の施設がある。
佐紀盾列古墳群の特色とも言えるかもしれないが、西群の、佐紀陵山古墳や佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳と同様に、ウワナベ古墳、この後、探索予定のヒシアゲ古墳と一緒に狭い場所の犇くように大型古墳が築かれている。同時期の古市古墳群や百舌鳥古墳群などには見られない傾向であろう。
これらの古墳は、一群として何らかの関係があるのだと思われるが、不明と言うしかない。ただ、この三つの古墳については、発掘調査などで検出された円筒埴輪などによって、前後関係はわかっている。コナベ古墳→ウワナベ古墳→ヒシアゲ古墳という順番に築造されたと考えられている。
コナベ古墳は、墳丘の全長は約210m、後円部径131m、前方部幅129mとなっており、墳丘は三段築造であり、周囲は、盾形の周濠が同一平面上に巡らされている。
また、墳丘は、両側に造り出しがあり、この古墳では近年の修復工事により、ぐるっと墳丘の裾に石垣がめぐらされているので、その姿を明瞭に見て取ることができる。
埋葬施設については、コナベ古墳については陵墓参考地となっているため、発掘調査等はされていないが、古絵図などでは、石棺石蓋が描かれているものがある。
古くは、この古墳もウワナベ古墳と同様に近くにある法華寺の所領となっていたが、明治以降陵墓参考地となり、現在は宮内庁が管理している。
墳丘に陵墓参考地を示す制札が建てられているが、それが見える人はどれほどいるであろうか?
陵墓参考地として、被葬候補者は、仁徳天皇の皇后、磐之媛命であるとされる。ちなみにウワナベ古墳は、仁徳天皇の高校后八田皇女。古事記や日本書紀によれば、磐之媛皇后は、非常に嫉妬深い人物であり、仁徳天皇が、八田皇女を娶ったことに抗議して、この地に住んだと言われている。その二人のお墓が仲良く並んでいるという伝承も、不思議なものである。恩讐の彼方にと言うとこなのだろうか?
江戸時代には、奈良時代の天皇、元正天皇陵だと伝えられていたようだ。(ウワナベ古墳は、元明天皇陵)
この辺りの古墳も見ごたえはあっていいのだが、どうしてもウワナベ古墳の印象が強くて、コナベ古墳の印象が薄いところが否めないなあ。
ただ、コナベ古墳に来るといつも周濠の水が、妙に白色っぽいのが気になる。何か特別な水草などが生えているのだろうか?
知っておられれば、ご教示願います。
コナベ古墳には、周りに多くの陪冢が残っている。そのいくつかを捜し歩いてみよう。
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