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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

多武峰紀行③ ~聖林寺~

2022-02-06 23:42:43 | 史跡を歩く

 多武峰街道から少し分かれて、寺川にかかる聖林寺橋を渡って聖林寺へ向かう。聖林寺の周辺は、のどかな田園風景が広がる。僕が訪れたときは、すでに稲の収穫は終わっていた。少し残念。

 とはいえ、天気よく、頭上には青空が広がっていて、気持ちの良い、清々しい秋らしい気候であった。いよいよ聖林寺である。

 お寺は、山の裾にを整地した石垣の上に建てられている。

  

 聖林寺は、藤原鎌足の子、定慧が和銅5(711)年に多武峰妙楽寺の別院として、この地に庵を結んだのが、始まりと伝えられる。しかしながら、定慧は、正史では、天智天皇4(666)年に死去しているので、あくまでも伝承のレベルではある。

 ただ、多武峰妙楽寺との関係は、古くからあり、平安末期には、妙楽寺と興福寺とのいさかいに巻き込まれ、妙楽寺とともに興福寺に焼き討ちされている。その後鎌倉時代に再興されている。

 

 ちなみに聖林寺の本尊は、江戸時代に造立された地蔵菩薩像である。著名な天平仏、十一面観音菩薩立像は、客仏となっている。つまり、もともとこの仏さまは、聖林寺にはなく、よそから来た仏さまである。

 明治時代、廃仏毀釈という政策がすすめられたことにより、三輪にあった大御輪寺が、廃されたことにより大御輪寺から、聖林寺に移されたという。

 和辻哲郎の『古寺巡礼』では、「この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。」という逸話を紹介している。しかし、別の話もあり、大御輪寺の最後の住職が、この聖林寺あたりの出の人であり、その人が、大御輪寺から、この仏さまを聖林寺に移したという話である。

 

 そういう話を聞くと、聖林寺の境内から三輪山の方がとてもよく見えるのも、何かの因縁のような気がする。

 

 聖林寺の国宝、十一面観音菩薩立像は、本堂から階段を登った収蔵庫(観音堂)に安置されている。

 

 この長い階段を登っていくと、観音堂がある。何となくではあるが、清浄な雰囲気がする。

 さて、聖林寺の十一面観音菩薩立像は、天平時代の仏像の最高傑作とも言われている。先も引用した和辻哲郎の『古寺巡礼』の中でも、「聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。」「きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったいまぶた、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。」とべた褒めである。他にもフェノロサや岡倉天心なども激賞している。多くの文人が、この仏さまに魅了されている。

 この時は、ほかに参観する人もおらず、観音堂の中で、十一面観音菩薩立像と一人で対峙することになった。何とも贅沢な時間である。

 確かに肩のあたりの造形は、う~んというところもあるのだが、手の指先などの繊細な感じがいい。美は細部に宿るという感じだ。

 観音堂の前には、俳人水原秋櫻子の碑が立っている。

 

 石碑には、「木の実降り ひよ鳴き天平観世音」という一句が刻まれている。

 

 狭い境内には、十三重石塔や石灯籠などが所狭しと置かれており、こじんまりとかわいらしいお寺であった。

 この日は、テレビか何かの取材が来ていて、本堂で住職さんがインタビューがされていた。本堂からも山と平野や三輪山がよく見える。

 そういえば、昨日(令和4年2月5日)から、奈良国立博物館で、聖林寺十一面観音像を中心とした企画展が開催されている。時間を作って、見に行くようにしよう。

 聖林寺からは、田畑の中を突っ切り、再び多武峰街道に合流する。しばらく歩くと倉橋のバス停についた。

 


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